ノイズ爆音につき注意

 明日は、ついにオーディションだ。

 部屋の明かりを落として、ベッドに腰掛ける。
 歌詞を表示したスマホを手に、イヤホンを耳に差し込んだ。

 音量は、ぎりぎり。
 隣の部屋に聞こえない程度。

 イントロが流れる。

 ......ここ、好きなんだよな。

 サビ前。
 あいつのギターが、低音で繰り返されるところ。
 同じフレーズなのに、少しずつ熱を溜めていくみたいで。

 そこから、一気に盛り上がる。

 この瞬間が、最高なんだ。

 胸の奥が熱くなって、
 気づいたら、口が動いていた。

 声は、出していないつもりだった。
 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 ――大丈夫だ。

 そのときの俺は、完全に浮かれていた。

 だから今までずっと守ってきた“当たり前”のことが、
 すっかり抜け落ちていた。

 バンッ――!

 突然、ドアが開く音がした。

 心臓が跳ねる。

 反射的に振り返ると、そこにいたのは母さんだった。
 血相を変えて、まっすぐ俺のほうに近づいてくる。

「悠真っ!!」

 耳からイヤホンを引き抜かれる。

「あんた、まだこんなことしてたの!?」

 その瞬間になって、分かった。

 ――聞こえてたんだ。

 俺は、歌ってないつもりだった。

 でも、母の手にあるスマホ。
 画面には、再生中の曲と、歌詞。

「......ちが......」

 言いかけた俺の言葉を、母は遮った。

「ちがうって、何がちがうの!」

 声が、必要以上に大きい。
 普段より半音高くて、張り付いたみたいに尖っている。

「......母さん」

 張り詰めた空気の中で、俺はできるだけ落ち着いた声を出した。

「今どきさ、流行りとか、音楽とかちゃんと知っとくのも、大事なんだよ」

 母は、まだ強張った顔のまま黙っている。

「友達との付き合いもあるし......」

 母の眉が、少しだけ緩んだ。

「......そ、そうよね」

 その声は、さっきより低かった。

「悠真だって、高校生だもの」

 まるで俺に言うというより、自分自身に言い聞かせているみたいだった。

「何もかも、禁止すればいいってわけじゃないわよね」

 深く息を吐いて、肩の力を抜く。

 俺は、内心で小さく息をついた。

 そして、母さんは念を押すように俺を見る。

「悠真、お母さんとの約束は破らないでね」

「......わかってるよ」

 短く頷いた。

 それ以上、何も言わなかった。
 言えば、また揺れそうな気がしたから。

 母が部屋を出ていく。

 ドアが閉まったあと、しばらく動けなかった。

 胸の奥に残ったのは、安心よりも、別の感情だった。

◆◆◆

 俺たちは、自分たちの順番が来るまで教室で時間を潰していた。

 オーディションは、今年は五組だけらしい。
 去年より少ない、という噂を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。

 教室には俺たちしかいない。
 窓の外から、運動場の掛け声だけが遠く響いてくる。

「うわー......緊張してきた」

 思わず零すと、凛音は案外あっさり笑った。

「大丈夫だって、いつも通りやれば」

 その言い方が、やけに自然で。
 昨日のことがあったせいか、余計に眩しく見えた。

 正直、気持ちはまだ上がりきらない。
 でも、ここまで来たんだ。

 ――歌いきらないと。

 昨日のことを、凛音に話そうか、一瞬だけ迷った。
 けど、話したところで困らせるだけな気がして、飲み込んだ。

「......そろそろ行くか」

 凛音が立ち上がる。
 椅子が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。

 俺も鞄を掴んで、立ち上がる。

 普段はほとんど使われない多目的室に入ると、空気が少し違った。
 スピーカーやアンプが壁際に並び、床にはコードが這っている。

 正面には、文化祭実行委員らしい生徒が三人と、顧問の先生が一人。
 何かを確認するように、紙にペンを走らせていた。

 俺たちに気づいた先生が顔を上げて、にこっと笑う。

「凛音チーム、だよね? 先に準備しちゃって」

 その一言で、胸が一気に現実に引き戻される。

「はい」

 凛音が短く返事をして、すぐアンプの前に向かった。
 カチ、とプラグを差し込む音。
 マイクスタンドを伸ばして、高さを合わせる。

 ――手が、少し震えてる。

 気づかれないように、深く息を吸った。
 凛音はもうチューニングを始めていて、その背中はいつもと変わらない。

 スピーカーの前に立つと、音を出す前なのに鼓動だけがやたら響く。

「じゃあ、お願いします」

 先生の声で、室内が静まる。

 俺は、凛音を見る。
 凛音も、ほんの一瞬だけこっちを見て、口角を上げた。

 ――大丈夫。

 その合図みたいな笑いに、肩の力が少し抜ける。

 カウントもなく、音が流れ出した。

 低いギターの音。
 何度も繰り返してきた、あの入り。

 体が先に覚えているみたいに、息を吸っていた。

 そして、口を開いた。

 最初の一音が、マイクを通って部屋に広がる。
 思ったより、ちゃんと声が出た。

 ......はずだった。

 次のフレーズに入る直前、頭の中に別の音が割り込んできた。

 ――悠真! あんたまだこんなことしてたの!?

 昨日の声。
 血相を変えた母さんの顔。

 俺、歌ってていいのか?

 喉が、一瞬ひきつる。
 次の歌詞が、出てこなかった。

 ......あれ。

 メロディだけが先に進んでいく。
 口は開いてるのに、音が乗らない。

 やばい。
 心臓が跳ねる。

「悠真!」

 名前を呼ばれて、はっとする。

 凛音がこっちを見ていた。
 ギターを弾きながら、眉を寄せて。

 ――今だ。

 頭が真っ白になる。

 やばいやばい。
 落ち着け。

 俺は、必死に息を吸った。

 最後の音が、途切れた。

 拍手はあった。
 けど、どこか現実味がなくて、耳をすり抜けていく。

「......ありがとうございました」

 先生の声に頭を下げて、機材を片づける。
 手元が、少し震えていた。

 多目的室を出ると、廊下はやけに静かだった。

 扉が閉まった瞬間、俺は立ち止まる。

「......ごめん」

 声が、思ったより小さくなった。

 凛音のほうを見ることができない。

「途中で歌詞、飛んだ。ちょっと、集中できてなくて......」

 言い訳みたいな言葉が喉まで来て、全部飲み込んだ。

「ほんと、ごめん」

 廊下の窓から、夕方の光が差し込んでくる。
 その中で、凛音が一歩だけ近づいた。

 それから、いつもの調子で笑う。

「大丈夫だって! あそこ以外は問題なかっただろ」

 肩をすくめて、軽く言う。

「......ほんとか?」
「ほんとほんと」

 凛音は俺の背中をぽん、と叩いた。

「一回ミスるくらい、誰でもあるって! 全部完璧なほうが逆に怖いわ」

 その一言で、張りつめていたものが、少し緩んだ。

「......ありがと」