犬系男子は猫系男子に恋をする

 正門の前に立ちながら、怜は自分でも驚くほど落ち着いていなかった。

 胸の奥が、ずっとざわついている。
 理由は分かっている。

 ――まだ、残っている。

 額に、ほんの一瞬触れた感覚。
 舞台の暗転の中で起きた、あの出来事。

(……消えないんだ)

 嫌じゃなかった。
 それどころか、思い出すたびに胸がきゅっと締めつけられる。

 そんな自分に、戸惑っている。

 視線を上げると、校門の向こうから歩いてくる影があった。

 春日陽向。

 いつもより背中が丸まっていて、歩幅も小さい。
 まるで、しょげた大型犬みたいだと思ってしまう。

「……」

 声をかける前に、陽向がこちらに気づいた。

 一瞬、目を見開いて、それから目を逸らす。

「……怜」

 呼ばれた名前が、少し震えている。

「……待ってた」

「……うん」

 会話が続かない。
 沈黙が、やけに重い。

 怜は一歩前に出た。

「ここじゃ、落ち着かない」

「え?」

「……来て」

 そう言って、陽向の袖を軽く掴む。

 拒まれなかった。
 そのことに、少しだけ安心する。

 校舎裏。
 人気のない場所に着いた瞬間、陽向が立ち止まった。

「……怜」

 深く息を吸って、頭を下げる。

「あんなことして、ごめん」

 はっきりした声だった。

「舞台中なのに……自分でも、なんであんなことしたのか分からなくて」

 ぎゅっと拳を握る。

「……嫌だったよな?」

 その問いに、怜はすぐ答えられなかった。

 代わりに、一歩近づく。

 そして、背伸びをした。

 唇が触れそうな距離。
 でも、触れないところで止める。

「……っ」

 陽向の息が詰まる音が、はっきり聞こえた。

「れ、怜……?」

 近すぎる距離。
 視界いっぱいに、陽向の顔。

 赤くなっていくのが、目に見えて分かる。

 怜は、そのまま一秒だけ止まってから――

 指を弾いた。

 コツン。

「あいたっ!?」

 陽向が間の抜けた声を上げる。

「……さっきのお返し」

 怜は少しだけ口元を緩めた。

「僕ばっかりドキドキさせられるの、嫌だから」

「……」

 陽向は、完全に思考停止していた。

「……顔、真っ赤」

「そ、それ……怜が……」

「ねえ、春日」

 怜は、真剣な目で見上げる。

「逃げないで」

「……」

「ちゃんと、話したい」

 しばらくの沈黙のあと、陽向は小さく頷いた。

「……うん」

 二人並んで正門へ戻る道。
 さっきより、ほんの少し距離が近い。

 怜は、鞄の中に入れていたものを思い出す。

(……渡すって、決めたんだ)

 正門の前で立ち止まる。

「春日」

「なに?」

 怜は、漫画本を差し出した。

「これ……読んでほしい」

「……漫画?」

「うん」

 一瞬、視線を逸らしてから続ける。

「言葉にするの、得意じゃないから」

 陽向は戸惑いながら受け取る。

 表紙のタイトルを見て、目を瞬かせた。

『犬系男子と、気づかない猫』

「……これ」

「犬系と猫」

 怜は小さく息を吐く。

「主人公、春日」

「……俺?」

「そう」

 陽向の喉が、ごくりと鳴る。

「……怜の気持ち、入ってる?」

「……全部じゃないけど」

 少し間を置いて、正直に言う。

「大事なところは」

 陽向は、胸に漫画を抱えた。

「……大事に読む」

「うん」

 夕焼けが、校門を赤く染めていく。

 二人はまだ、恋人じゃない。
 答えも、はっきりしていない。

 でも。

 逃げなかった。
 一歩踏み出した。
 渡して、受け取った。

 それだけで、今日は十分だと思えた。

 怜は、空を見上げて小さく息を吐いた。

(……覚悟、決めたんだから)

 この先、どうなっても。