犬系男子は猫系男子に恋をする

 文化祭の熱気が、まだ校舎の廊下に残っていた。
 拍手や笑い声、どこかのクラスの呼び込みの声が混ざり合い、少しだけ現実感を取り戻し始めた頃。

 陽向は、胸の前で大切そうに漫画本を抱えていた。

 さっき怜から渡されたばかりのそれは、まだ表紙すらまともに見られていない。指先に伝わる紙の感触だけで、心臓の鼓動がうるさくなる。

 ――早く読みたい。

 その気持ちが顔に出ていたのだろう。

「……それ、一旦預かるね」

 すぐ隣を歩いていた怜が、そう言って陽向の腕に視線を落とした。

「え?」

 思わず間の抜けた声が出る。

 怜は落ち着いた様子で、陽向の返事を待たずに手を差し出した。

「僕、手持ちの鞄あるし」
「後でちゃんと渡すから」

 言い切る声に、迷いはなかった。

「……あとで、な?」

 陽向は名残惜しそうに漫画を手放す。
 怜はそれを丁寧に受け取り、鞄の中にしまった。その仕草がやけに慎重で、まるで壊れ物を扱うみたいだった。

 陽向は、その様子を見て、文句を言う気をなくした。

「それより」

 怜が話題を切り替える。

「陽向と行きたい場所があるんだ」

「場所?」

 怜は一瞬だけ視線を逸らし、少しだけ声を落とした。

「……予約してた」

 その言葉に、陽向の胸が妙に跳ねる。

「文化祭なのに、予約?」
「どこだよ」

 怜は答えず、ただ歩き出した。

 人混みを縫うように進む。肩が触れそうで触れない距離。
 気づけば、自然と隣同士で歩いていた。

 そして、見えてきた看板。

『一年三組 ― 恐怖の館 ―』

 陽向は、その場で固まった。

「……え」

 視線をゆっくり怜に向ける。

「ちょ、ここ……」

 怜は至って普通の顔をしている。

「一年三組の出し物」
「ここ」

「ここ、じゃないだろ……!」

 陽向の声が裏返る。

 怜は少しだけ困ったように微笑んだ。

「この前、遊園地行った時」
「お化け屋敷の前、通りかかったでしょ」

 ――あ。

 記憶が鮮明に蘇る。
 あの時、自分はどうしていたか。

「……その時、陽向」
「すごくビクビクしてたから」

 陽向は完全に図星を刺され、言葉を失った。

「苦手なのかなって思って」

「……見てたのかよ」

「うん」

 即答だった。

「怜、性格悪くない?」

「そうかな」

 否定も肯定もしない態度が、余計にタチが悪い。

 入口の暗幕の前で、陽向の足は完全に止まっていた。

「……怜は平気なの?」

 すがるように聞くと、怜は少し考えてから答えた。

「びっくりはするよ」
「でも、目閉じるだけ」

「それだけ!?」

 陽向は信じられなかった。

 怜は一歩近づき、そっと陽向の袖を掴む。

「大丈夫」
「一緒だから」

 その一言で、逃げ道がなくなった。

「……手、離すなよ」

「離さない」

 即答だった。

 中は暗く、妙にリアルな効果音が鳴り響いていた。

「うわあああああ!!」

 最初の仕掛けで、陽向は盛大に叫んだ。

 怜は反射的に目を閉じるが、声は出ない。

 次の角を曲がった瞬間、何かが飛び出してくる。

「無理無理無理!!」

 陽向は完全に限界だった。

 気づいた時には、怜にしがみついていた。

 腕に、胸に、顔を埋める。

「……陽向、落ち着いて」

 怜の声は静かだった。

 背中に、そっと手が回される。

 抱き返されていると気づいた瞬間、陽向の頭が真っ白になる。

 ――やばい。

 怖いのか、恥ずかしいのか、自分でも分からない。

 周囲からは悲鳴や笑い声が聞こえるが、陽向の世界には怜しかいなかった。

 出口の光が見えてきた頃、ようやく正気を取り戻す。

 それでも、離れられない。

 怜は何も言わず、受け入れたままだった。

 外に出た瞬間、明るさに目がくらむ。

「……もう二度と入らない」

 陽向がそう言うと、怜は小さく笑った。

「叫び声、すごかった」

「言うな……」

 ようやく身体を離すと、胸の奥が妙にざわついた。

 ――このあと。

 ――漫画を読む。

 そのことを思い出しただけで、陽向の情緒は、また崩れ始めていた。