人通りの多い駅前に、俺は予定より二十分も早く着いてしまった。
ベンチの端に腰を下ろしたとき、視界の端に見覚えのあるケースが入った。
顔を上げる。
父さんだった。
記憶の中より、少し違って見えた。髪は伸びて、無精髭も生えている。でも、肩に掛けたギターケースだけは、昔のままだった。
それだけで、胸の奥が小さく鳴る。
「悠真」
名前を呼ばれて、立ち上がる。
「......久しぶり」
父さんは少しだけ笑ってから、俺を見下ろした。
「ご飯は食べたか?」
「まだ」
「じゃあ、何か食べに行くか」
あっさりした言い方だった。
まるで昨日も会っていたみたいに。
そして、連れてこられたのは、昔からよく行っていたファミレスだった。
家族で来て、帰りにアイスを食べて――そんな記憶が、席に座った途端に浮かぶ。
注文を終えてから、言葉が途切れた。
グラスの水を一口飲む音だけが、やけに大きく聞こえる。
先に口を開いたのは、父さんだった。
「悠真に会うのは......十一年ぶりか」
そう言って、少し考えるように間を置く。
「母さんは、元気か?」
「うん。元気だよ」
それだけ答える。それ以上は、言えなかった。
父さんがいなくなってから、母さんは休みの日も働いていた。
簡単に、元気だと言えるほど、何もなかったわけじゃない。
父さんは、テーブルの上で指を組んだ。
「......悠真」
そして、深く頭を下げた。
「すまなかった」
真正面からの謝罪だった。逃げ道のない、真剣な声。
俺は、何も言えなかった。
許すとか、許さないとか。そんな簡単な話じゃない。
少し間が空いてから、俺はようやく口を開いた。
「......俺が、許せることじゃないけど」
声は、思ったより落ち着いていた。
「父さんが、音楽を選んだのは......分からなくないんだ」
父さんの顔が、わずかに動く。
「捨てられなかったんだろ。音楽」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが繋がった気がした。
父さんは、何も言わなかった。
ただ、テーブルの端に置いたギターケースに、そっと視線を落とした。
音楽を選んだ人間の覚悟が、そこにある気がした。
逃げたのかもしれない。
でも同時に、向き合った結果でもある気がした。
「俺、クラスのやつと文化祭の間だけ、バンド組んでたんだ」
そう言うと、父さんの目が少しだけ動いた。
「そうなのか」
それだけの相槌なのに、不思議と続きを話したくなる。
そこから先は、拍子抜けするくらい普通だった。
学生みたいに、バンドの話をした。
安くて音が出やすいスタジオの話。
機材を揃える金がなくて、無理やり工夫した話。
父さんが学生の頃、初めてステージに立った日のこと。
知らなかった父さんの話を聞きながら、俺は、思っていたよりも自然に笑っていた。
ご飯を食べ終えて、皿が下げられる。
コップの水に手を伸ばした父さんが、ふっと言った。
「それで、悠真」
声のトーンが、少しだけ変わる。
「聞きたいことがあったんだろ」
その一言で、胸の奥が締まった。
俺は、テーブルの下で拳を握る。
ずっと、胸の奥に置いたままの問い。
逃げないように、視線を上げる。
「......父さんはさ」
喉が鳴る。
「今でも、音楽は好き?」
一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
父さんはすぐには答えなかった。
ただ、少しだけ考えるように視線を落とす。
やがて、静かに口を開いた。
「悠真、まだ時間あるか?」
「え......うん。大丈夫だけど」
「じゃあ、いいところに連れてってやる」
それだけ言って、席を立つ。
会計を済ませて、店を出る。
夜風が、頬に当たった。
俺は何も聞かず、ただ言われるがままに、父さんの背中についく。
父さんに連れられて入ったのは、駅前から少し外れた路地にある、小さなライブハウスだった。
看板の灯りは控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所。
扉を開けると、低い天井と独特の匂いが鼻を突く。
アンプの唸りと、人の気配が混ざった空気。
「高瀬さん」
中に入るなり、受付の兄ちゃんが声をかけてきた。
父さんは軽く手を上げて、親しげに言葉を交わしている。
ドリンクを一杯受け取って、奥へ進む。
「父さん、ここ......」
そう言いかけた、そのとき。
照明が落ちて、歓声が上がった。
