ノイズ爆音につき注意

 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。窓の外はまだ薄暗くて、いつもの朝より静かだった。

 制服に袖を通し、鞄を肩にかける。

 リビングに行くと、母さんがシンクに向かっていた。
 休みの日なのに、いつも通り早起きして、食器を洗っている。

「あら、悠真。今日は早いのね」

 背中越しの声は、いつもと変わらない。

 俺は一歩、母さんの正面に立った。

「今日、文化祭で歌うから」

 水の音が、止まる。

「悠真その話は、あのとき......」

 母さんが振り向くより先に、言葉を重ねた。

「母さん! 見に来てよ」

 一瞬、時間が止まったみたいだった。

 俺はポケットから、学校で配られたチケットを取り出して差し出す。

「十時から一番、最初で歌うんだ」

 母さんの指が、ゆっくりチケットに触れる。

「母さん、絶対見に来てよ」

 願いじゃない。
 確認でもない。

 ――宣言だった。

 母さんは何も言わなかった。
 ただ、チケットを受け取って、少しだけ目を伏せた。

 俺はそれ以上、何も言わずに玄関へ向かう。

「行ってきます」

 背中で、母さんの声が聞こえた気がしたけれど、俺はもう振り返らなかった。

 校門をくぐると、いつもよりざわついていた。
 私服と制服が入り混じって、校舎の前は人で溢れている。

 みんな、ぞろぞろと体育館の方へ流れていく。俺はその流れを、逆らうように掻き分けた。

 ――遅れるわけにはいかない。

 体育館に入ると、上のカーテンはすべて閉められていて、並べられた椅子が、暗がりの中に整然と並んでいた。

 裏手に回ると、いくつものグループが最終確認をしていて、コードを繋ぐ音や小さく歌う声、緊張を紛らわすための冗談が絶え間なく響いていた。

 その中で――

「凛音ッ!」

 見つけた瞬間、体が勝手に動いていた。凛音が、ギターを肩にかけたまま振り向いた。

 俺は凛音に向き直った。

「俺......」

 一度、息を吸う。

「お前とステージに立ちたいんだ」

 凛音は、俯いていた顔をあげると真っ直ぐに、俺を見た。少しして口を開く。

「......待ってるって、言っただろ?」

 そう言って、いつものみたいに口角を上げた。

 胸の奥が、じんと熱くなる。

「練習してねぇけど、大丈夫なんだろうな?」

「あぁ」

 俺は、はっきり頷いた。

「もう全部、吹っ切れたから」

 嘘じゃない。
 強がりでもない。

 ここに来た。
 それが、答えだった。

 「――楽器の準備、入ります」

 マイク越しの声が、体育館に響く。

 しばらくして、OBスタッフが台車を押し、アンプやドラムが運ばれていく。

 ステージ脇で待っていると、実行委員の一人がこちらに来た。

「あの......」

 少し困ったように、言う。

「お二人、バンド名が書いてないんですけど。名前で呼んでいいですか?」

 凛音と目が合う。

「あ、そういえば決めてなかったな」
「どうする?」

 一瞬、迷った。
 でも、頭に一つだけ浮かんだ。

「......Noiseって、どうかな」

 凛音は、すぐに笑った。

「俺らに、ぴったりだな」

 あの、少しうるさくて。
 雑で。
 それでも、確かに楽しかった音。

 Noiseは、原点だ。

 三年最後に鳴らす音は、完成形じゃなくていい。
 上手くまとめなくてもいい。

 最初に、好きだと思った音を、もう一度。

 上手いかどうかじゃない。
 評価されるかどうかでもない。

 ただ、鳴らしたかったから鳴らした音。

 誰かにとっては雑音でも、自分たちにとっては、確かに“生きてる音”。

 だからこのバンドは、余計な修飾も、言い訳もいらない。

 Noise。

 不完全で、うるさくて、
 それでも消したくない――

 俺たちの音だ。

 少しして、体育館にオープニングの音楽が流れた。

 幕の向こうから、ざわざわとした気配が伝わってくる。

 校長先生の話が始まる。正直、内容はほとんど耳に入らなかった。胸の奥で、心臓の音だけがやけに大きい。

 ――ドクッ、ドクッ。

 長い挨拶が終わり、形式的な拍手が起こる。

 俺たちは、ステージ袖へ移動した。

「......やっぱ、緊張するな」

 喉が渇いて、そう漏らす。

 凛音は、ギターのストラップを肩に掛け直しながら笑った。

「はは。もうここまで来たら、楽しむしかねぇだろ」

 その声を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。

 俺は、凛音の横顔を見た。

 ステージに立つ前の、集中した表情。
 いつもと変わらない。

「......俺を誘ってくれて、ありがとう」

 一拍置いて、凛音が言う。

「まだ終わってねぇぞ」

 軽く、けど確かに。
 その一言が、背中を押した。

 スピーカーから、アナウンスが流れる。

『最初に文化祭を盛り上げてくれるのは――Noiseです』

 その名前を聞いた瞬間、胸が少しだけ熱くなった。

 幕が、ゆっくりと開いていく。

 光が差し込む。
 体育館の空気が、一気にこちらへ流れ込んでくる。

 客席が見えた。

「え、凛音じゃん!」
「......凛音ともうひとりだれ?」

 ひそひそとした声が、波みたいに広がる。

「悠真って、歌えんの?」

 その言葉が、耳に刺さる。
 でも、もう目は逸らさなかった。

 俺は、マイクを握る。

 冷たい金属の感触。
