放課後の廊下は、音が多すぎた。
部活へ向かう足音、笑い声、誰かの名前を呼ぶ声。
そのどれもが、今日は少しだけ遠い。
俺は校舎の端にある文芸部の部室へ向かった。
人の流れから外れた場所。
ブレザーのボタンを一つ外し、ドアノブに手をかける。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
――静かだ。
紙とインクの匂い。
それだけで、胸の奥が落ち着いていく。
「失礼します」
小さく言って中に入る。
部室には白石がいた。
机にノートを広げ、カーディガンの袖を少しまくっている。
「あ、怜。来たんだ」
「……うん」
それ以上の言葉は要らなかった。
この場所では、無理に話す必要がない。
俺は窓際の席に座り、鞄からノートを取り出す。
万年筆を持つと、自然と背筋が伸びた。
カリ、とペン先が紙を引っかく音。
部室に響くのは、それだけ。
……のはずだった。
白紙を前にすると、浮かぶのは文字じゃない。
笑う陽向の顔。
昼休みの、あの距離。
名前を呼ばれたときの、少し低い声。
「……」
ペン先が止まる。
『隣にいるのに、触れられない距離がある』
書いてから、息を止めた。
あまりにも、そのままだ。
消そうとして、やめる。
白石が、こちらを見ている気配がした。
「怜」
「……何」
「今度の文化祭さ」
その一言で、胸がわずかに強張る。
「何を書くの?」
真正面から聞かれて、言葉に詰まる。
「……まだ、なにも」
白石は驚いた様子もなく、ただ頷いた。
「そうなんだ」
少しの沈黙。
それから、白石は続けた。
「また、怜の小説をみんなに読んでほしいなって思ってた」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……ありがとう」
「でも」
白石は、俺の顔をまっすぐ見た。
「もしかしてさ」
一拍、置いて。
「陽向のこと、考えて書けなかったりする?」
――図星だった。
言葉が、喉に引っかかる。
「……」
何も言えない。
白石は、それを見て、少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり」
責める声じゃない。
決めつける声でもない。
ただ、分かってしまった人の声。
「恋ってさ」
白石は、ノートを閉じながら言う。
「文章より、ずっと難しいよね」
俺は視線を落とす。
「……書けなくなるとは、思わなかった」
「好きなものほど、言葉にしづらいから」
白石は、少し考えるように間を置いた。
「だったらさ」
ふっと、声のトーンが変わる。
「一つ、提案なんだけど」
俺は顔を上げる。
「いっそのこと」
白石は、穏やかに言った。
「陽向を主人公にした物語、書いてみたら?」
心臓が、大きく跳ねた。
「……」
「フィクションでいい。
怜の視点じゃなくて、物語の中の“彼”として」
頭が、追いつかない。
「それって……」
「逃げじゃないよ」
白石は、はっきり言う。
「向き合う方法の一つ」
胸の奥が、ざわつく。
陽向を、主人公にする。
走る姿。
笑う顔。
名前を呼ぶ声。
「……書いたら」
掠れた声で言う。
「壊れそうだ」
「うん」
白石は、即答した。
「たぶん、壊れる」
でも、と続ける。
「怜の文章は、壊れたところから一番きれいになる」
それは、信頼だった。
しばらく、何も言えなかった。
窓の外から、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
その中に、陽向がいる気がして、胸が痛む。
「……少し」
ようやく、口を開く。
「考えてみる」
「うん」
白石は、それ以上踏み込まなかった。
それが、この部のやり方だ。
ペンを握り直す。
白紙のページに、ゆっくりと書く。
『彼は、走ることでしか、自分を表現できなかった』
最初の一文。
それだけで、胸が熱くなる。
――書けるかもしれない。
怖いけど。
逃げ場じゃなくなるけど。
ペンを走らせていると、頭が少しぼんやりしてきた。
額の奥が、じんとする。
「怜、無理しないで」
白石の声が、少し遠い。
「……大丈夫」
本当は、少し熱っぽい。
でも、今はやめたくなかった。
文芸部の静けさの中で、
俺は初めて、逃げずに考えていた。
陽向のことを。
好きかどうかじゃなく。
どうして、書けなくなったのかを。
答えは、まだ出ない。
けれど。
物語は、もう動き始めていた。
その代償が、
近いうちに、体に現れることを――
このときの俺は、まだ知らなかった。
