縁側に座ると、夜の気配がすっと近づいてきた。
木の床は昼の熱をほとんど残していなくて、座布団越しにもひんやりとした感触が伝わってくる。庭の奥から、虫の声が規則正しく響いていた。
怜の前には、抹茶の碗が二つ並んでいる。
深い緑色の液面から、ほのかに湯気が立っていた。
「……ここ、よく来るのか」
陽向が、縁側の先を眺めながら言った。
「うん。落ち着くから」
それだけ答えて、怜は碗に手を伸ばした。指先が少し震えているのが、自分でも分かる。けれど、その震えを隠すように、ゆっくりと碗を持ち上げた。
一口含むと、苦味が舌に広がる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「……苦い?」
「いや。平気」
陽向はそう言って、同じように抹茶を口にした。
眉がわずかに動いたのを、怜は見逃さなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、今日は怖くなかった。
怜は、碗を両手で包み込むように持ったまま、視線を落とす。
「……陽向」
無意識に名前がこぼれて、自分で驚いた。
「なに」
優しく返ってくる声。
その声に背中を押されるように、怜は言葉を続けた。
「僕さ……」
一度、息を吸う。
「陽向に触られるの、嫌じゃない」
言ってしまった、と思った。
けれど、止められなかった。
「……むしろ」
抹茶の表面が、わずかに揺れる。
「もっと、触ってほしいって思ってる」
喉が詰まりそうになる。
「ごめん。変だよね。気持ち悪いよね、こんなの」
最後の言葉は、ほとんど掠れていた。
陽向は、すぐには何も言わなかった。
ただ、怜の方を見ている気配がする。
「……明日、文化祭でしょ」
怜は続けた。
「このまま、何も言わないまま舞台に立つのが……どうしても嫌だった」
抹茶の苦味が、胸の奥に落ちていく。
「面と向かってだと、上手く話せないかもしれないって思って……だから」
少しだけ、視線を上げる。
「抹茶飲みながらなら、話せるかなって」
陽向は、ゆっくりと息を吐いた。
「……怜」
名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
「それ、全部……聞けてよかった」
否定はなかった。
戸惑いも、嫌悪も。
「俺は、嫌だなんて思わない」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
触れない。
それでも、確かに伝わってくる温度があった。
しばらくして、二人は店を出た。
夜道は静かで、街灯の光が淡く足元を照らしている。
並んで歩いているだけなのに、距離が近い。
肩が触れそうで、触れない。
駅が見えてきて、足が自然と遅くなる。
「……じゃあ、また明日」
怜が言うと、陽向は少し間を置いて頷いた。
「……うん」
陽向はそのまま改札の方へ向かった。
その背中を見送ろうとして――
「……陽向」
声をかける前に、彼が立ち止まった。
振り返って、数歩戻ってくる。
次の瞬間、視界が近くなった。
陽向の腕が、怜を包み込む。
強くはない。
でも、確かに抱きしめられていた。
「怜の気持ち、聞けて嬉しかった」
低い声が、耳元に落ちる。
心臓の音が、うるさい。
怜は、拒まなかった。
腕を返すこともできず、ただそこにいた。
すぐに、陽向は離れた。
「……また明日」
今度は、はっきりと。
改札の向こうへ行く背中を見送ってから、怜は裏門へ向かった。
待たせていた車に乗り込む。
「駅まで、ありがとうございました」
そう言って、家へ向かう途中。
スマホが震えた。
画面には、青井の名前。
『三条先輩こんばんわ!例の作品完成しました!
なんなんですか、あれ、めっちゃトキメキがやばいです!?
