犬系男子は猫系男子に恋をする

文化祭の喧騒が、嘘みたいに遠ざかっていく。

「じゃあ、次はこの箱を倉庫に運んでください」

 実行委員の声に、陽向は「はーい」と返事をして、段ボールを抱え上げた。
 汗で少し湿ったTシャツが背中に張りつく。王子様の衣装はすでに脱いで、今は動きやすいジャージ姿だった。

 体育館の裏手、使われなくなった倉庫。
 文化祭が終わるたび、必ず使われる場所だ。

「……重くない?」

 隣から声がした。
 振り向くと、怜が同じように段ボールを持って立っている。

 白いシャツに、黒のカーディガン。袖を少しだけまくっている。
 舞台の衣装とは違う、いつもの怜。

「大丈夫。これくらい」

「そう」

 それだけの会話なのに、妙に胸がざわつく。

 二人で倉庫の中に入ると、空気がひんやりと変わった。
 薄暗く、埃の匂いがする。天井の蛍光灯が一本だけ点いていて、影が床に長く伸びる。

「ここに置いていいって」

 怜が指さす。

「了解」

 段ボールを置いた瞬間、陽向は無意識に息を吐いた。
 ——落ち着け。
 さっきまで、舞台の上にいた。観客の前で、役を演じていた。
 それなのに、今はこの狭い空間で、怜と二人きり。

 静かすぎる。

「……」

「……」

 会話が続かない。
 けれど、気まずいというより、張りつめている感じだった。

 陽向は、怜の横顔を盗み見る。
 視線に気づいたのか、怜がこちらを見る。

「なに?」

「いや……」

 言いかけて、やめた。
 ——言えない。
 舞台の暗転直後のこと。
 自分がしてしまったこと。

 額に、ほんの一瞬触れた、あの行為。

 観客には見えていない。
 誰にも気づかれていない。
 それでも、陽向の中では、はっきり「越えた」感覚があった。

「……さっきの劇」

 怜が、先に口を開いた。

「すごかったね」

「……うん」

「正直、ちょっと……いや、かなり」

 怜は言葉を探すように、一度視線を落とす。

「感情、持っていかれた」

 陽向の胸が、ぎゅっと締まる。

「それ……役として、だよな?」

 確認するみたいに言ってしまって、すぐ後悔した。
 重い。
 重すぎる。

 怜は少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと首を傾げる。

「……半分は、役」

「……半分は?」

「陽向」

 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

「陽向自身の言葉みたいに聞こえたところが、あった」

 それ以上、怜は続けなかった。
 でも、それで十分だった。

 沈黙が落ちる。

 倉庫の外から、誰かの笑い声が遠くに聞こえた。
 文化祭は、まだ完全には終わっていない。

 陽向は、ぎゅっと拳を握った。

「……ごめん」

 声が、思ったより低く出た。

 怜が瞬きをする。

「さっきの、あれ」

「……」

「暗転のとき」

 怜は、すぐには何も言わなかった。
 ただ、じっと陽向を見る。

「……どうして、あんなことしたんだろ」

 自分でも、よく分からない。
 衝動だった。
 抑えきれなかった。

「……ごめん。嫌だったよな」

 言い切る前に、怜が一歩近づいた。

「陽向」

 距離が近い。
 息がかかる。

「嫌だったら、ちゃんと言うよ」

 怜の声は、静かだった。

「でも……」

 一瞬、間が空く。

「……あのとき、驚いたけど」

 怜は、そっと自分の額に指を当てる。

「……嫌じゃなかった」

 陽向の思考が、一瞬止まる。

「え……?」

 怜は、少し困ったように笑った。

「だから、その……」

 一歩、近づく。
 今度は、怜のほうから。

 そして、陽向の目の前で、ぴたりと止まる。

 唇が触れそうで、触れない距離。

 陽向の顔が、みるみるうちに熱くなる。

「ちょ、怜……」

 その瞬間。

 コツン。

「あいたっ!?」

 額に、軽い衝撃。

 怜が、指を引っ込めていた。

「……さっきのお返し」

 陽向は、額を押さえたまま固まる。

「……顔、真っ赤」

「誰のせいだよ!」

 思わず声を荒げると、怜は小さく笑った。

「ふふ」

 その笑顔を見て、陽向は胸がいっぱいになる。

「……怜」

「なに?」

「俺……」

 言葉が、詰まる。
 まだ、言えない。
 でも——逃げたくない。

「……ちゃんと、話したい」

 怜は、少しだけ目を見開いてから、頷いた。

「うん」

 その返事が、なにより嬉しかった。

 倉庫の外で、誰かが呼んでいる声がする。

「三条ー! 春日ー! 次、手伝ってー!」

「……行こうか」

 怜が言う。

「……ああ」

 二人は並んで、倉庫を出た。

 触れてはいない。
 けれど、確かに——距離は、縮んでいた。

 そして陽向は思う。

 ——もう、逃げない。

 この気持ちからも、
 怜からも。