犬系男子は猫系男子に恋をする

 朝の教室は、まだ完全に目を覚ましていない。
 ブレザー姿の生徒たちが、それぞれの席で眠気をこすっている。

 俺は席につき、鞄から教科書を出した。
 隣の席が空いていることに、少しだけ息が詰まる。

「おはよ」

 背後から声がして、椅子が引かれた。
 陽向だ。ジャージバッグを足元に置き、ネクタイを整えている。

「……おはよう」

 それだけで、胸が静かに騒ぐ。

 最近、朝の挨拶が少しだけ重い。
 理由は分かっている。

「ねえ怜」

 前の席から振り返ったのは、白石だった。
 整えられた前髪と、いつも穏やかな目。

「昨日、裏門で一緒だったよね?」

 一瞬、空気が止まる。

「……見てたの?」

「たまたま」

 白石は軽く笑う。

「仲いいんだね」

 その一言が、妙に刺さる。

「別に」

 俺が答えるより早く、陽向が言った。

「クラスメイトだし」

 正解だ。
 正解すぎて、胸が痛む。

「へえ」

 今度は、斜め後ろから声。
 黒川だ。クラス委員で、きっちりしたシャツに腕時計。
 いつも周りをよく見ている。

「最近、よく一緒にいるよな」

「そう?」

 陽向が笑う。
 軽い、いつもの調子。

「席が隣だから」

「ふーん」

 黒川は、俺を見る。

「怜、困ってない?」

 困ってる、とは言えない。
 でも、困っていない、とも言えない。

「……何が」

 黒川は肩をすくめた。

「噂、立つの早いからさ」

 その言葉で、教室の空気が少し変わる。

 近い。
 でも、近いと言えない。

「大丈夫だよ」

 陽向が、俺より先に言った。

「俺がちゃんと距離取るから」

 距離。

 その言葉が、胸に落ちる。

「……別に、取らなくていい」

 思わず、口を滑らせた。

 白石と黒川が、同時に目を向ける。

「え?」

 陽向が、驚いたようにこちらを見る。

 しまった、と思ったときには遅い。

「……クラスメイトだし」

 取り繕う。

 でも、もう遅い。

「そうだよな」

 陽向は、すぐに笑った。

「変なこと言ってごめん」

 その笑顔が、少しだけ遠い。

 白石は、何かを察したように視線を逸らし、黒川はそれ以上何も言わなかった。

 授業が始まる。

 黒板の文字が、頭に入ってこない。

 隣にいる。
 距離は、変わっていない。

 それなのに。

 昼休み。
 弁当を広げると、白石が自然に近づいてきた。

「怜」

「……何」

「無理してない?」

 その問いかけは、優しかった。

「無理って?」

「距離」

 また、その言葉。

「陽向、優しいでしょ」

「……うん」

「優しい人ほど、周りが勝手に線引くから」

 白石は、少しだけ困った顔をした。

「それ、怜のせいじゃないよ」

 返事が、できなかった。

 午後の授業。
 陽向は、あまりこちらを見なかった。

 話しかけてこない。
 でも、完全に避けてもいない。

 絶妙な距離。

 それが、一番苦しい。

 放課後。
 陸上部の掛け声が、窓の外から聞こえる。

「陽向、行かないの?」

 黒川が声をかける。

「ああ、今日はちょっと」

 陽向は、俺を見る。

「先、行ってて」

 それは、俺に向けた言葉だった。

「……うん」

 教室に残る。

 白石も、気を利かせたのか、すぐに出ていった。

 静かになる。

「怜」

 陽向が、低い声で言う。

「さっきの」

「……気にしてない」

 嘘だ。

「俺が距離取るって言ったの、嫌だった?」

 正直に言えばいい。

 でも、それを言ったら、何かが壊れる気がした。

「……別に」

 また、それだ。

 陽向は、少しだけ目を伏せた。

「分かった」

 それ以上、踏み込んでこない。

 その優しさが、今は痛い。

 陽向が教室を出る。

 ドアが閉まる音が、やけに大きい。

 俺は、机に額をつけた。

 近い。
 でも、言えない。

 それが、こんなにも苦しいなんて。

 そのとき、ふらりと視界が揺れた。

「……?」

 立ち上がろうとして、足元がぐらつく。

 熱っぽい。

 最近、少しだるい日が続いている。
 寝不足でもないのに。

「大丈夫……」

 呟いても、教室には誰もいない。

 帰りの車の中。
 窓に映る自分の顔が、少し赤い。

「風邪……?」

 そう思いながらも、なぜか、頭に浮かぶのは陽向だった。

 距離を取ると言った、あの声。
 優しすぎる、その選択。

 近いのに、遠い。

 その矛盾が、胸に溜まっていく。

 そして、それは――
 体調と同じように、静かに、確実に悪化していく予感がしていた。