「お前ら、盛り上がってけよーー!!」
マイク越しの声を合図に、音が爆ぜる。
小さなライブハウスの壁に反響した音が、逃げ場もなく体にぶつかってくる。
低音が腹に響いて、ドラムが胸を叩く。
照明がチカチカと点滅する。
その瞬間、視界が揺れた。
――思い出した。
初めて、父さんに連れてこられたライブハウス。
大人ばかりの中で、俺だけが場違いだったあの日。
それでも。
音が鳴った瞬間、心臓が跳ね上がって、高鳴りが、どうしても抑えられなかった。
今も、同じだった。
知らないバンド。
知らない曲。
それなのに、音だけで胸の奥を掴まれる。
横を見ると、父さんはステージを見つめていた。
昔と同じ顔で。
何かを追いかけるみたいな目で。
ああ、と分かってしまう。
この場所に連れてきた理由を。
ライブが終わると、父さんは手慣れた様子で関係者用のドアを開けた。
薄暗い通路の先で、ひとりの男と顔を合わせる。
「まっちゃん、最高だったよ」
父さんがそう言って手を上げると、迷いなくハイタッチが返ってきた。
「おっ、坊主、初めて見るな」
男が俺を見る。
「俺の息子なんだよ」
「えっ、まじか!」
少し大げさな声に、父さんが笑う。
そのまま何言か交わしていたが、男は呼ばれてどこかへ行ってしまった。
関係者の部屋は、思ったより狭かった。
壁際に積まれた機材と、使い込まれた椅子。
音の余韻だけが、まだ空気に残っている。
「今、ここで働かせてもらってんだ」
父さんは椅子に腰を下ろしながら言った。
「その代わり、スタジオを安く貸してくれる」
「......父さん、まだバンドしてるの?」
俺が聞くと、父さんは一瞬だけ目を細めた。
「あぁ。一発屋って言われてるけどな」
軽く笑って、続ける。
「まだまだ、諦めるつもりはねぇよ」
その言葉は、強がりじゃなかった。
音の中に居続けてきた人間の、当たり前みたいな口調。
少し間を置いてから、父さんは俺を見る。
「さっきの答えだけど」
声が、少しだけ低くなる。
「俺は今でも、音楽が好きだ」
「......うん。見てたら、分かった」
父さんは、懐かしそうに息を吐く。
「母さんにプロポーズしたときもさ、自分で曲作って歌ったんだ」
俺は、少し驚いて父さんを見る。
「言葉にするの、苦手でよ」
照れたみたいに頭をかく。
「でも、言葉で伝えられないことも、歌なら伝えられた」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が、きゅっと締まった。
歌う前に、心が逃げる感覚。
それでも、音に乗せれば本音が出てしまう怖さ。
父さんは続ける。
「楽しいだけじゃない」
一拍、間を置いて。
「けどな......やっぱり、戻ってきちまうんだ」
音のある場所へ。
逃げたはずの、原点へ。
俺は、その背中を見て思った。
音楽を選ぶってことは、捨てられないものを抱え続けるってことなんだ、と。
「俺、歌っていいのかわかんなくなって」
父さんは短く息を吐いてから、俺を見る。
「悠真は歌いたいのか?」
「......歌いたい」
喉の奥が引っかかる。それでも、嘘はつけなかった。
父さんはそれだけで、もう十分だと言うみたいに頷いた。
「だったら、答えはもう出てるだろ」
ライブハウスを出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
耳の奥には、まだ音が残っている。
「......なぁ、父さん。今度、友達連れてきていいかな」
父さんは少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「おう。いくらでも来い」
軽い返事なのに、不思議と胸が熱くなる。
怖さが消えたわけじゃない。
失敗しない保証も、どこにもない。
それでも。
歌えなくなるかもしれない未来より、歌わずに終わる未来のほうが、ずっと嫌だと思った。
笑われるかもしれない。
声が震えるかもしれない。
それでも、あいつの音の隣に立ちたい。
「俺、歌うよ」
それは宣言じゃなくて、確認だった。
自分自身に向けた、たった一言。
父さんは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その仕草が、背中を押すには十分だった。
駅前の雑踏に紛れながら、俺は携帯を取り出す。
通知は、まだそこに残っている。
『待ってるから』
画面を閉じて、ポケットにしまった。
もう、逃げない。
