ノイズ爆音につき注意

 次の日も、俺は同じ階段の踊り場に座っていた。

「はぁ......」

 息を吐くと、胸の奥がざわついた。

 ――よかったんかなぁ。

 勢いで頷いたあの瞬間が、何度も頭をよぎる。

「なんだ?」

 階段を上ってくる足音と一緒に、聞き慣れた声がした。

「今更、やっぱなしとか言うなよ」

 凛音だった。
 ギターケースを背負って、昨日と変わらない顔で立っている。

「......そんな顔してた?」
「してた。めちゃくちゃ悩でますって顔」

 図星で、視線を逸らす。

「よく考えたら、人前で歌えるようなキャラじゃなかったなって」

 凛音は少し考える素振りをしてから、肩をすくめた。

「そんなの楽しんじまえばいいんだよ」

 隣に座り、あっさり言う。

「......簡単に言うなよ」
「簡単だって。少なくとも、俺は楽しい」

 そう言って、ギターケースを軽く叩いた。

「それでだ!」

 急に声のトーンが上がる。

「曲、決めねーと。文化祭は曲選びが一番、大事だからな」

 凛音は指を折る。

「ノリがよくて、サビで一気に来て、歌ってて気持ちいいやつ」
「欲張りだな......」

 一瞬迷ってから、俺は聞いた。

「......普段、どんなの聴くんだ?」

 凛音は迷いなく答えた。

「それはもうバンド!」

 胸が、少しだけ跳ねる。

「......俺も」
「まじ?」

 凛音の表情が、はっきり変わった。
 楽しそうな、嬉しそうな顔。

「じゃあさ!」

 身を乗り出してくる。

「LANTERN FISH、好き?」

 一瞬、言葉を失う。

「まじで好き」

 その瞬間、凛音が声を上げた。

「だよな!!」

 思わず笑ってしまう。

「イントロ、最高だよな」
「分かる。最初のギターで一気に引き込まれる」

 会話が止まらない。
 昨日までほとんど話したことがなかったのが嘘みたいだ。

「じゃあ、LANTERN FISHの中で」

 凛音が言った。

「青春っぽくて、文化祭で盛り上がる曲って言ったら――」

 その瞬間、俺たちは同時に口を開いた。

「――『夜明け前、俺らは』」
「――『夜明け前、俺らは』だろ」

 一拍遅れて、互いに顔を見合わせる。

 凛音が吹き出した。

「満場一致じゃん!」

 胸の奥が、じんわり熱くなる。

「......なんかさ」

 思わず口に出た。

「急に、楽しみになってきた」

 凛音は満足そうに笑う。

「あとオーディションあるんだよ」

 凛音は階段の手すりに腰を預けて、気楽な調子で言った。

「......え?」

 間の抜けた声が出た。

「オーディションなんて、あんの?」
「当たり前だろ。誰でも出れたらステージ足りねぇって」

 凛音は笑いながら言う。

「それって、何人ぐらい出るんだ?」
「んー、ライブ枠は三つだけ。去年は七グループくらいだったかな」
「げ......」

 思わず、素直な声が漏れる。

「半分以上、落ちるじゃん」

 俺がそう言うと、凛音は肩をすくめて、俺の腕を軽くつついた。

「落ちること考えてても仕方ねぇだろ」

 深刻さはなくて、むしろ楽しそうで。

「落ちたときは落ちたときだ!」

 その言葉に、思わず笑ってしまう。
 なんでも凛音は全部を“楽しいほう”に持っていく。

「お前、前向きすぎだろ」
「悪いかよ」

 へらっと笑う凛音を見て、胸の奥が少し軽くなった。

 オーディション。落ちるかもしれないし、うまくいかないかもしれない。

 それでも――今は。

「まあ......やるからには、な」

 それから毎日、俺たちは放課後になると、この階段の踊り場に集まるようになった。

 最初はぎこちなかった。テンポが噛み合わなかったり、入りを間違えたり、サビでずれたり。
 それでも、不思議と楽しかった。

 好きな音楽の話で盛り上がれて、同じ音を追いかける相手がいる。
 それだけで、なんだか全部が新鮮だった。

 授業中、ノートを取りながら考えるのは、次の練習のことばかりだ。
 どこで息を吸うか。
 どのタイミングで声を乗せるか。

 こんなふうに、何かに夢中になるのは初めてだった。

 合わなかったテンポも、少しずつ、確実に揃ってくる。
 昨日できなかったところが、今日はできる。それが素直に、嬉しかった。

 それに――凛音のギターは、俺が思っていた以上にうまかった。

 コードを鳴らす指は迷いがなくて、リズムも安定している。
 冗談抜きで、将来プロを目指せるんじゃないかと思うくらいだった。

 その音に乗せて歌うたび、胸が高鳴る。

 早く、歌いてぇな。

 そんなことを思っていると拓也が俺を見て言った。

「最近のお前なんか、楽しそうだな」
「え、そうか?」
「おう。目が死んでない」
「もともと死んでねぇーよ」

 そう返すと、拓也はニヤニヤっと笑う。

「なんだ? 彼女でもできたのか」
「そんなんじゃねぇーし」

 即答すると、拓也はますます面白そうな顔をした。

 俺、そんなに楽しそうな顔してたのか?

