最初は、気のせいだと思った。
マイクに向かって、息を吸う。
出だしは、問題ない。
低い音も、ミドルも、いつも通り。
――サビに入る。
喉の奥が、きゅっと縮んだ。
「あ......」
声が、裏返る手前で止まる。
音程に届かないまま、空気だけが抜けた。
「......ごめん、今のところもう一回」
自分で言って、もう一度息を吸う。
大丈夫。
いつもなら、ここは一番気持ちいいところだ。
なのに。
何度やり直しても喉が、閉まる。
無理に出そうとすると、首の筋が張って、苦しくなる。
声が、逃げ場を失ったみたいに、震えて消えた。
「......っ」
思わずマイクから顔を逸らす。
「大丈夫か?」
凛音が、ギターを鳴らしたまま言う。
責める口調じゃない。
事実を確認するみたいな、淡々とした声。
「......悪い、今日調子悪いみたいだわ!」
そう答えたけど、自分が一番信じてなかった。
◆
家で、ひとり練習する。
小さな声で、サビに入る。
――詰まる。
喉が、言うことを聞かない。
力を抜いても、深く息を吸っても、
高音に行く瞬間だけ、内側からブレーキがかかる。
「......なんで」
小さく呟く。
鏡に映る自分は、ちゃんと口を開けてる。
なのに、出ない。
頭の奥で、母さんの声が重なる。
――音楽はダメ。
その瞬間、喉が、ぎゅっと締まる。
「......くそ」
床に座り込んで、膝を抱えた。
歌えなくなる怖さが、じわじわ、体を侵食していくようだった。
◆
スタジオ。
凛音は、何も言わずに合わせてくれる。
テンポも、キーも、無理に変えない。
それが、逆にプレッシャーだった。
サビ。
また、出ない。
「......ごめん」
言うたびに、自分が削れていく。
「本番まで、まだ時間あるからな!」
「......でも」
その優しさが、胸に刺さった。
帰り道、何度も考える。
このまま、治らなかったら。
本番でも、出なかったら。
――俺は、何をやってるんだ。
◆
サビに入る、ほんの一拍前。
体が勝手に強張った。
肩に力が入る。
息が浅くなる。
――まただ。
歌う前から、もう分かっている。
出そうとすればするほど、喉が閉じていく。
高音が、まるで“危険信号”みたいに、脳に刷り込まれていた。
「悠真」
凛音が、演奏を止める。
「一回、休むか」
「......悪い」
その言葉を口にするたび、胸の奥が軋む。
毎回、凛音に気を遣わせてる自分が、どうしようもなく嫌だった。
本番は、もう来週だ。
なのに良くなるどころか、日に日に歌えなくなっている気がする。
「俺......」
やっと、口を開いた。
「あと何日か、様子見てそれでも歌えなかったら......」
その先が、どうしても言えなかった。でも、凛音は察したみたいに、低い声で言った。
「やめるとか言うなよ」
「......今の状態で続けても、迷惑かけるだけだ。それにもし、本番で出なかったら――」
「それで?」
凛音の声が、被さる。
感情を押し殺した、静かな声。
「それで、やめる?」
凛音が、ギターを強く握った。
弦が、かすかに鳴る。
「毎日やってれば、調子が悪い日もあるって」
「じゃあ、いつになったら出るんだよ!」
叫ぶように返していた。
八つ当たりだって、分かってる。
それでも、止められなかった。
「これ以上、お前に迷惑かけたくねぇんだよ!」
吐き出すみたいに言った。
「だから今からでも、ほかのやつ探して――」
「......は?」
低く、荒れた声だった。
顔を上げると、凛音が睨んでいた。
笑っていない。冗談でもない。
「お前さ」
一歩、距離を詰められる。
「俺がいつ、迷惑だなんて言ったよ!」
「でも、俺が足引っ張ってんのは事実だろ!」
喉の奥が焼ける。
凛音は、短く息を吐いた。
「違う」
即答だった。
「それを“迷惑”って決めてんのは、お前だろ」
言い切る声が強くて、逃げ場がなくなる。
「逃げる理由を、俺に押し付けんじゃねぇよ!」
胸が詰まる。
言い返そうとして、言葉が出なかった。
その沈黙に、凛音が気づいたみたいに、少しだけ言葉を切った。
視線を外し、床を見る。
「......“ほかのやつ”って、なんだよ」
声の荒さが、少しだけ落ちていた。
怒りが消えたわけじゃない。
ただ、別の感情が混じっただけだ。
「そんな簡単に、代わりとか言うな」
ギターを握る指に、力が入る。
「俺はさ」
一拍、間を置いてから、続ける。
「お前じゃなきゃ、意味ねぇんだよ」
その言葉が、胸に残った。
怒鳴られたよりも、ずっと重く響く。
「......俺は今、歌うのが、しんどい」
掠れた声で、そう呟く。
「今日は帰るわ」
「悠真!」
凛音の声を、聞かなかった。
ギターケースを避けるようにして、ドアへ向かう。
「待てよ!」
ドアを開ける。
振り返らなかった。
「ごめん」
それだけ残して、走り出した。
どれくらい走ったのか、分からない。
息が苦しくて、喉がひりついて、それが歌えない苦しさなのか、後ろめたさなのかも、分からなかった。
凛音の顔が、何度も浮かぶ。
怒った顔。
悔しそうな目。
それでも最後に言った、「お前じゃなきゃ、意味ねぇんだよ」という言葉。
何度も、あの言葉を思い出してしまう。
強がりでも、勢いでもなかった。
凛音は、あのとき本気だった。
それが分かるから、胸の奥がじくっと痛む。
......嬉しかった。
そう認めた瞬間、喉がきゅっと締まった。
代わりじゃない。
間に合わせでもない。
必要だって、そう言われた気がした。
凛音のギターは、いつも迷いがなかった。低くて、強くて、逃げ場のない音。一音鳴っただけで、空気が引き締まる。
だからこそ、その隣で応えられない自分が、ひどく惨めだった。
客席の顔。
ライトの熱。
サビに差しかかった瞬間、高音を出そうとして――きっと、喉が閉じる。
その一瞬で、空気が変わる。
ざわつく視線。
止まらないギター。
俺のせいで、あいつの音まで笑われるかもしれない。
それだけは――
どうしても、許せなかった。
自分が傷つくより、そっちのほうが、ずっと怖い。
足を引っ張りたくない。
迷惑をかけたくない。
全部、きれいな言葉にした言い訳だ。
本当は、失敗した自分を、凛音に見られるのが、怖い。
あいつが俺を選んでくれたからこそ、一番見せたくない瞬間を想像するだけで、体が拒否する。
それでも、胸の奥には残っている。
凛音と音が噛み合った、あの一瞬。
間違いなく、楽しかった。
そう思った瞬間、胸の奥に溜めていた熱が、耐えきれずに崩れた。
「......クソッ!」
吐き出すみたいに呟いて、視線を落とした。