ドキドキしながら完成させたんですが、早くみんなに読ませたいです。
漫画を本にしたんで、明日取りに来てくださいね。
ではお休みなさい』
怜は、しばらく画面を見つめていた。
今日の言葉。
抱きしめられた感触。
明日の舞台。
全部が、胸の中で重なっていく。
家に着いて、自室に戻る。
ベッドに腰を下ろし、スマホを握った。
同じ頃。
きっと、陽向も同じように画面を見ている。
ほとんど同時に、メッセージを送った。
『今日は、ありがとう。ちゃんと聞いてくれて』
『俺も。話してくれてありがとう』
既読がついて、すぐに返事が来る。
それだけで、胸が満たされた。
スマホを胸に抱えたまま、目を閉じる。
明日は文化祭。
舞台に立つ日。
でももう――
何も知らなかった頃には、戻れなかった。
木の床は昼の熱をほとんど残していなくて、座布団越しにもひんやりとした感触が伝わってくる。庭の奥から、虫の声が規則正しく響いていた。
怜の前には、抹茶の碗が二つ並んでいる。
深い緑色の液面から、ほのかに湯気が立っていた。
「……ここ、よく来るのか」
陽向が、縁側の先を眺めながら言った。
「うん。落ち着くから」
それだけ答えて、怜は碗に手を伸ばした。指先が少し震えているのが、自分でも分かる。けれど、その震えを隠すように、ゆっくりと碗を持ち上げた。
一口含むと、苦味が舌に広がる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「……苦い?」
「いや。平気」
陽向はそう言って、同じように抹茶を口にした。
眉がわずかに動いたのを、怜は見逃さなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、今日は怖くなかった。
怜は、碗を両手で包み込むように持ったまま、視線を落とす。
「……陽向」
無意識に名前がこぼれて、自分で驚いた。
「なに」
優しく返ってくる声。
その声に背中を押されるように、怜は言葉を続けた。
「僕さ……」
一度、息を吸う。
「陽向に触られるの、嫌じゃない」
言ってしまった、と思った。
けれど、止められなかった。
「……むしろ」
抹茶の表面が、わずかに揺れる。
「もっと、触ってほしいって思ってる」
喉が詰まりそうになる。
「ごめん。変だよね。気持ち悪いよね、こんなの」
最後の言葉は、ほとんど掠れていた。
陽向は、すぐには何も言わなかった。
ただ、怜の方を見ている気配がする。
「……明日、文化祭でしょ」
怜は続けた。
「このまま、何も言わないまま舞台に立つのが……どうしても嫌だった」
抹茶の苦味が、胸の奥に落ちていく。
「面と向かってだと、上手く話せないかもしれないって思って……だから」
少しだけ、視線を上げる。
「抹茶飲みながらなら、話せるかなって」
陽向は、ゆっくりと息を吐いた。
「……怜」
名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
「それ、全部……聞けてよかった」
否定はなかった。
戸惑いも、嫌悪も。
「俺は、嫌だなんて思わない」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
触れない。
それでも、確かに伝わってくる温度があった。
しばらくして、二人は店を出た。
夜道は静かで、街灯の光が淡く足元を照らしている。
並んで歩いているだけなのに、距離が近い。
肩が触れそうで、触れない。
駅が見えてきて、足が自然と遅くなる。
「……じゃあ、また明日」
怜が言うと、陽向は少し間を置いて頷いた。
「……うん」
陽向はそのまま改札の方へ向かった。
その背中を見送ろうとして――
「……陽向」
声をかける前に、彼が立ち止まった。
振り返って、数歩戻ってくる。
次の瞬間、視界が近くなった。
陽向の腕が、怜を包み込む。
強くはない。
でも、確かに抱きしめられていた。
「怜の気持ち、聞けて嬉しかった」
低い声が、耳元に落ちる。
心臓の音が、うるさい。
怜は、拒まなかった。
腕を返すこともできず、ただそこにいた。
すぐに、陽向は離れた。
「……また明日」
今度は、はっきりと。
改札の向こうへ行く背中を見送ってから、怜は裏門へ向かった。
待たせていた車に乗り込む。
「駅まで、ありがとうございました」
そう言って、家へ向かう途中。
スマホが震えた。
画面には、青井の名前。
『三条先輩こんばんわ!例の作品完成しました!
なんなんですか、あれ、めっちゃトキメキがやばいです!?
ドキドキしながら完成させたんですが、早くみんなに読ませたいです。
漫画を本にしたんで、明日取りに来てくださいね。
ではお休みなさい』
怜は、しばらく画面を見つめていた。
今日の言葉。
抱きしめられた感触。
明日の舞台。
全部が、胸の中で重なっていく。
家に着いて、自室に戻る。
ベッドに腰を下ろし、スマホを握った。
同じ頃。
きっと、陽向も同じように画面を見ている。
ほとんど同時に、メッセージを送った。
『今日は、ありがとう。ちゃんと聞いてくれて』
『俺も。話してくれてありがとう』
既読がついて、すぐに返事が来る。
それだけで、胸が満たされた。
スマホを胸に抱えたまま、目を閉じる。
明日は文化祭。
舞台に立つ日。
でももう――
何も知らなかった頃には、戻れなかった。


