犬系男子は猫系男子に恋をする

 体育館の空気が、張りつめていた。

 舞台の上、静まり返った観客席を背に、怜と陽向は向き合って立っている。
 照明はやや落とされ、二人の輪郭だけが柔らかく浮かび上がっていた。

「……夜が、こんなにも静かだなんて」

 怜――ジュリエットの声が、澄んで響く。

 その一言で、陽向の背筋が伸びた。
 舞台の終わりが、確実に近づいている。

(ここから先は……)

 決められた動き。
 決められた距離。

 なのに、心臓だけが勝手に速くなる。

「ロミオ」

 名前を呼ばれただけで、胸が締めつけられた。

「あなたは、怖くないの?」

 台詞だ。
 そう分かっている。

「……何が?」

 答えながら、陽向は一歩、近づく。

「この先のこと。

 朝が来ることも、来ないことも」

 怜は、扇子を手にしていた。
 白く細い指で縁をなぞりながら、ゆっくりとそれを持ち上げる。

 ――扇子の演出。

 観客には、“二人の顔を隠すための仕草”に見えるはずだった。

「……怖いよ」

 陽向の声は、少し低くなった。

「でも」

 一歩、また一歩。

 扇子の向こうで、怜の気配が近づく。

「君がいない世界の方が、ずっと」

 扇子が、二人の間に影を落とす。
 視線が遮られ、観客席からは何も見えない。

 ――その瞬間。

 照明が、落ちた。

 完全な暗転。

 息を吸う音。
 布が擦れる、微かな音。

(……今だ)

 理性が、遅れて悲鳴を上げた。

(やめろ、春日……)

 でも、体が先に動いてしまった。

 ほんの一瞬。
 触れるか触れないか、その距離。

 柔らかな感触が、額に伝わる。

 短く、静かで、確かな接触。

(……っ)

 すぐに離れた。

 何事もなかったかのように、元の位置へ戻る。

 心臓の音が、うるさすぎる。

(どうして……)

(どうして、こんなこと……)

 暗闇の中、怜は息を止めていた。

 一瞬、時間が止まったように感じてから――
 ゆっくりと、息を吐く。

(……今の)

 でも、声には出さない。

 それが舞台だから。
 今は、役を生きる時間だから。

 照明が、戻る。

 淡い光の中、二人はすでに向かい合っていた。

 何もなかった顔で。
 何もなかった距離で。

「……ロミオ?」

 怜の声は、少しだけ震えていたが、観客には分からない程度だった。

 陽向は、怜を見られなかった。

(無理だ……)

(今、目を合わせたら……)

 視線を伏せたまま、台詞を続ける。

「……俺は」

 喉が、詰まる。

「俺は、君を——」

 一拍。

 観客が、息を呑む。

(役だ)

(これは、役の言葉だ)

「……愛している」

 言い切った瞬間、怜の胸が小さく上下した。

「……本当に?」

「本当だ」

 ようやく、陽向は顔を上げた。

 視線が、絡む。

 近すぎて、逃げられない。

「たとえ、夜が終わらなくても?」

「それでも」

 即答だった。

 理性よりも先に、心が答えていた。

 音楽が、静かに流れ始める。
 ラストへ向かう合図。

 二人は並び、観客席へと向き直る。

 肩が触れそうで、触れない距離。

 怜の手が、わずかに震えているのが分かった。

(……さっきのせいだ)

 そう思った瞬間、胸が痛んだ。

「……さようなら、世界」

 ジュリエットの、最後の台詞。

 静寂。

 体育館全体が、言葉を待っている。

 陽向は、深く息を吸った。

(ここまで来たんだ)

(逃げるのは、幕が下りてからだ)

「……また、どこかで」

 ロミオの、最後の言葉。

 震えはなかった。

 照明が、ゆっくりと落ちていく。

 暗くなる視界の中で、陽向は強く思った。

(終わったら……)

(終わったら、ちゃんと謝ろう)

 舞台は、まだ終わっていない。

 幕が下りる、その瞬間まで。

 陽向は、怜の方を一度も見なかった。