スタートの合図が鳴っても、身体が前に出なかった。
「春日!」
名前を呼ばれて、陽向は一拍遅れて走り出す。
足は動いているのに、意識が追いつかない。
トラックの赤茶けた地面を蹴る感触だけが、やけに遠い。
――集中しろ。
何度もそう言い聞かせる。
けれど、頭の中に浮かぶのは、決まって同じ顔だった。
暗転した舞台。
近すぎた距離。
額に残った、あの一瞬の感触。
「……っ」
ゴールを抜けた瞬間、息が乱れる。
膝に手をついて呼吸を整えながら、陽向は舌打ちした。
「今日どうしたんだよ、春日」
横から声が飛んでくる。
「タイム、落ちてるぞ」
「……分かってる」
分かっている。
でも理由を聞かれると、答えられない。
体調は悪くない。
怪我もしていない。
ただ、心が――怜に引っ張られている。
給水の時間、ペットボトルを口に運んだところで、別の部員が近づいてきた。
「なあ、春日」
「ん?」
「文化祭のあとからさ」
少し含みのある言い方に、嫌な予感がする。
「三条と、どうなってんの?」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
「……は?」
「いや、ほら。舞台一緒だったし、最近よく一緒にいるって噂」
「噂って……」
言い返そうとして、言葉が止まる。
否定できない。
否定したくない自分が、どこかにいる。
「別に……」
やっと絞り出した声は、思ったより低かった。
「何もねえよ」
そう言った瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
何もない、なんて。
だったら、どうしてこんなに苛つく。
部員は「ふーん」と軽く笑って、その場を離れた。
けれど、その背中を見送る間、陽向の心臓は落ち着かなかった。
――何もない、はずなのに。
練習が終わり、片付けをしながら、無意識に校舎の方を見る。
そこに、怜がいた。
別のクラスの生徒と話している。
少し身を乗り出して、相手の目を見て、柔らかく笑っている。
「……」
胸の奥が、ざわっと音を立てた。
「なんだよ、それ……」
小さく呟く。
自分の知らない怜の顔。
自分の知らない距離感。
文化祭の舞台では、あんなに近かったのに。
今は、他の誰かに向けて同じ表情をしている。
「……やめろよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
怜が悪いわけじゃない。
誰と話してもいい。
分かっている。
なのに。
「……取られる」
ふと浮かんだ言葉に、陽向は息を詰まらせた。
「……は?」
自分で自分に驚く。
取られるって、何を。
誰が誰を。
でも、その想像をした瞬間、胸がきりきりと痛んだ。
怜が、他の誰かの隣に立つ。
自分じゃない誰かに、あの距離で、あの目で笑う。
「……嫌だ」
思わず、はっきり声に出ていた。
指先が震える。
ペットボトルを強く握りしめる。
「……嫌だ、そんなの」
それはもう、はっきりした感情だった。
嫉妬。
認めた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが溢れそうになる。
「俺、何やってんだよ……」
自嘲気味に笑う。
でも、笑えない。
距離は縮まった。
触れた記憶もある。
言葉も、温度も、全部覚えている。
それなのに、何の約束もない。
だから、不安になる。
だから、独占したくなる。
「……独占欲とか、最悪だろ」
でも、止められない。
怜がこちらを見る気配がして、陽向は反射的に顔を背けた。
視線が合うのが、怖かった。
もし、今話しかけられたら。
このぐちゃぐちゃな感情が、全部顔に出る気がした。
「……隠せねえな」
ぽつりと呟く。
もう、ただの共演者じゃない。
舞台の余韻でもない。
怜が他の誰かと話しているだけで、胸がざわつく自分を、無視できない。
「……好きなんだよな、俺」
認めた瞬間、少し楽になって、同時に苦しくなる。
好きだから、怖い。
好きだから、失いたくない。
「……どうすりゃいいんだよ」
答えは出ない。
踏み出したら、壊れるかもしれない。
踏み出さなければ、奪われるかもしれない。
どっちも、怖い。
校門へ向かう足取りは、重いままだった。
今日、確実に何かが変わった。
それだけは、はっきりしている。
すれ違いの予感が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
