朝の教室は、まだ完全には目を覚ましていない。
カーテン越しの光が淡く差し込み、机の上に影を落としている。
俺は席に着き、鞄から教科書を取り出した。
ブレザーの袖口を整えると、すぐ隣から椅子を引く音がする。
「おはよ、怜」
名前を呼ばれる。
「……おはよう」
返事をしながら、胸の奥がわずかにざわついた。
名前で呼ばれる距離。
それが、思っていたよりも近い。
これまでも名前を呼ばれたことはある。
けれど、陽向の声は、近すぎる。
隣同士だから当然なのに、耳元に直接触れるみたいな感覚がして、落ち着かない。
陽向は今日もネクタイを少し緩めている。
背が高いせいで、座っていても存在感がある。
「怜、ノート見せて」
「……さっき配られたばかりだろ」
「一応」
顔を近づけてくる。
距離が近い。
「……近い」
「そう?」
本気で分かっていない顔をするのが、厄介だ。
俺は椅子を少しだけ引いた。
けれど、身長差のせいで、視線は結局ぶつかる。
陽向は、俺より頭一つ分高い。
それだけで、逃げ場が少なくなる。
「怜ってさ」
また、名前。
「俺のこと、どう思ってる?」
「……唐突だな」
「気になって」
即答だった。
どう思っているか。
それを言葉にするのは、簡単じゃない。
「……うるさいやつ」
「ひど」
笑う。
「でも?」
「……悪い意味じゃない」
そう言ってから、口元を手で覆った。
陽向はそれを見て、少し目を細めた。
「今の癖?」
「……何でもない」
授業が始まり、会話はそこで途切れた。
けれど、名前を呼ばれた余韻は、なかなか消えなかった。
昼休み。
弁当を机に広げていると、白石が隣のクラスから顔を出してきた。
「怜」
白石の呼び方は、落ち着いている。
「元気そうだね」
「……まあ」
白石は俺の顔を見るなり、隣に視線を移した。
「ああ、君が」
「?」
「噂の“犬みたいな人”」
「誰がそんなこと言ってんだよ」
陽向が抗議する。
俺は黙って箸を動かす。
「距離、近いよね」
白石が言う。
「……そうか?」
「うん。見てて分かる」
即答だった。
陽向は首を傾げる。
「普通じゃない?」
「普通じゃない」
白石の視線は、どこか楽しそうだった。
放課後。
人の多い廊下を歩いていると、前から来た生徒とぶつかりそうになる。
その瞬間、陽向の手が伸びて、俺の肩を引いた。
背中が、壁に当たる。
一瞬。
視界が、陽向で埋まった。
高い。
近い。
「……っ」
「ごめん!」
慌てて離れる陽向。
「事故だから! わざとじゃないからな!」
「……分かってる」
心臓が、うるさい。
壁ドンなんて言葉が頭をよぎって、すぐに否定する。
そんなものじゃない。
ただの事故。
なのに、距離が一瞬でも縮まったことが、頭から離れない。
裏門へ向かう道。
今日は、並んで歩いている。
「怜」
また、名前。
「……何」
「名前で呼ぶとさ」
陽向は、少し照れたように視線を逸らす。
「ちゃんと、こっち向いてくれるのが嬉しい」
「……それ、普通だろ」
「でも、怜はさ」
一拍、間。
「名前じゃないと、遠い気がする」
夕焼けが、校舎を染めていた。
言葉に詰まる。
名前を呼ばれる距離。
それは、踏み込む距離でもある。
猫は、簡単に懐かない。
けれど、名前を呼ばれるたびに、少しずつ逃げ場が減っていく。
裏門の前で、足を止める。
「……また、明日」
「うん。おやすみ、怜」
名前。
胸の奥が、静かに温かくなる。
名前を呼ばれる距離は、
もう、元には戻らない。
それを、はっきりと自覚しながら、
俺は小さく息を吐いた。
カーテン越しの光が淡く差し込み、机の上に影を落としている。
俺は席に着き、鞄から教科書を取り出した。
ブレザーの袖口を整えると、すぐ隣から椅子を引く音がする。
「おはよ、怜」
名前を呼ばれる。
「……おはよう」
返事をしながら、胸の奥がわずかにざわついた。
名前で呼ばれる距離。
それが、思っていたよりも近い。
これまでも名前を呼ばれたことはある。
けれど、陽向の声は、近すぎる。
隣同士だから当然なのに、耳元に直接触れるみたいな感覚がして、落ち着かない。
陽向は今日もネクタイを少し緩めている。
背が高いせいで、座っていても存在感がある。
「怜、ノート見せて」
「……さっき配られたばかりだろ」
「一応」
顔を近づけてくる。
距離が近い。
「……近い」
「そう?」
本気で分かっていない顔をするのが、厄介だ。
俺は椅子を少しだけ引いた。
けれど、身長差のせいで、視線は結局ぶつかる。
陽向は、俺より頭一つ分高い。
それだけで、逃げ場が少なくなる。
「怜ってさ」
また、名前。
「俺のこと、どう思ってる?」
「……唐突だな」
「気になって」
即答だった。
どう思っているか。
それを言葉にするのは、簡単じゃない。
「……うるさいやつ」
「ひど」
笑う。
「でも?」
「……悪い意味じゃない」
そう言ってから、口元を手で覆った。
陽向はそれを見て、少し目を細めた。
「今の癖?」
「……何でもない」
授業が始まり、会話はそこで途切れた。
けれど、名前を呼ばれた余韻は、なかなか消えなかった。
昼休み。
弁当を机に広げていると、白石が隣のクラスから顔を出してきた。
「怜」
白石の呼び方は、落ち着いている。
「元気そうだね」
「……まあ」
白石は俺の顔を見るなり、隣に視線を移した。
「ああ、君が」
「?」
「噂の“犬みたいな人”」
「誰がそんなこと言ってんだよ」
陽向が抗議する。
俺は黙って箸を動かす。
「距離、近いよね」
白石が言う。
「……そうか?」
「うん。見てて分かる」
即答だった。
陽向は首を傾げる。
「普通じゃない?」
「普通じゃない」
白石の視線は、どこか楽しそうだった。
放課後。
人の多い廊下を歩いていると、前から来た生徒とぶつかりそうになる。
その瞬間、陽向の手が伸びて、俺の肩を引いた。
背中が、壁に当たる。
一瞬。
視界が、陽向で埋まった。
高い。
近い。
「……っ」
「ごめん!」
慌てて離れる陽向。
「事故だから! わざとじゃないからな!」
「……分かってる」
心臓が、うるさい。
壁ドンなんて言葉が頭をよぎって、すぐに否定する。
そんなものじゃない。
ただの事故。
なのに、距離が一瞬でも縮まったことが、頭から離れない。
裏門へ向かう道。
今日は、並んで歩いている。
「怜」
また、名前。
「……何」
「名前で呼ぶとさ」
陽向は、少し照れたように視線を逸らす。
「ちゃんと、こっち向いてくれるのが嬉しい」
「……それ、普通だろ」
「でも、怜はさ」
一拍、間。
「名前じゃないと、遠い気がする」
夕焼けが、校舎を染めていた。
言葉に詰まる。
名前を呼ばれる距離。
それは、踏み込む距離でもある。
猫は、簡単に懐かない。
けれど、名前を呼ばれるたびに、少しずつ逃げ場が減っていく。
裏門の前で、足を止める。
「……また、明日」
「うん。おやすみ、怜」
名前。
胸の奥が、静かに温かくなる。
名前を呼ばれる距離は、
もう、元には戻らない。
それを、はっきりと自覚しながら、
俺は小さく息を吐いた。



