犬系男子は猫系男子に恋をする

体育館の照明が落ちると、空気が一気に緩んだ。
最終稽古が終わった合図だった。

拍手も歓声もなく、ただ床をこする足音と、誰かの息が整う音だけが残る。文化祭前日の夜は、いつもこんなふうに静かだ。

怜は台本を胸に抱えたまま、しばらく動けずにいた。
最後の場面――暗転、そして“キスのふり”。
確認のために通した動きが、まだ体に残っている。

春日はいつも通りだった。
声も、立ち位置も、目線も完璧で、だからこそ余計に、怜の心は落ち着かなかった。

「……このあと」

自分でも驚くほど、小さな声だった。

「時間、大丈夫?」

春日はすぐに振り返った。
「大丈夫だけど?」

その返事に、胸の奥が少しだけ軽くなる。

「行きたい場所があって……よければ、着いてきて」

言い切るまでに、ほんの一拍。
春日は理由を聞かなかった。

「うん」

それだけで十分だった。

***

昇降口ではなく、二人は裏門へ向かった。
夕暮れの校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

春日は、無意識に怜の歩幅に合わせていた。
それに気づいて、少しだけ可笑しくなる。

裏門の前に停まっていた黒塗りの車を見た瞬間、春日は足を止めた。

「あ……」

言葉にならない声が漏れる。

怜は慣れた様子でドアに近づき、振り返る。

「……駅までお願いします」

運転手にそう告げてから、春日を見る。
「乗って」

一瞬、躊躇はあった。
でも、怜の目が逃げ場を与えなかった。

車内は静かで、柔らかいシートに身体が沈む。
肩が触れそうで触れない距離。

春日は窓の外を見つめながら、考えないようにしていた。
怜の世界と、自分の世界の違いを。

***

駅前で車を降りると、空気が変わった。
人の気配はあるのに、二人の周囲だけが切り取られたように静かだ。

「ここからは歩くよ」

怜はそう言って、先に歩き出した。

商店街を抜け、細い道へ入る。
古い家並み、提灯の灯り、夜風に混じる草の匂い。

「……どこ行くの?」

春日が聞くと、怜は少しだけ間を置いて答えた。

「苦いの、平気?」

「え?」

「抹茶」

それだけで、春日はすべてを理解した気がした。
怜は、逃げているわけじゃない。
向き合おうとしている。

***

暖簾をくぐると、店内には落ち着いた香りが満ちていた。

「三条くんじゃん、またいつものかい?」

奥から声がかかる。

「うん、いつものを二つお願いしても良い?」

「了解。じゃあ、いつもの縁側空いてるから、そこ座って」

怜の表情は、学校で見るそれより柔らかかった。
ここでは、気を張らなくていいのだと、春日はすぐに分かった。

縁側に並んで座る。
庭の石と苔が、月明かりに淡く照らされている。

二人の間には、拳ひとつ分の距離。
触れない約束は、ここでも守られていた。

抹茶が運ばれてくるまで、言葉は少なかった。
沈黙が重くないのは、互いに同じことを考えているからだ。

やがて、器が置かれる。

「……ありがとう」

怜がそう言って、湯気の向こうを見つめた。

一口飲んで、少しだけ眉を寄せる。
春日は、それを見て笑った。

「やっぱ苦い?」

「……でも、美味しい」

その言葉は、本心だった。

少し間があって――
怜が、ぽつりと口を開いた。

「……陽向」

春日は瞬きをした。
今、名前を呼ばれた。

怜自身も、気づいていないようだった。
そのまま続ける。

「陽向と、少し話したくて」

指先が、膝の上でぎゅっと握られる。

「僕の思いを、聞いて欲しくて……でも、面と向かって話すと、上手く話せないかもしれないから」

抹茶の器を見つめたまま、声が震える。

「抹茶飲みながらだと、話せるかなって思って」

春日は、ゆっくりと息を吸った。

「うん」

優しく、はっきりと。

「怜の話、聞かせて」

夜はまだ、始まったばかりだった。