犬系男子は猫系男子に恋をする

 玄関の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

「……ただいま」

 誰もいない家に向かって言ってから、陽向は靴を脱いだ。
 いつもと同じ廊下、同じ匂い、同じ天井。なのに胸の奥だけが、落ち着きなくざわついている。

 制服のまま部屋に入り、鞄を床に置く。ベッドに腰を下ろして、スマホを取り出し、画面を見て、また伏せる。

「……なんなんだよ、これ」

 独り言が漏れる。

 さっきまで一緒にいた怜の顔が、何度も頭に浮かんだ。

『曖昧なままは、嫌だ』

『ちゃんと向き合いたい』

 その言葉も。

 そして――
 手を繋いだときの、あの感触。

 細くて、少し冷たくて、でも離れなかった指。

「……」

 陽向は制服のネクタイを乱暴に外し、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 天井がぼやける。

「向き合いたい、か……」

 怜の声が、頭の中で何度も再生される。

 自分はどうだ?

 向き合っているだろうか。

 逃げてないだろうか。

 胸の奥が、ぎゅっと縮こまる。

 触れたい。

 抱きしめたい。

 守りたい。

 そんな気持ちが、溢れるみたいに込み上げてくる。

 同時に、怖さも湧いた。

 拒まれたらどうしよう。

 関係が壊れたら?

 今みたいに、隣にいられなくなったら?

「……やっぱり、言わない方が……」

 口に出しかけて、自分で止めた。

 怜の顔が浮かぶ。

 あの真っ直ぐな目。

 逃げないと言った声。

「……あいつが一番、曖昧なの嫌いなんだよな」

 分かっている。

 分かっているのに、楽な方に逃げたくなる。

 今のままでも、距離は近い。

 笑い合える。

 並んで帰れる。

 それでいいじゃないか、と弱い自分が囁く。

 でも。

「それ、怜を騙すことになるだろ……」

 布団を握りしめる。

 胸の奥が、じくじく痛む。

 手を繋いだ時の温度が、まだ残っているみたいだった。

「あれ……役とかじゃなかったよな」

 舞台でも、稽古でもない。

 ただ二人で立って、静かな場所で、繋いだ手。

 怜は離さなかった。

 拒まなかった。

「……選ばれた、って思ってもいいのか」

 喉が鳴る。

 心臓がうるさい。

 胸が苦しいほど熱い。

「俺……」

 小さく、呟く。

「怜が好きだ」

 声に出した瞬間、胸の奥が震えた。

 逃げられない事実が、そこにあった。

 今までの気持ちとは違う。

 独占したいとか、近くにいたいとか、そういう単純な衝動だけじゃない。

 壊したくない。

 大切にしたい。

 守りたい。

 触れたいのに、傷つけたくない。

 そんな、矛盾した気持ち。

「……こんなの、初めてだ」

 陽向は片腕で目を覆った。

 もし、明日。

 何も言わなかったら。

 また笑って、並んで、普通に過ごすだろう。

 でも、心のどこかでずっと思う。

 ――あの時、言えばよかった。

 その後悔は、たぶん消えない。

 怜は待つタイプじゃない。

 いつか誰かに、ちゃんと選ばれて、手を取られてしまうかもしれない。

 その光景を想像しただけで、胸が締めつけられた。

「……無理だ」

 ぽつりと呟く。

「そんなの、耐えられるわけない」

 深く息を吸って、吐く。

 決めるしかない。

 逃げない。

 待たない。

 向かう。

 それが、怜に向き合うってことだ。

「……明日、言う」

 はっきりと、声に出した。

「好きだって」

 うまく言えなくてもいい。

 格好悪くてもいい。

 噛んでも、震えてもいい。

 でも、伝える。

 スマホを手に取る。

 怜の名前が、画面の上にある。

 でも、送らない。

 今は、まだ。

 言葉は、ちゃんと顔を見て言いたい。

 ベッドに潜り込み、目を閉じる。

 心臓は相変わらず騒がしい。

 でも、逃げたい気持ちは、もうなかった。

 怖い。

 それでも。

 向かう。

 初めて、大型犬が「待つ」ことをやめて、「行く」ことを選んだ夜だった。