高校三年生になった実感は、正直ほとんどなかった。
制服の袖が少し短くなったことと、周りが「進路」の話をし始めたことくらいだ。
毎日は驚くほど平凡で、そして少しだけ退屈だった。
朝起きて、制服を着て、電車に揺られて、授業を受ける。
特別な出来事なんて、なにひとつない。
夏休み前の教室は、まだどこか浮ついている。
窓から入り込む風に、誰かの笑い声が廊下から聞こえた。
クラスメイトたちが「三年って実感わかないよな」と笑っている。
そんな中、朝から受験用の参考書を広げているのは、たぶん俺くらいだ。
「......はぁ」
ため息をつきながらシャーペンを回していると、後ろから声がした。
「おはよー......って、朝から勉強?」
振り返ると、拓也が眠そうな顔で立っていた。
ネクタイは少し曲がっていて、鞄も適当に机の横に放り投げる。
拓也は小学生からの幼じみでまぁ、腐れ縁ってやつだった。
「おはよう」
そう返すと、拓也は俺の机の上を覗き込んでくる。
「マジで尊敬するわ。俺なんて昨日の夜、参考書開いただけで満足して寝たぞ」
「......お前だって、もう受験生だろ」
「俺は夏休みから本気だすんだよ」
「それ、一生始まらないやつだな」
そう言うと、拓也は肩をすくめて笑った。
「分かってるって。でもさ、やりたいことも特にないし。大学行けりゃどこでもいいかなーって」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
やりたいことがない。
それは、俺も同じだったから。
教師になれ、と母は言う。
安定していて、立派で、間違いのない道だと。
だから俺は、言われるままに勉強している。
それが正しい選択なのかどうか、考えたことはなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
拓也が席に座り、机に突っ伏す。
教室には少しずつ人が増え、いつもの朝の音が戻ってくる。
そんな中、教室の一角がやけに騒がしいことに気づいて、俺はそちらに視線を向けた。
「なあ、マジでお前でいいから文化祭、出てくれ!」
「だから嫌だって。俺、歌えねぇーし。何回も言ってんだろ!」
軽い調子で断られて、周りからどっと笑いが起きる。
「あいつ、また振られてやんの」
隣で拓也が肩を揺らして笑った。
「何やってんだ?」
「文化祭のバンド枠。あれ出たいらしいんだけどさ、ギター、一人なんだよ」
「へぇ......」
視線の先にいたのは、坂本凛音
「坂本って、ギターできたんだな」
「軽音部らしいぞ」
明るくて、声がでかくて、いつも誰かに囲まれている。
いかにもクラスの盛り上げ役、というタイプでだ。
三年生になって、はや三か月。それなのに、俺はまだ凛音とまともに話したことがなかった。
まあ、当然だ。
俺とあいつは、あまりにもタイプが違う。
この先も関わることなんてないだろう。
「そういえばさ。お前、歌うの好きだったろ。一緒に組んでやれば?」
拓也が、からかうみたいに笑いながら言った。
「はは、いつの話だよそれ」
俺は肩をすくめて、シャーペンを指先でくるりと回す。
楽しそうに笑う凛音を見て、胸の奥がほんの少しだけ、ざわついた。
理由は分からない。
ただ――いつも退屈な教室の中で、あいつが楽しそうで......それが、少しだけ羨ましかった。
◆◆◆
授業が終わり、今日は三棟の掃除当番だった。
男気じゃんけんに負けて、俺の役目は塵取り。最後まで残る、いちばん面倒なやつだ。
三棟は旧校舎だった。
掃除以外で誰かが来ることはほとんどない。ましてや、一番上の階段なんて俺が知る限り、誰かと鉢合わせたことは一度もなかった。
掃除を終えて、塵取りを片付ける。
......もう、いいか。
階段に腰を下ろし、鞄を足元に置く。
チャックを開けて、イヤホンとスマホを取り出した。
ここだけが唯一、俺が音楽を聴くことを許された場所だった。
イヤホンを耳に差し込み、画面をタップする。
好きなバンドだけを集めたプレイリスト。
イントロが流れた瞬間、世界が一気に切り替わる。
低く鳴るギター。
少し遅れて入ってくるドラムのビート。
