行動は嘘をつかない

 机の上に置いた紙は、まだ白い。
 罫線も印刷もない、ただの紙だ。私はその端を揃え、ペンを横に置いた。キャップは外したままにする。すぐに書けるように、というより、外す動作を省くためだった。

 時計を見る。秒針は一定の速度で円を描いている。音はしない。壁に掛けられた時計は、秒針の音が鳴らないタイプだ。選んだわけではないが、ここに置かれてからずっとこのままだ。

 椅子に腰を下ろし、背もたれには寄りかからない。足の裏を床につけ、靴底の感触を確かめる。冷たくはない。ざらつきもない。床は均一だ。

 私は、事件現場の行動記録を仕事にしている。

 人が何を考えたか、何を感じたかは書かない。
 書くのは、何をしたかだけだ。

 電話が鳴るまで、まだ少し時間がある。私はペンを持ち、意味のない線を一本引いた。線は途中でわずかに曲がった。力を入れすぎたわけでも、手が震えたわけでもない。ただ、曲がった。それだけのことだ。

 この仕事を説明すると、たいてい同じ反応が返ってくる。
「それって、心理分析ですか?」
「犯人の心を読むんですか?」

 違う、と私は言う。
 心は読まない。感情も推測しない。
 行動だけを書く。

 過去の記録ファイルを一つ開く。事件名の横に、私の署名がある。中身は短い文章の連なりだ。

 ――被疑者は、質問を受けたあと、右足で床を二度叩いた。
 ――視線は左下に三秒留まった。
 ――椅子に座る際、背もたれに触れなかった。

 そこに「動揺していた」や「不安そうだった」という言葉はない。そういう言葉は、見る人によって意味が変わる。だが、足を叩いた回数や、視線の方向は変わらない。

 電話が鳴った。私は受話器を取り、名乗る。相手の声量は一定だった。要件は簡潔で、場所と時間だけが伝えられた。事件の内容については、まだ話されない。

「分かりました」

 そう答え、電話を切る。私は紙を一枚、新しく机の中央に置いた。

 行動を記録する仕事は、派手ではない。
 現場で私が注目されることもない。人は感情を語りたがる。泣いた理由、怒った理由、怖かった理由。だが、理由は後からいくらでも作れる。行動は、起きた瞬間にしか存在しない。

 立ち上がり、上着を羽織る。ボタンは留めない。外はそれほど寒くない。ドアに手をかけ、開ける。廊下の照明は白く、均一だ。

 歩きながら、ふと考える。
 人は、自分が何をしたかを、あまり覚えていない。

 覚えているのは、意味づけされた出来事だけだ。印象に残った言葉。強かった感情。だが、その前後で何をしていたかは、驚くほど抜け落ちる。

 だから、記録が必要になる。

 エレベーターを待つ間、壁に貼られた注意書きを見る。内容は知っている。毎日目にしている。それでも視線は文字を追う。追ったあと、何が書いてあったかは思い出せない。

 行動は、そんなものだ。

 もし、今この瞬間までに、あなたが何かをしていたとしたら。
 それを三つだけ、思い出すことはできるだろうか。

 難しく考える必要はない。
 理由も、感情もいらない。

 歩いた。
 座った。
 画面を見た。

 そんな程度でいい。

 書き出してもいいし、頭の中で並べるだけでもいい。記録は、紙に残らなくても成立する。選んだ、という事実だけが重要だ。

 人は、三つ選んだ時点で、残りを切り捨てる。
 切り捨てたことにすら、気づかない。

 エレベーターが来た。私は乗り込み、ボタンを押す。扉が閉まる。鏡に映った自分の姿を見る。表情は分からない。自分の顔は、だいたいそんなものだ。

 あなたが今、思い出した行動が何であれ、それは正しい。
 正しくない行動というものは、そもそも存在しない。

 それが、あなたの記録だ。

 エレベーターは一階に着いた。扉が開く。外の空気は、少しだけ湿っている。私は一歩踏み出し、足の裏で地面を確かめた。

 これから向かう場所で、またいくつもの行動が起きる。
 誰かが動き、誰かが止まり、誰かが見て、誰かが見なかった。

 それらはすべて、記録される。

 私のポケットの中で、ペンが小さく揺れた。
 次に書く紙は、もう決まっている。