胸の奥で、静かに、確かに――音が鳴っていた。
ベンチの端に腰を下ろしたとき、視界の端に見覚えのあるケースが入った。
顔を上げる。
父さんだった。
記憶の中より、少し違って見えた。髪は伸びて、無精髭も生えている。でも、肩に掛けたギターケースだけは、昔のままだった。
それだけで、胸の奥が小さく鳴る。
「悠真」
名前を呼ばれて、立ち上がる。
「......久しぶり」
父さんは少しだけ笑ってから、俺を見下ろした。
「ご飯は食べたか?」
「まだ」
「じゃあ、何か食べに行くか」
あっさりした言い方だった。
まるで昨日も会っていたみたいに。
そして、連れてこられたのは、昔からよく行っていたファミレスだった。
家族で来て、帰りにアイスを食べて――そんな記憶が、席に座った途端に浮かぶ。
注文を終えてから、言葉が途切れた。
グラスの水を一口飲む音だけが、やけに大きく聞こえる。
先に口を開いたのは、父さんだった。
「悠真に会うのは......十一年ぶりか」
そう言って、少し考えるように間を置く。
「母さんは、元気か?」
「うん。元気だよ」
それだけ答える。それ以上は、言えなかった。
父さんがいなくなってから、母さんは休みの日も働いていた。
簡単に、元気だと言えるほど、何もなかったわけじゃない。
父さんは、テーブルの上で指を組んだ。
「......悠真」
そして、深く頭を下げた。
「すまなかった」
真正面からの謝罪だった。逃げ道のない、真剣な声。
俺は、何も言えなかった。
許すとか、許さないとか。そんな簡単な話じゃない。
少し間が空いてから、俺はようやく口を開いた。
「......俺が、許せることじゃないけど」
声は、思ったより落ち着いていた。
「父さんが、音楽を選んだのは......分からなくないんだ」
父さんの顔が、わずかに動く。
「捨てられなかったんだろ。音楽」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが繋がった気がした。
父さんは、何も言わなかった。
ただ、テーブルの端に置いたギターケースに、そっと視線を落とした。
音楽を選んだ人間の覚悟が、そこにある気がした。
逃げたのかもしれない。
でも同時に、向き合った結果でもある気がした。
「俺、クラスのやつと文化祭の間だけ、バンド組んでたんだ」
そう言うと、父さんの目が少しだけ動いた。
「そうなのか」
それだけの相槌なのに、不思議と続きを話したくなる。
そこから先は、拍子抜けするくらい普通だった。
学生みたいに、バンドの話をした。
安くて音が出やすいスタジオの話。
機材を揃える金がなくて、無理やり工夫した話。
父さんが学生の頃、初めてステージに立った日のこと。
知らなかった父さんの話を聞きながら、俺は、思っていたよりも自然に笑っていた。
ご飯を食べ終えて、皿が下げられる。
コップの水に手を伸ばした父さんが、ふっと言った。
「それで、悠真」
声のトーンが、少しだけ変わる。
「聞きたいことがあったんだろ」
その一言で、胸の奥が締まった。
俺は、テーブルの下で拳を握る。
ずっと、胸の奥に置いたままの問い。
逃げないように、視線を上げる。
「......父さんはさ」
喉が鳴る。
「今でも、音楽は好き?」
一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
父さんはすぐには答えなかった。
ただ、少しだけ考えるように視線を落とす。
やがて、静かに口を開いた。
「悠真、まだ時間あるか?」
「え......うん。大丈夫だけど」
「じゃあ、いいところに連れてってやる」
それだけ言って、席を立つ。
会計を済ませて、店を出る。
夜風が、頬に当たった。
俺は何も聞かず、ただ言われるがままに、父さんの背中についく。
父さんに連れられて入ったのは、駅前から少し外れた路地にある、小さなライブハウスだった。
看板の灯りは控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所。
扉を開けると、低い天井と独特の匂いが鼻を突く。
アンプの唸りと、人の気配が混ざった空気。
「高瀬さん」
中に入るなり、受付の兄ちゃんが声をかけてきた。
父さんは軽く手を上げて、親しげに言葉を交わしている。
ドリンクを一杯受け取って、奥へ進む。
「父さん、ここ......」
そう言いかけた、そのとき。
照明が落ちて、歓声が上がった。
「お前ら、盛り上がってけよーー!!」