胸の奥を叩くようなリズムに、自然と呼吸が合っていく。
――ああ、やっぱり、最高だ。
目を閉じると、音が体の内側を満たしていく。
さっきまでの疲れも、退屈な一日も、全部どうでもよくなった。
サビに入った瞬間、抑えていたものが弾ける。
「......っ」
喉の奥から、声が漏れた。
ギターが駆け上がる。
ドラムが背中を押す。
胸が苦しくなるほど、気持ちが高揚して、気づけば声は少しずつ大きくなっていた。
熱が、体の奥から込み上げてくる。
――歌いたい。
そう思った瞬間、もう止まらなかった。
サビの最後。
一番高い音。
俺は思わず、力を込めて歌ってしまう。
一気に音が広がって、胸が熱くなる。
「――――っ」
息を吸って、声を乗せる。
イヤホンの音に負けないように、自然と声が強くなる。
――ここなら、いいだろ。
誰もいない。
誰にも見られていない。
その、はずだった。
――カン、カン。
階段を駆け上がる音が、微かに響いた。
心臓が跳ねる。
「......っ」
次の瞬間、イヤホンを外す間もなく――
「――みつけた!!」
弾けるような声が、静まり返った旧校舎に響いた。
階段を駆け上がってきたのは、凛音だった。
息を切らしながら、でも満面の笑みで、俺を指さしている。
「やっぱりここだった! さっきの声、お前だろ!」
「ち、ちが......」
慌ててイヤホンを外そうとする俺をよそに、凛音はさらに一歩近づいてくる。
「すっげぇ! お前、めっちゃ歌うまいな!」
凛音が目を輝かせる。俺は誤魔化すのは無理だと判断してため息を吐く。
「どっから聞いて......」
「最初から最後まで!」
悪びれる様子もなく、親指を立てて笑う。
「最高だった。サビ入った瞬間、空気変わったもん」
「あ、ありがとう?」
「俺、坂本凛音。さすがにクラス一緒だから知ってるか?」
凛音は明るく笑いながら言った。
「それでだ」
俺は嫌な予感がした。
「無理。やらない」
即答だった。
「まだ何も言ってねーじゃん」
「分かるから」
俺の即断に、凛音は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「即断されると傷つくっての!」
それでも引く気配はまったくない。
凛音は当たり前のように話を続ける。
「俺、メンバー探してた」
「......それで?」
「ボーカル、決まり」
言い切る凛音の声に、思わず心臓が跳ねた。
「お前......」
言いかけて、声が詰まる。
ずっと決めてきたはずの――“歌わない”という約束が頭をよぎる。
凛音は俺の反応を待たずに、少しだけ声を落とした。
「好きなんだろ。歌」
その一言が、胸の奥に突き刺さる。
言い返したいのに、言葉は出てこなかった。
頷きそうになったとき、ふと母の顔が頭をよぎった。
「......俺は、歌っちゃダメなんだよ」
凛音は少し眉をひそめ、真っ直ぐに俺を見つめる。
「なんでだよ」
その目の熱さに、思わず息が詰まった。
こいつは、どこまで踏み込んでくるつもりなんだろう。
でも、逃げられる気もしなかった。
ため息をひとつ吐く。
気づけば、俺はぽつりぽつりと、母の言葉や父のこと、を話していた。
言葉にするたび、胸の奥の重さが少しずつ揺れ動く。
凛音は黙って聞いていた。
そして、話し終わったあと、笑みを浮かべて言った。
「俺と一緒だな!」
「え?」
思わず声が出た。そんな返答は予想していなかった。
凛音は肩をすくめ、楽しそうに笑う。
「俺の家は医者家庭でさ。親は当然、俺を医者にしようとしてたんだ」
言いたいことを全部言うみたいに、凛音は続けた。
「当然ギターなんてやめろって言われたけど......一度あの高揚感を知ったら、もうやめられねぇだろ」
笑いながら言う凛音の目が、楽しげに輝いていた。
「文化祭。一回だけでいい」
俺は思わず苦笑する。
「お前、俺の話聞いてたか?」
「やろうぜ、悠真! ぜっったい楽しいから!」
その笑顔に、俺は言葉を返せずに黙り込んだ。
夕焼けの光が凛音の輪郭を赤く染め、無邪気さが眩しく見えた。
心の奥で、ずっと押し込めてきた音楽への想いが、少しずつ震え始めるのを感じる。
そして、気づけば俺は思わず頷いていた。
――そうだ、俺もまだ、捨てきれていないんだ。