「春日!」
名前を呼ばれて、陽向は一拍遅れて走り出す。
足は動いているのに、意識が追いつかない。
トラックの赤茶けた地面を蹴る感触だけが、やけに遠い。
――集中しろ。
何度もそう言い聞かせる。
けれど、頭の中に浮かぶのは、決まって同じ顔だった。
暗転した舞台。
近すぎた距離。
額に残った、あの一瞬の感触。
「……っ」
ゴールを抜けた瞬間、息が乱れる。
膝に手をついて呼吸を整えながら、陽向は舌打ちした。
「今日どうしたんだよ、春日」
横から声が飛んでくる。
「タイム、落ちてるぞ」
「……分かってる」
分かっている。
でも理由を聞かれると、答えられない。
体調は悪くない。
怪我もしていない。
ただ、心が――怜に引っ張られている。
給水の時間、ペットボトルを口に運んだところで、別の部員が近づいてきた。
「なあ、春日」
「ん?」
「文化祭のあとからさ」
少し含みのある言い方に、嫌な予感がする。
「三条と、どうなってんの?」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
「……は?」
「いや、ほら。舞台一緒だったし、最近よく一緒にいるって噂」
「噂って……」
言い返そうとして、言葉が止まる。
否定できない。
否定したくない自分が、どこかにいる。
「別に……」
やっと絞り出した声は、思ったより低かった。
「何もねえよ」
そう言った瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
何もない、なんて。
だったら、どうしてこんなに苛つく。
部員は「ふーん」と軽く笑って、その場を離れた。
けれど、その背中を見送る間、陽向の心臓は落ち着かなかった。
――何もない、はずなのに。
練習が終わり、片付けをしながら、無意識に校舎の方を見る。
そこに、怜がいた。
別のクラスの生徒と話している。
少し身を乗り出して、相手の目を見て、柔らかく笑っている。
「……」
胸の奥が、ざわっと音を立てた。
「なんだよ、それ……」
小さく呟く。
自分の知らない怜の顔。
自分の知らない距離感。
文化祭の舞台では、あんなに近かったのに。
今は、他の誰かに向けて同じ表情をしている。
「……やめろよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
怜が悪いわけじゃない。
誰と話してもいい。
分かっている。
なのに。
「……取られる」
ふと浮かんだ言葉に、陽向は息を詰まらせた。
「……は?」
自分で自分に驚く。
取られるって、何を。
誰が誰を。
でも、その想像をした瞬間、胸がきりきりと痛んだ。
怜が、他の誰かの隣に立つ。
自分じゃない誰かに、あの距離で、あの目で笑う。
「……嫌だ」
思わず、はっきり声に出ていた。
指先が震える。
ペットボトルを強く握りしめる。
「……嫌だ、そんなの」
それはもう、はっきりした感情だった。
嫉妬。
認めた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが溢れそうになる。
「俺、何やってんだよ……」
自嘲気味に笑う。
でも、笑えない。
距離は縮まった。
触れた記憶もある。
言葉も、温度も、全部覚えている。
それなのに、何の約束もない。
だから、不安になる。
だから、独占したくなる。
「……独占欲とか、最悪だろ」
でも、止められない。
怜がこちらを見る気配がして、陽向は反射的に顔を背けた。
視線が合うのが、怖かった。
もし、今話しかけられたら。
このぐちゃぐちゃな感情が、全部顔に出る気がした。
「……隠せねえな」
ぽつりと呟く。
もう、ただの共演者じゃない。
舞台の余韻でもない。
怜が他の誰かと話しているだけで、胸がざわつく自分を、無視できない。
「……好きなんだよな、俺」
認めた瞬間、少し楽になって、同時に苦しくなる。
好きだから、怖い。
好きだから、失いたくない。
「……どうすりゃいいんだよ」
答えは出ない。
踏み出したら、壊れるかもしれない。
踏み出さなければ、奪われるかもしれない。
どっちも、怖い。
校門へ向かう足取りは、重いままだった。
今日、確実に何かが変わった。
それだけは、はっきりしている。
すれ違いの予感が、胸の奥で静かに膨らんでいった。