 そう考えているうちに、教室の扉が開いて先生が入ってくる。
 いつもの帰りの挨拶。
 チャイムが鳴って、ざわついていた空気が一気にほどけた。

「悠真、行こうぜ」
「あぁ」

 短く返して、俺たちは教室を出る。
 向かう先は、もう決まっていた。

 ギターケースを下ろしながら、凛音が弦を軽く鳴らす。
 チューニングを合わせながら、ぽつりと言った。

「そろそろさ、アンプ繋げてやりたいよな」
「確かに繋げた方が練習にもなるし」

 生音も悪くないけど、やっぱり限界はある。

「お前、軽音部なんだろ? 部室で、できねぇの」
「俺ら人数多くてさ。バンドごとに使えるの、二週間に一回なんだよ」

 凛音は肩をすくめる。

「俺ひとりだったから、枠もらえてねぇし」
「それで一回も合わせないの、きつくないか?」
「そうだよなー」

 一瞬考えてから、凛音は急に顔を上げた。

「......いっそ、スタジオ借りるか?」

 そう言って、ポケットから携帯を取り出す。
 画面をスクロールしながら、声が少し弾んだ。

「学割で一時間千二百円。意外と安くね?」
「割れば六百円か」
「最低でも三時間は欲しいよな」
「じゃあ、一人千八百円」

 結局、スタジオは金曜日の放課後に予約することになった。

 画面を見ながら二人で時間を決めて、予約完了の文字を確認する。
 それだけで、胸の奥が少し浮いた。

「やっと、アンプ繋げれる!」
「スピーカーあるのもいいよな」

 そんな会話をしながら、その日の帰りはなんとなくコンビニに寄った。
 冷凍ケースの前で迷って、結局それぞれアイスを一つずつ取る。

 店を出て、コンビニの前。
 夕方の風に当たりながら、溶ける前にと急いで口に運ぶ。

「これ、うっっま!」
「限定のいちごってなんでも合うよなー」

 そんな、どうでもいい会話をしていた。

 そんなときだった。
 横を通り過ぎた同じ制服の男子が、足を止める。

「あれ、凛音じゃね?」
「え、ほんとだ」

 もう一人が、俺の隣に立つ凛音を見て言った。

「お前、まだギターやってんだな」

 声をかけられて、凛音が短く答える。

「まぁな」

 俺は、ちらっと凛音の顔を見る。
 笑ってはいるけど、どこか無理をしている感じがした。

「なぁ」

 男は俺のほうを見て言う。

「お前もさ、こいつと組むのやめたら?」

 一瞬、意味がわからなかった。
 理由もないのに、胸の奥がカッと熱くなる。

「なんでだよ」

 思ったより、強い声が出た。

「こいつのギター、すげぇの知らねぇのか?」

 自分でも驚くくらい、はっきり言っていた。
 男たちは顔を見合わせて、鼻で笑う。

「まぁ、好きにしろよ」
「今度は長く続くといいな」

 そう言い残して、去っていく。
 残された空気だけが、少し冷たかった。

「......悪い」

 凛音が、ぽつりと言う。

「なんで謝んだよ」

 溶けかけたアイスをもう一口かじる。
 甘さの奥に、少しだけ苦さが混じっていた。

「......俺さ」

 アイスの棒を指で弄びながら、凛音が口を開いた。

「前は、あいつらと組んでたんだ」

 それだけ言って、一度言葉を切る。
 視線は、どこか遠くを見ていた。

◆◆◆

 軽音部に入ったのは、単純に音楽が好きだったからだ。
 ギターを弾くのが楽しくて、音を重ねるのが好きで、誰かと一緒にやりたいと思った。

 入部してすぐ、各パートが揃った。
 ボーカル、ギター、ドラム、キーボード。
 自然とバンドができて、部室に集まった最初の日。

「やるからには、ガチでやろうぜ!」