制服の袖が少し短くなったことと、周りが「進路」の話をし始めたことくらいだ。
毎日は驚くほど平凡で、そして少しだけ退屈だった。
朝起きて、制服を着て、電車に揺られて、授業を受ける。
特別な出来事なんて、なにひとつない。
夏休み前の教室は、まだどこか浮ついている。
窓から入り込む風に、誰かの笑い声が廊下から聞こえた。
クラスメイトたちが「三年って実感わかないよな」と笑っている。
そんな中、朝から受験用の参考書を広げているのは、たぶん俺くらいだ。
「......はぁ」
ため息をつきながらシャーペンを回していると、後ろから声がした。
「おはよー......って、朝から勉強?」
振り返ると、拓也が眠そうな顔で立っていた。
ネクタイは少し曲がっていて、鞄も適当に机の横に放り投げる。
拓也は小学生からの幼じみでまぁ、腐れ縁ってやつだった。
「おはよう」
そう返すと、拓也は俺の机の上を覗き込んでくる。
「マジで尊敬するわ。俺なんて昨日の夜、参考書開いただけで満足して寝たぞ」
「......お前だって、もう受験生だろ」
「俺は夏休みから本気だすんだよ」
「それ、一生始まらないやつだな」
そう言うと、拓也は肩をすくめて笑った。
「分かってるって。でもさ、やりたいことも特にないし。大学行けりゃどこでもいいかなーって」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
やりたいことがない。
それは、俺も同じだったから。
教師になれ、と母は言う。
安定していて、立派で、間違いのない道だと。
だから俺は、言われるままに勉強している。
それが正しい選択なのかどうか、考えたことはなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
拓也が席に座り、机に突っ伏す。
教室には少しずつ人が増え、いつもの朝の音が戻ってくる。
そんな中、教室の一角がやけに騒がしいことに気づいて、俺はそちらに視線を向けた。
「なあ、マジでお前でいいから文化祭、出てくれ!」
「だから嫌だって。俺、歌えねぇーし。何回も言ってんだろ!」
軽い調子で断られて、周りからどっと笑いが起きる。
「あいつ、また振られてやんの」
隣で拓也が肩を揺らして笑った。
「何やってんだ?」
「文化祭のバンド枠。あれ出たいらしいんだけどさ、ギター、一人なんだよ」
「へぇ......」
視線の先にいたのは、坂本凛音
「坂本って、ギターできたんだな」
「軽音部らしいぞ」
明るくて、声がでかくて、いつも誰かに囲まれている。
いかにもクラスの盛り上げ役、というタイプでだ。
三年生になって、はや三か月。それなのに、俺はまだ凛音とまともに話したことがなかった。
まあ、当然だ。
俺とあいつは、あまりにもタイプが違う。
この先も関わることなんてないだろう。
「そういえばさ。お前、歌うの好きだったろ。一緒に組んでやれば?」
拓也が、からかうみたいに笑いながら言った。
「はは、いつの話だよそれ」
俺は肩をすくめて、シャーペンを指先でくるりと回す。
楽しそうに笑う凛音を見て、胸の奥がほんの少しだけ、ざわついた。
理由は分からない。
ただ――いつも退屈な教室の中で、あいつが楽しそうで......それが、少しだけ羨ましかった。
◆◆◆
授業が終わり、今日は三棟の掃除当番だった。
男気じゃんけんに負けて、俺の役目は塵取り。最後まで残る、いちばん面倒なやつだ。
三棟は旧校舎だった。
掃除以外で誰かが来ることはほとんどない。ましてや、一番上の階段なんて俺が知る限り、誰かと鉢合わせたことは一度もなかった。
掃除を終えて、塵取りを片付ける。
......もう、いいか。
階段に腰を下ろし、鞄を足元に置く。
チャックを開けて、イヤホンとスマホを取り出した。
ここだけが唯一、俺が音楽を聴くことを許された場所だった。
イヤホンを耳に差し込み、画面をタップする。
好きなバンドだけを集めたプレイリスト。
イントロが流れた瞬間、世界が一気に切り替わる。
低く鳴るギター。
少し遅れて入ってくるドラムのビート。
胸の奥を叩くようなリズムに、自然と呼吸が合っていく。
