犬系男子は猫系男子に恋をする

文化祭の喧騒は、少し離れただけで嘘みたいに遠くなった。
校舎裏のベンチに腰を下ろすと、風に混じって焼きそばの匂いが微かに流れてくる。さっきまでの騒がしさが、夢だったみたいだ。

「……はい」

怜が、手提げ鞄から一冊の本を取り出して差し出した。
白いカバーに、柔らかい線で描かれた二人の少年。タイトルは、控えめな文字でこう書かれている。

『犬系男子と、気づかない猫』

「……これ」

陽向は、両手でそれを受け取った。
なぜか、少し緊張する。紙の重みが、やけに現実的だった。

「読んでほしくて」

それだけ言って、怜は視線を逸らす。
その仕草が、妙に落ち着かない。

「……今、読んでいい?」

「うん」

短いやり取り。
でも、その一言で、胸の奥が少しだけざわついた。

陽向はベンチに座り直し、表紙を開く。

――1ページ目。

走る少年。
無駄に体力があって、真っ直ぐで、感情が顔に出やすい。
その横に描かれている、少し距離を取るもう一人。

「……え」

思わず、声が漏れた。

ページをめくる指が、止まらない。
体育大会。
応援席。
視線を探す描写。

――これ、知ってる。

いや、“覚えてる”。

「……俺じゃん」

小さく呟いて、陽向は苦笑する。
冗談だと思いたかった。でも、次のページで、その考えは簡単に崩れた。

猫系の主人公のモノローグ。

『近い。
 でも、離れたいわけじゃない』

『触れられると、心臓の音がうるさくなる』

――怜。

胸が、ぎゅっと締め付けられる。
ページをめくるたび、陽向の中の“知らなかった怜”が、次々と現れる。

雨の日。
一つの傘。
肩が触れそうで、触れない距離。

『本当は、少しだけ期待していた』

陽向は、思わず漫画を閉じかけて、また開いた。

「……ずるいだろ」

誰に向けた言葉かも分からない。
ただ、喉の奥が熱くなる。

物語は進む。
舞台稽古。
視線の演技。
触れない約束。

『嫌じゃなかった』
『むしろ、もっと触れてほしいと思った』

心臓が、どくんと鳴る。

「……」

怜が、すぐ隣にいる。
それなのに、今は顔を見られない。

――俺、こんなふうに思われてたのか。

陽向は、知らなかった。
自分の存在が、誰かの心を、ここまで揺らしていたなんて。

ラストに近づくにつれ、犬系の主人公は「やってしまった」と後悔する。
距離を取ろうとする。
逃げようとする。

『壊したくなかった』

その言葉に、陽向の指が止まった。

――それ、俺だ。

舞台のあと。
怜の顔を見られなかった理由。
逃げたくなった衝動。

全部、ここに描かれている。

最後のページ。
言葉はない。
ただ、並んで立つ二人の背中。

余白に、小さな文字。

『これは、君に読んでほしかった話』

陽向は、ゆっくりと本を閉じた。

胸が、苦しい。
嬉しいのに、怖い。
抱きしめたいのに、動けない。

「……怜」

名前を呼びかけて、途中で止めた。
今、声を出したら、何かが壊れそうだった。

大型犬が、感情の制御を失ったみたいに、じっと動かない。
見えない尻尾が、戸惑うように揺れている。

――俺、こんなに……

ようやく、気づく。

「……好きだ」

小さな声だった。
でも、それは、もう誤魔化せない本音だった。

怜は、何も言わずに隣に座ったまま、空を見ている。
その横顔が、やけに近い。

陽向は、漫画を胸に抱きしめる。

言葉にできない想いが、確かにそこにあった。
そして、それを受け取った瞬間から、もう戻れない場所に来てしまったことも。

春日は、この時はっきりと知った。

――自分はもう、怜を「大切な友達」なんて言葉で、片付けられない。

大型犬の情緒は、静かに、でも確実に崩壊していった。