 誰かがそう言って、みんなで笑った。
 その笑顔を見て、俺は本気で思ったんだ。
 あぁ、やっと同じ方向を向けるやつらに出会えた、って。

 最初の頃は、本当に楽しかった。
 音を出すだけでテンションが上がって、うまくいかないことすら、全部が青春みたいで。

 でも、少しずつ違和感が出てきた。

 練習に来ないやつが増えた。
 来ても、譜面を覚えていなかったり、スマホを触っていたり。

 最初は気にしないようにしてた。
 部活だし、強制じゃない。そう言い聞かせた。

 けど、音を合わせる時間は限られている。
 一回一回の練習が、無駄になっていく感覚があった。

「なぁ、もうちょっと練習してこいよ」

 ある日、つい口に出た。

「合わせる時間少ねぇんだから、せめてそれまでに覚えてこいって」

 部室の空気が、一瞬で重くなる。

「そんなガチにならなくてよくね?」

 誰かが、笑いながら言った。

「俺たちは楽しくやれればそれでいいんだよ」

 その言葉に、何も返せなかった。

 楽しいって、なんだ。
 適当に音を出すことか。
 中途半端なまま終わることか。

 俺はただ、いい曲にしたかっただけなのに。

「なんで練習にこねぇんだよ!」

 別の日、苛立ちが募って、言い方が強くなった。

「うるせぇな」
「お前ひとりで、何もできねぇくせに」

 その一言が、胸に刺さった。

 正しいとか、間違ってるとかじゃない。
 もう、俺とあいつらは同じ場所に立ってなかった。

 部室に向かう廊下で、後ろから声が聞こえた。

「凛音、まじでだるいよな」
「空気壊してんの、わかんねぇのかな」

 足が止まった。
 振り返ることもできず、そのまま歩き続けた。

 俺は、間違ってたのか。
 本気でやりたいって思うのは、そんなにダメなことなのか。

 次の日。

「......俺ら、バンド辞めるわ」

 突然だった。

「は?」
「だからさ」

 目を合わせないまま、淡々と言われた。

「お前、ひとりでやってろよ」

 それで終わりだった。

 部室に行っても、誰もいなかった。
 音のない部室で、ギターケースだけがやけに重かった。

 ひとりで弦を鳴らしても、音は返ってこなかった。

◆◆◆

 そのあと、しばらく沈黙が続いた。
 俺はなんて言えばいいのかわからなかった。

 励ますべきなんだろう。
 「気にすんな」とか、「お前は悪くない」とか。
 そういう正解っぽい言葉はいくらでも浮かぶのに、どれも凛音には軽すぎる気がして、喉の奥で引っかかった。

 結局、気の利いたことは言えなかった。だから、思ってることを言うことにした。

「俺はさ......最初、正直ちょっと無理やりだったと思ってる」

 自分でも驚くくらい、声は静かだった。
 凛音が顔を上げる。

 俺は目を逸らさず、そのまま続けた。

「でも――」

 一拍置いて、息を吸う。

「お前がギターで、よかったって思ってる」

 余計な言葉はいらなかった。
 上手いとか、才能があるとか、そんな評価じゃない。

「それだけはまじだから」

 ただ、あの音が好きだった。
 必死で、妥協しなくて、ひとりでも音を出そうとする、あのギターが。

「お前......そんな恥ずいだろ!」

 凛音はそう言って、俺の肩を容赦なく叩く。

「イッタ!!」

 間抜けな声を上げると、凛音は俺の肩に腕を回して、そのままぐっと揺さぶってくる。

「お前照れてんだろ」
「照れてねぇーし!」
「いや、顔赤いし」
「うるせぇ!」

 文句を言いながらも、凛音の声はどこか弾んでいた。