部活へ向かう足音、笑い声、誰かの名前を呼ぶ声。
そのどれもが、今日は少しだけ遠い。
俺は校舎の端にある文芸部の部室へ向かった。
人の流れから外れた場所。
ブレザーのボタンを一つ外し、ドアノブに手をかける。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
――静かだ。
紙とインクの匂い。
それだけで、胸の奥が落ち着いていく。
「失礼します」
小さく言って中に入る。
部室には白石がいた。
机にノートを広げ、カーディガンの袖を少しまくっている。
「あ、怜。来たんだ」
「……うん」
それ以上の言葉は要らなかった。
この場所では、無理に話す必要がない。
俺は窓際の席に座り、鞄からノートを取り出す。
万年筆を持つと、自然と背筋が伸びた。
カリ、とペン先が紙を引っかく音。
部室に響くのは、それだけ。
……のはずだった。
白紙を前にすると、浮かぶのは文字じゃない。
笑う陽向の顔。
昼休みの、あの距離。
名前を呼ばれたときの、少し低い声。
「……」
ペン先が止まる。
『隣にいるのに、触れられない距離がある』
書いてから、息を止めた。
あまりにも、そのままだ。
消そうとして、やめる。
白石が、こちらを見ている気配がした。
「怜」
「……何」
「今度の文化祭さ」
その一言で、胸がわずかに強張る。
「何を書くの?」
真正面から聞かれて、言葉に詰まる。
「……まだ、なにも」
白石は驚いた様子もなく、ただ頷いた。
「そうなんだ」
少しの沈黙。
それから、白石は続けた。
「また、怜の小説をみんなに読んでほしいなって思ってた」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……ありがとう」
「でも」
白石は、俺の顔をまっすぐ見た。
「もしかしてさ」
一拍、置いて。
「陽向のこと、考えて書けなかったりする?」
――図星だった。
言葉が、喉に引っかかる。
「……」
何も言えない。
白石は、それを見て、少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり」
責める声じゃない。
決めつける声でもない。
ただ、分かってしまった人の声。
「恋ってさ」
白石は、ノートを閉じながら言う。
「文章より、ずっと難しいよね」
俺は視線を落とす。
「……書けなくなるとは、思わなかった」
「好きなものほど、言葉にしづらいから」
白石は、少し考えるように間を置いた。
「だったらさ」
ふっと、声のトーンが変わる。
「一つ、提案なんだけど」
俺は顔を上げる。
「いっそのこと」
白石は、穏やかに言った。
「陽向を主人公にした物語、書いてみたら?」
心臓が、大きく跳ねた。
「……」
「フィクションでいい。
怜の視点じゃなくて、物語の中の“彼”として」
頭が、追いつかない。
「それって……」
「逃げじゃないよ」
白石は、はっきり言う。
「向き合う方法の一つ」
胸の奥が、ざわつく。
陽向を、主人公にする。
走る姿。
笑う顔。
名前を呼ぶ声。
「……書いたら」
掠れた声で言う。
「壊れそうだ」
「うん」
白石は、即答した。
「たぶん、壊れる」
でも、と続ける。
「怜の文章は、壊れたところから一番きれいになる」
それは、信頼だった。
しばらく、何も言えなかった。
窓の外から、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
その中に、陽向がいる気がして、胸が痛む。
「……少し」
ようやく、口を開く。
「考えてみる」
「うん」
白石は、それ以上踏み込まなかった。
それが、この部のやり方だ。
ペンを握り直す。
白紙のページに、ゆっくりと書く。
『彼は、走ることでしか、自分を表現できなかった』
最初の一文。
それだけで、胸が熱くなる。
――書けるかもしれない。
怖いけど。
逃げ場じゃなくなるけど。
ペンを走らせていると、頭が少しぼんやりしてきた。
額の奥が、じんとする。
「怜、無理しないで」
白石の声が、少し遠い。
「……大丈夫」
本当は、少し熱っぽい。
でも、今はやめたくなかった。
文芸部の静けさの中で、
俺は初めて、逃げずに考えていた。
陽向のことを。
好きかどうかじゃなく。
どうして、書けなくなったのかを。
答えは、まだ出ない。
けれど。
物語は、もう動き始めていた。
その代償が、
近いうちに、体に現れることを――
このときの俺は、まだ知らなかった。



