犬系男子は猫系男子に恋をする

舞台袖の空気は、ひどく乾いていた。

照明が上がる直前、怜は深く息を吸い、静かに吐いた。
衣装の裾を整えながら、無意識に指先が震える。

(……大丈夫)

自分に言い聞かせる。
これは演技。
ジュリエットとして舞台に立つだけ。

視線を上げると、すぐそこにロミオ――陽向が立っていた。
同じ衣装、同じ舞台。
それなのに、普段よりずっと遠く感じる。

……いや、近すぎるのかもしれない。

「行くぞ」

小さな声で、陽向が言う。
それだけで胸の奥が跳ねた。

照明が上がる。

ざわめきが一瞬で静まり返り、客席の視線が一斉に舞台へ集まる。
その中心に立つのは、ロミオとジュリエット。

そしてその背後――
威厳ある佇まいで立つロミオの父、黒川。
気品をまとい、静かに見守るジュリエットの母、白石。

全員が実行委員で、今は役者だ。

「――なぜ、父上はこの想いを許してくださらないのです」

怜の声が、舞台に響く。

台詞だ。
何度も稽古で口にした言葉。

それなのに、今日の声は少し震えていた。

(……なんで)

感情が、役の内側から滲み出てくる。

「それが禁じられたものであったとしても」

陽向が一歩前に出る。
低く、まっすぐな声。

「俺は、この想いを捨てられない」

視線が、怜を射抜く。

(……見るな)

そう思うのに、目を逸らせない。
観客がいることを、忘れてしまいそうになる。

黒川が、ロミオの父として前へ出る。

「愚かだな、ロミオ」

重みのある声。
厳格で、揺るがない父親。

だがその内側で、黒川は必死だった。

(……近い、近いって。
いや、演技だ。演技。
……尊い……)

表情一つ変えず、役を全うする。

「家の名を背負う者としての覚悟を、忘れるな」

その言葉に、陽向は一瞬だけ歯を食いしばる。

(……父親役なのに、効く)

白石が、母親として静かに前へ。

「あなた……その子の瞳を、よくご覧なさい」

柔らかく、しかし芯のある声。

怜は、その声に背中を押された気がした。

「覚悟もなく、立っている目ではありません」

白石の視線が、一瞬だけ怜に向く。

(……大丈夫)

言葉はない。
けれど、確かにそう伝わった。

「――私は」

怜はジュリエットとして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「この人のそばにいることを、選びました」

その瞬間、胸の奥が熱くなる。

(……言っちゃった)

台詞のはずなのに。
役の言葉なのに。

陽向の目が、はっきりと揺れた。

「この想いが罪なら」

陽向は一歩、距離を詰める。

近い。
触れそうで、触れない。

「罰は、俺がすべて受ける」

舞台の空気が張り詰める。

観客席から、息を呑む音が聞こえた。
誰かが感動している。
名シーンだと思っている。

黒川は父親として沈黙し、白石も母親として視線を伏せる。

――舞台の中央に、二人だけの世界が生まれる。

怜と陽向。

視線が絡み、呼吸が近づく。

(……だめ)

触れない約束。
それだけが、二人を現実に繋ぎ止めていた。

照明が、ゆっくりと落ちる。
暗転。

拍手が起こる。

観客には、完璧な演技に見えただろう。

けれど舞台に立っていた全員が、うっすらと理解していた。

今の台詞は、ただの演技じゃない。

役を借りた本音が、
確かに――重なってしまった瞬間だった。