――ああ、やっぱり、最高だ。
目を閉じると、音が体の内側を満たしていく。
さっきまでの疲れも、退屈な一日も、全部どうでもよくなった。
サビに入った瞬間、抑えていたものが弾ける。
「......っ」
喉の奥から、声が漏れた。
ギターが駆け上がる。
ドラムが背中を押す。
胸が苦しくなるほど、気持ちが高揚して、気づけば声は少しずつ大きくなっていた。
熱が、体の奥から込み上げてくる。
――歌いたい。
そう思った瞬間、もう止まらなかった。
サビの最後。
一番高い音。
俺は思わず、力を込めて歌ってしまう。
一気に音が広がって、胸が熱くなる。
「――――っ」
息を吸って、声を乗せる。
イヤホンの音に負けないように、自然と声が強くなる。
――ここなら、いいだろ。
誰もいない。
誰にも見られていない。
その、はずだった。
――カン、カン。
階段を駆け上がる音が、微かに響いた。
心臓が跳ねる。
「......っ」
次の瞬間、イヤホンを外す間もなく――
「――みつけた!!」
弾けるような声が、静まり返った旧校舎に響いた。
階段を駆け上がってきたのは、凛音だった。
息を切らしながら、でも満面の笑みで、俺を指さしている。
「やっぱりここだった! さっきの声、お前だろ!」
「ち、ちが......」
慌ててイヤホンを外そうとする俺をよそに、凛音はさらに一歩近づいてくる。
「すっげぇ! お前、めっちゃ歌うまいな!」
凛音が目を輝かせる。俺は誤魔化すのは無理だと判断してため息を吐く。
「どっから聞いて......」
「最初から最後まで!」
悪びれる様子もなく、親指を立てて笑う。
「最高だった。サビ入った瞬間、空気変わったもん」
「あ、ありがとう?」
「俺、坂本凛音。さすがにクラス一緒だから知ってるか?」
凛音は明るく笑いながら言った。
「それでだ」
俺は嫌な予感がした。
「無理。やらない」
即答だった。
「まだ何も言ってねーじゃん」
「分かるから」
俺の即断に、凛音は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「即断されると傷つくっての!」
それでも引く気配はまったくない。
凛音は当たり前のように話を続ける。
「俺、メンバー探してた」
「......それで?」
「ボーカル、決まり」
言い切る凛音の声に、思わず心臓が跳ねた。
「お前......」
言いかけて、声が詰まる。
ずっと決めてきたはずの――“歌わない”という約束が頭をよぎる。
凛音は俺の反応を待たずに、少しだけ声を落とした。
「好きなんだろ。歌」
その一言が、胸の奥に突き刺さる。
言い返したいのに、言葉は出てこなかった。
頷きそうになったとき、ふと母の顔が頭をよぎった。
「......俺は、歌っちゃダメなんだよ」
凛音は少し眉をひそめ、真っ直ぐに俺を見つめる。
「なんでだよ」
その目の熱さに、思わず息が詰まった。
こいつは、どこまで踏み込んでくるつもりなんだろう。
でも、逃げられる気もしなかった。
ため息をひとつ吐く。
気づけば、俺はぽつりぽつりと、母の言葉や父のこと、を話していた。
言葉にするたび、胸の奥の重さが少しずつ揺れ動く。
凛音は黙って聞いていた。
そして、話し終わったあと、笑みを浮かべて言った。
「俺と一緒だな!」
「え?」
思わず声が出た。そんな返答は予想していなかった。
凛音は肩をすくめ、楽しそうに笑う。
「俺の家は医者家庭でさ。親は当然、俺を医者にしようとしてたんだ」
言いたいことを全部言うみたいに、凛音は続けた。
「当然ギターなんてやめろって言われたけど......一度あの高揚感を知ったら、もうやめられねぇだろ」
笑いながら言う凛音の目が、楽しげに輝いていた。
「文化祭。一回だけでいい」
俺は思わず苦笑する。
「お前、俺の話聞いてたか?」
「やろうぜ、悠真! ぜっったい楽しいから!」
その笑顔に、俺は言葉を返せずに黙り込んだ。
夕焼けの光が凛音の輪郭を赤く染め、無邪気さが眩しく見えた。
心の奥で、ずっと押し込めてきた音楽への想いが、少しずつ震え始めるのを感じる。
そして、気づけば俺は思わず頷いていた。
――そうだ、俺もまだ、捨てきれていないんだ。