 震えが、手のひらに残る。

 深く息を吸う。

「......どうも、俺たちNoiseです」

 声が、スピーカーを通って返ってくる。

 凛音が、静かにギターを構える音がした。

「上手い演奏を期待してる人には」

 少しだけ、間を置く。

「たぶん、向いてないです」

 客席が、ざわつく。
 笑い声が、混じる。

「でも」

 マイクを、握り直す。

「絶対に後悔はさせません」

 凛音と、目が合う。

 俺は小さく、頷いた。

「......かましてやるよ!」

 ギィィィィィン―――

 凛音のギターが鳴った。

 一音目から、全部を持っていかれる。
 迷いも、不安も――まとめてかき消す音。

 低く唸るコードが体育館を満たして、床が、胸が、震えた。それに合わせて音楽が流れ始める。

 ――ああ。
 これだ。

 マイクを握る手に、力が入る。
 何も言わないのに、音で全部伝わった気がした。

 息を吸う。

 声を出した瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れた。

 震えた。
 喉が、声が、感情が。

 それでも、止めなかった。
 止められなかった。

 音にしなきゃ、全部こぼれてしまいそうで。

 声が裏返りそうになるのを、歯を食いしばって押し出す。
 視界が滲んで、ステージの照明がぼやけた。

 ――気持ちいい。

 こんなにも、苦しくて。
 こんなにも、最高で。

 音が、胸に当たる。
 跳ね返って、体の内側で鳴り続ける。

 凛音は、前だけを見ていた。
 視線も、指先も、迷いがない。ただ楽しそうにギターを弾いている。

 あの背中を見ていると、余計なことを考える暇なんてなかった。

 ――行け。

 そう言われているみたいだった。

 サビに入る。

 俺は、マイクを握り直す。

 手の震えは、もう怖くなかった。
 震えごと、声にしてやればいい。

 俺は大きく息を吸って叫ぶ。

 声が、音に混ざる。

 整っていない。
 荒い。
 でも、確かに“今”の声だった。

 喉が熱い。
 胸がいっぱいで、息が追いつかない。

 それでも、止めたくなかった。

 ライトが当たる。
 白くて、眩しくて、視界の端が滲む。

 でも、世界ははっきりしていた。

 凛音のギター。
 アンプの震え。
 床から伝わる振動。

 楽しい、という言葉じゃ足りない。

 嬉しいとも、違う。

 ただ――
 生きてる、と思った。

 この瞬間が、あとで何度も思い出すことになると、なぜか分かっていた。

 忘れられない。
 忘れたくない。

 きらきらして、少し眩しくて、胸の奥に、ずっと残る。

 Noiseは、ここにあった。

 不完全で、うるさくて、それでも確かに輝いている音。

 俺は、この一瞬のために、ここまで来たんだと思えた。

 ただ、それだけだった。

 ――母さん、見てるかな。

 客席の奥。
 光に紛れて、顔までは見えない。

 それでも、いる気がした。

 この音の中に。
 この声の先に。

 届いたらいいな、と思う。

 昔、母さんが好きだったはずの音楽。
 口ずさんでいたメロディ。
 車の中で流れていた、あの曲たち。

 その続きを、今は俺が歌っている。

 上手じゃなくていい。
 綺麗じゃなくてもいい。

 ただ、思い出してくれたらいい。

 音楽って、こんなだったなって。
 胸が、少しあったかくなる感じ。

 俺の声で、このNoiseの中で――

 そう思った瞬間、喉の奥が、じんと熱くなった。

 この音が、母さんの心に、ほんの少しでも触れられたなら――

 それだけで、今日ここに立った意味は、全部あった。

 観客が、湧いた。

 音が跳ね返るみたいに、体育館全体が、ざわりと揺れる。

 次の瞬間、暗転した客席に、光が咲いた。赤、青、白、色とりどりの光が、まるで星みたいに瞬いていた。

 最後のサビ。
 俺は、一歩、凛音に近づいた。

 凛音のギターが、強く鳴る。
 その音に、俺の声を重ねる。

 一緒になって、歌った。

 息がぶつかるほど近くで、同じリズムで、同じ瞬間を生きる。

 叫ぶみたいに、笑うみたいに。

 ――これだ。

 俺が、ずっと欲しかった音。

 最後のコードが凛音の指からゆっくりと弦を離す。
 余韻だけが、体育館の天井に溶けていく。

 一瞬の、静寂。

 そして――

 どっと、歓声が巻き上がった。

 拍手が、波みたいに押し寄せる。気づけば、全身汗だくだった。

「悠真!」

 凛音が、勢いよく抱きついてくる。

「俺ら、さっっっこうだったよな!!!」

 息が切れてるのに、笑顔だけは、子どもみたいだった。

 俺たちは肩を組んで、ステージの端から端まで、手を振った。

 光が揺れる。
 声が、跳ねる。

 Noiseは、確かに鳴りきった。

 不完全でも、最高の一音で。

 ステージを降りても、耳の奥で、まだ音が鳴っていた。

 ざわめきも、拍手も、全部ひっくるめて、遠くで揺れている。

 ふと、客席を見渡す。

 ――母さん。

 目が合った気がした。

 泣いてるのか、笑ってるのか、よくわからなかったけど。

 ただ、両手で、拍手していた。

 それだけで、胸がいっぱいになる。

 ああ、届いたんだ。

 凛音が、肩を軽くぶつけてくる。

「よかったな」

 Noiseは、もう雑音じゃない。

 俺たちが、確かに生きてた証だ。

 最後の拍手が、少しずつ落ち着いていく。

 その中で、俺は息を吸った。

 ――もう、大丈夫だ。