ノイズ爆音につき注意


 最初は、気のせいだと思った。

 マイクに向かって、息を吸う。
 出だしは、問題ない。

 低い音も、ミドルも、いつも通り。

 ――サビに入る。

 喉の奥が、きゅっと縮んだ。

「あ......」

 声が、裏返る手前で止まる。
 音程に届かないまま、空気だけが抜けた。

「......ごめん、今のところもう一回」

 自分で言って、もう一度息を吸う。

 大丈夫。
 いつもなら、ここは一番気持ちいいところだ。

 なのに。
 何度やり直しても喉が、閉まる。

 無理に出そうとすると、首の筋が張って、苦しくなる。
 声が、逃げ場を失ったみたいに、震えて消えた。

「......っ」

 思わずマイクから顔を逸らす。

「大丈夫か?」

 凛音が、ギターを鳴らしたまま言う。

 責める口調じゃない。
 事実を確認するみたいな、淡々とした声。

「......悪い、今日調子悪いみたいだわ!」

 そう答えたけど、自分が一番信じてなかった。



 家で、ひとり練習する。

 小さな声で、サビに入る。

 ――詰まる。

 喉が、言うことを聞かない。

 力を抜いても、深く息を吸っても、
 高音に行く瞬間だけ、内側からブレーキがかかる。

「......なんで」

 小さく呟く。

 鏡に映る自分は、ちゃんと口を開けてる。

 なのに、出ない。

 頭の奥で、母さんの声が重なる。

 ――音楽はダメ。

 その瞬間、喉が、ぎゅっと締まる。

「......くそ」

 床に座り込んで、膝を抱えた。

 歌えなくなる怖さが、じわじわ、体を侵食していくようだった。



 スタジオ。

 凛音は、何も言わずに合わせてくれる。
 テンポも、キーも、無理に変えない。

 それが、逆にプレッシャーだった。

 サビ。

 また、出ない。

「......ごめん」

 言うたびに、自分が削れていく。

「本番まで、まだ時間あるからな!」

「......でも」

 その優しさが、胸に刺さった。

 帰り道、何度も考える。

 このまま、治らなかったら。
 本番でも、出なかったら。

 ――俺は、何をやってるんだ。



 サビに入る、ほんの一拍前。
 体が勝手に強張った。

 肩に力が入る。
 息が浅くなる。

 ――まただ。

 歌う前から、もう分かっている。
 出そうとすればするほど、喉が閉じていく。

 高音が、まるで“危険信号”みたいに、脳に刷り込まれていた。

「悠真」

 凛音が、演奏を止める。

「一回、休むか」
「......悪い」

 その言葉を口にするたび、胸の奥が軋む。
 毎回、凛音に気を遣わせてる自分が、どうしようもなく嫌だった。

 本番は、もう来週だ。
 なのに良くなるどころか、日に日に歌えなくなっている気がする。

「俺......」

 やっと、口を開いた。

「あと何日か、様子見てそれでも歌えなかったら......」

 その先が、どうしても言えなかった。でも、凛音は察したみたいに、低い声で言った。

「やめるとか言うなよ」
「......今の状態で続けても、迷惑かけるだけだ。それにもし、本番で出なかったら――」
「それで?」

 凛音の声が、被さる。
 感情を押し殺した、静かな声。

「それで、やめる?」

 凛音が、ギターを強く握った。
 弦が、かすかに鳴る。

「毎日やってれば、調子が悪い日もあるって」
「じゃあ、いつになったら出るんだよ!」

 叫ぶように返していた。
 八つ当たりだって、分かってる。
 それでも、止められなかった。

「これ以上、お前に迷惑かけたくねぇんだよ!」

 吐き出すみたいに言った。

「だから今からでも、ほかのやつ探して――」
「......は?」

 低く、荒れた声だった。

 顔を上げると、凛音が睨んでいた。
 笑っていない。冗談でもない。

「お前さ」

 一歩、距離を詰められる。

「俺がいつ、迷惑だなんて言ったよ!」
「でも、俺が足引っ張ってんのは事実だろ!」

 喉の奥が焼ける。

 凛音は、短く息を吐いた。

「違う」

 即答だった。

「それを“迷惑”って決めてんのは、お前だろ」

 言い切る声が強くて、逃げ場がなくなる。

「逃げる理由を、俺に押し付けんじゃねぇよ!」

 胸が詰まる。

 言い返そうとして、言葉が出なかった。

 その沈黙に、凛音が気づいたみたいに、少しだけ言葉を切った。

 視線を外し、床を見る。

「......“ほかのやつ”って、なんだよ」

 声の荒さが、少しだけ落ちていた。

 怒りが消えたわけじゃない。
 ただ、別の感情が混じっただけだ。

「そんな簡単に、代わりとか言うな」

 ギターを握る指に、力が入る。

「俺はさ」

 一拍、間を置いてから、続ける。

「お前じゃなきゃ、意味ねぇんだよ」

 その言葉が、胸に残った。
 怒鳴られたよりも、ずっと重く響く。

「......俺は今、歌うのが、しんどい」

 掠れた声で、そう呟く。

「今日は帰るわ」

「悠真!」

 凛音の声を、聞かなかった。

 ギターケースを避けるようにして、ドアへ向かう。

「待てよ!」

 ドアを開ける。
 振り返らなかった。

「ごめん」

 それだけ残して、走り出した。

 どれくらい走ったのか、分からない。
 息が苦しくて、喉がひりついて、それが歌えない苦しさなのか、後ろめたさなのかも、分からなかった。

 凛音の顔が、何度も浮かぶ。

 怒った顔。
 悔しそうな目。
 それでも最後に言った、「お前じゃなきゃ、意味ねぇんだよ」という言葉。

 何度も、あの言葉を思い出してしまう。

 強がりでも、勢いでもなかった。
 凛音は、あのとき本気だった。

 それが分かるから、胸の奥がじくっと痛む。

 ......嬉しかった。

 そう認めた瞬間、喉がきゅっと締まった。
 代わりじゃない。
 間に合わせでもない。

 必要だって、そう言われた気がした。

 凛音のギターは、いつも迷いがなかった。低くて、強くて、逃げ場のない音。一音鳴っただけで、空気が引き締まる。

 だからこそ、その隣で応えられない自分が、ひどく惨めだった。

 客席の顔。
 ライトの熱。
 サビに差しかかった瞬間、高音を出そうとして――きっと、喉が閉じる。

 その一瞬で、空気が変わる。
 ざわつく視線。
 止まらないギター。

 俺のせいで、あいつの音まで笑われるかもしれない。

 それだけは――
 どうしても、許せなかった。

 自分が傷つくより、そっちのほうが、ずっと怖い。

 足を引っ張りたくない。
 迷惑をかけたくない。

 全部、きれいな言葉にした言い訳だ。

 本当は、失敗した自分を、凛音に見られるのが、怖い。

 あいつが俺を選んでくれたからこそ、一番見せたくない瞬間を想像するだけで、体が拒否する。

 それでも、胸の奥には残っている。

 凛音と音が噛み合った、あの一瞬。
 間違いなく、楽しかった。

 そう思った瞬間、胸の奥に溜めていた熱が、耐えきれずに崩れた。

「......クソッ!」

 吐き出すみたいに呟いて、視線を落とした。