犬系男子は猫系男子に恋をする

 暗転が解ける。

 舞台の上に、淡い照明が戻ってくると同時に、体育館全体が水を打ったように静まり返った。

 誰も喋らない。
 誰も動かない。

 さっきまで確かにあったはずのざわめきも、咳払いも、衣擦れの音さえ消えてしまったようで、耳に届くのは、自分の呼吸と、遠くの空調の低い音だけだった。

 怜は舞台の中央に立ったまま、ゆっくりと瞬きをする。

 目の前には、照明に照らされた陽向の姿。

 舞台衣装のロミオ。
 整えられた髪。
 真剣な横顔。

 ――演技に集中しなきゃ。

 そう思うのに、どうしても視線が彼から離れない。

 さっきの台詞。
 さっきの暗転。
 さっきの、ほんの一瞬の出来事。

 思い出してはいけないと分かっているのに、胸の奥がざわついて、心臓の位置だけがやけにうるさい。

 次の場面は、二人が別れを選ぶ直前のシーン。

 台本にも、稽古ノートにも、何度も書いた動き。

「ロミオはジュリエットの手を取る。
 強く握らない。
 離れがたい気持ちを残す程度で」

 何度も練習した。
 何度も修正された。
 もう体に染みついているはずの動作。

 なのに。

 陽向が、ゆっくりとこちらに一歩近づく。

 革靴の音が、やけに大きく響いた気がした。

 彼が台詞を口にしながら、右手を差し出す。

 舞台用の白い手袋越しでも分かる、少しだけ強張った指。

 怜の時間が、そこで一瞬止まった。

 客席が遠のく。
 体育館が遠のく。

 目の前にあるのは、その手だけ。

 ――大丈夫。

 ――これは、役。

 心の中で繰り返しながら、怜は自分の手を持ち上げた。

 指先が、そっと触れる。

 その瞬間。

 自分でも驚くほど、手が震えた。

 小さく、でも確実に。

 誤魔化せないほど、はっきりと。

 慌てて力を込めようとする。
 指を揃えようとする。

 でも、震えは止まらない。

 台詞は、口から自然に出ている。
 声も震えていない。

 なのに、手だけが正直すぎた。

 陽向の視線が、一瞬だけ下に落ちる。

 重なった二人の手。

 怜の震え。

 気づいたのが、分かった。

 でも、陽向は何も言わない。
 演技を崩さない。

 代わりに、ほんの少しだけ、指に力がこもる。

 握り返すほど強くはない。
 でも、離さないと伝えるには十分な温度。

 その感触に、怜の胸がぎゅっと縮んだ。

 ――ずるい。

 そんな言葉が、喉まで上がってきて、飲み込む。

 演技。
 舞台。
 役。

 分かっている。

 分かっているのに。

 陽向の手のひらは、あまりにも現実で、あまりにも近かった。

 観客席から見れば、きっと綺麗な場面なのだろう。

 運命に引き裂かれる恋人同士。
 名残惜しそうに手を取るロミオとジュリエット。

 完璧な構図。

 誰も、この手の震えが本物だなんて気づかない。

 怜は、ジュリエットとして最後の台詞を口にする。

 声は、不思議なくらい落ち着いていた。

 練習通り。
 台本通り。

 ただ、心臓だけが速すぎる。

 陽向が、小さく頷く。

 それが合図。

 二人の手が、ゆっくりと離れる。

 指先が、名残を惜しむように一瞬だけ触れ合ってから、離れた。

 その感覚が、消えない。

 照明が、少しずつ落ちていく。

 舞台は、また静寂に包まれる。

 怜は俯きながら思った。

 ――このまま、終われるわけがない。

 演技だと、割り切れるほど、もう単純じゃない。

 次は、ラストシーン。

 もう、逃げ場はない。

 胸の奥で、何かが静かに、でも確実に音を立てていた。