教室に入った瞬間、空気が少し違うと気づいた。
春日の隣の席に鞄を置き、椅子に腰を下ろしただけなのに、視線が集まる。
それも一つや二つじゃない。
ちらり、ひそひそ、視線が行き交う気配が、やけに多かった。
(……なに)
気のせいだと思おうとして、無理だとすぐ分かる。
「ねえ、見た?」
「最近ずっと一緒じゃない?」
「文化祭の劇もあるしさ」
断片的な声が、意図せず耳に入ってくる。
怜は、ノートを開いたままペンを止めた。
胸の奥が、じわりと重くなる。
隣を見ると、春日はいつも通りだった。
制服のシャツの袖を軽くまくり、窓の外をぼんやり眺めている。
——何も知らない、わけじゃないはずなのに。
(……聞こえてない?)
そう思った瞬間、春日がこちらを向いた。
「おはよ、怜」
いつもと変わらない声。
それが逆に、怜を落ち着かなくさせた。
「……おはよう」
短く返すと、また前を向く。
胸の奥がざわついて、落ち着かない。
さっきの声が、頭の中で何度も再生される。
——付き合ってるの?
言葉にされる前から、勝手に形を持ち始める噂。
(……やだな)
理由は、はっきりしていた。
自分がどう思われるかじゃない。
春日まで、変な目で見られるのが嫌だった。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
黒板の文字を写しながらも、怜の集中は途切れ途切れだった。
休み時間になると、怜はいつもより早く席を立った。
「怜?」
春日の声が追いかけてくる。
「……あとで」
視線を合わせないまま、文芸部室へ向かう。
逃げるみたいだ、と自分でも分かっていた。
でも、今は一緒にいると、余計に目立つ気がして。
廊下を歩きながら、怜は小さく息を吐いた。
(……春日、気づいてるかな)
文芸部室は、相変わらず静かだった。
紙とインクの匂いが、少しだけ心を落ち着かせる。
昼休みが終わる頃、教室に戻ると、今度ははっきり聞こえた。
「ねえ三条」
女子の声だった。
「春日と、付き合ってるの?」
言葉が、直球で投げられる。
怜は、その場で固まった。
一瞬で、頭が真っ白になる。
肯定も否定も、どちらの言葉も出てこない。
「……ち、違う」
ようやく出た声は、小さくて頼りなかった。
「そっかぁ」
納得したのか、していないのか分からない反応。
でも、そのやり取りを——春日は見ていた。
怜が視線を上げたときには、春日はすでに立ち上がっていた。
そのまま、女子たちの方へ歩いていく。
(……え)
胸が嫌な音を立てる。
怒るんじゃないか。
余計に噂が広がるんじゃないか。
でも、春日は怒鳴らなかった。
「……本人が困ること、言うなよ」
声は低いけれど、静かだった。
「噂で遊ぶの、やめて」
教室の空気が、すっと冷える。
女子たちは一瞬言葉に詰まり、視線を逸らした。
「……ごめん」
小さくそう言って、離れていく。
怜は、しばらく動けなかった。
放課後。
校舎裏で、ようやく二人きりになる。
「……なんで」
怜が言うと、春日は立ち止まった。
「怜が嫌そうだった」
即答だった。
「それだけ」
怜は、唇を噛む。
「でも……春日まで、変な目で見られる」
「それでもいい」
迷いのない声。
「怜が傷つく方が嫌だ」
言葉が、胸に落ちる。
怜は何も言えなくなった。
ただ、少しだけ俯いて、小さく言う。
「……ありがとう」
春日は、困ったように笑った。
距離は、まだ近づかない。
でも——
噂よりも、確かに強いものが、そこにあった。
春日の隣の席に鞄を置き、椅子に腰を下ろしただけなのに、視線が集まる。
それも一つや二つじゃない。
ちらり、ひそひそ、視線が行き交う気配が、やけに多かった。
(……なに)
気のせいだと思おうとして、無理だとすぐ分かる。
「ねえ、見た?」
「最近ずっと一緒じゃない?」
「文化祭の劇もあるしさ」
断片的な声が、意図せず耳に入ってくる。
怜は、ノートを開いたままペンを止めた。
胸の奥が、じわりと重くなる。
隣を見ると、春日はいつも通りだった。
制服のシャツの袖を軽くまくり、窓の外をぼんやり眺めている。
——何も知らない、わけじゃないはずなのに。
(……聞こえてない?)
そう思った瞬間、春日がこちらを向いた。
「おはよ、怜」
いつもと変わらない声。
それが逆に、怜を落ち着かなくさせた。
「……おはよう」
短く返すと、また前を向く。
胸の奥がざわついて、落ち着かない。
さっきの声が、頭の中で何度も再生される。
——付き合ってるの?
言葉にされる前から、勝手に形を持ち始める噂。
(……やだな)
理由は、はっきりしていた。
自分がどう思われるかじゃない。
春日まで、変な目で見られるのが嫌だった。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
黒板の文字を写しながらも、怜の集中は途切れ途切れだった。
休み時間になると、怜はいつもより早く席を立った。
「怜?」
春日の声が追いかけてくる。
「……あとで」
視線を合わせないまま、文芸部室へ向かう。
逃げるみたいだ、と自分でも分かっていた。
でも、今は一緒にいると、余計に目立つ気がして。
廊下を歩きながら、怜は小さく息を吐いた。
(……春日、気づいてるかな)
文芸部室は、相変わらず静かだった。
紙とインクの匂いが、少しだけ心を落ち着かせる。
昼休みが終わる頃、教室に戻ると、今度ははっきり聞こえた。
「ねえ三条」
女子の声だった。
「春日と、付き合ってるの?」
言葉が、直球で投げられる。
怜は、その場で固まった。
一瞬で、頭が真っ白になる。
肯定も否定も、どちらの言葉も出てこない。
「……ち、違う」
ようやく出た声は、小さくて頼りなかった。
「そっかぁ」
納得したのか、していないのか分からない反応。
でも、そのやり取りを——春日は見ていた。
怜が視線を上げたときには、春日はすでに立ち上がっていた。
そのまま、女子たちの方へ歩いていく。
(……え)
胸が嫌な音を立てる。
怒るんじゃないか。
余計に噂が広がるんじゃないか。
でも、春日は怒鳴らなかった。
「……本人が困ること、言うなよ」
声は低いけれど、静かだった。
「噂で遊ぶの、やめて」
教室の空気が、すっと冷える。
女子たちは一瞬言葉に詰まり、視線を逸らした。
「……ごめん」
小さくそう言って、離れていく。
怜は、しばらく動けなかった。
放課後。
校舎裏で、ようやく二人きりになる。
「……なんで」
怜が言うと、春日は立ち止まった。
「怜が嫌そうだった」
即答だった。
「それだけ」
怜は、唇を噛む。
「でも……春日まで、変な目で見られる」
「それでもいい」
迷いのない声。
「怜が傷つく方が嫌だ」
言葉が、胸に落ちる。
怜は何も言えなくなった。
ただ、少しだけ俯いて、小さく言う。
「……ありがとう」
春日は、困ったように笑った。
距離は、まだ近づかない。
でも——
噂よりも、確かに強いものが、そこにあった。