マイク越しの声を合図に、音が爆ぜる。
小さなライブハウスの壁に反響した音が、逃げ場もなく体にぶつかってくる。
低音が腹に響いて、ドラムが胸を叩く。
照明がチカチカと点滅する。
その瞬間、視界が揺れた。
――思い出した。
初めて、父さんに連れてこられたライブハウス。
大人ばかりの中で、俺だけが場違いだったあの日。
それでも。
音が鳴った瞬間、心臓が跳ね上がって、高鳴りが、どうしても抑えられなかった。
今も、同じだった。
知らないバンド。
知らない曲。
それなのに、音だけで胸の奥を掴まれる。
横を見ると、父さんはステージを見つめていた。
昔と同じ顔で。
何かを追いかけるみたいな目で。
ああ、と分かってしまう。
この場所に連れてきた理由を。
ライブが終わると、父さんは手慣れた様子で関係者用のドアを開けた。
薄暗い通路の先で、ひとりの男と顔を合わせる。
「まっちゃん、最高だったよ」
父さんがそう言って手を上げると、迷いなくハイタッチが返ってきた。
「おっ、坊主、初めて見るな」
男が俺を見る。
「俺の息子なんだよ」
「えっ、まじか!」
少し大げさな声に、父さんが笑う。
そのまま何言か交わしていたが、男は呼ばれてどこかへ行ってしまった。
関係者の部屋は、思ったより狭かった。
壁際に積まれた機材と、使い込まれた椅子。
音の余韻だけが、まだ空気に残っている。
「今、ここで働かせてもらってんだ」
父さんは椅子に腰を下ろしながら言った。
「その代わり、スタジオを安く貸してくれる」
「......父さん、まだバンドしてるの?」
俺が聞くと、父さんは一瞬だけ目を細めた。
「あぁ。一発屋って言われてるけどな」
軽く笑って、続ける。
「まだまだ、諦めるつもりはねぇよ」
その言葉は、強がりじゃなかった。
音の中に居続けてきた人間の、当たり前みたいな口調。
少し間を置いてから、父さんは俺を見る。
「さっきの答えだけど」
声が、少しだけ低くなる。
「俺は今でも、音楽が好きだ」
「......うん。見てたら、分かった」
父さんは、懐かしそうに息を吐く。
「母さんにプロポーズしたときもさ、自分で曲作って歌ったんだ」
俺は、少し驚いて父さんを見る。
「言葉にするの、苦手でよ」
照れたみたいに頭をかく。
「でも、言葉で伝えられないことも、歌なら伝えられた」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が、きゅっと締まった。
歌う前に、心が逃げる感覚。
それでも、音に乗せれば本音が出てしまう怖さ。
父さんは続ける。
「楽しいだけじゃない」
一拍、間を置いて。
「けどな......やっぱり、戻ってきちまうんだ」
音のある場所へ。
逃げたはずの、原点へ。
俺は、その背中を見て思った。
音楽を選ぶってことは、捨てられないものを抱え続けるってことなんだ、と。
「俺、歌っていいのかわかんなくなって」
父さんは短く息を吐いてから、俺を見る。
「悠真は歌いたいのか?」
「......歌いたい」
喉の奥が引っかかる。それでも、嘘はつけなかった。
父さんはそれだけで、もう十分だと言うみたいに頷いた。
「だったら、答えはもう出てるだろ」
ライブハウスを出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
耳の奥には、まだ音が残っている。
「......なぁ、父さん。今度、友達連れてきていいかな」
父さんは少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「おう。いくらでも来い」
軽い返事なのに、不思議と胸が熱くなる。
怖さが消えたわけじゃない。
失敗しない保証も、どこにもない。
それでも。
歌えなくなるかもしれない未来より、歌わずに終わる未来のほうが、ずっと嫌だと思った。
笑われるかもしれない。
声が震えるかもしれない。
それでも、あいつの音の隣に立ちたい。
「俺、歌うよ」
それは宣言じゃなくて、確認だった。
自分自身に向けた、たった一言。
父さんは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その仕草が、背中を押すには十分だった。
駅前の雑踏に紛れながら、俺は携帯を取り出す。
通知は、まだそこに残っている。
『待ってるから』
画面を閉じて、ポケットにしまった。
もう、逃げない。
胸の奥で、静かに、確かに――音が鳴っていた。



