犬系男子は猫系男子に恋をする

 朝の体育館は、まだ冷えていた。
 床に引かれた白線の上を、俺は無意識に踏み越えたり戻ったりしながら、台本の端を指でなぞっていた。

 向こう側で、怜が誰かと話している。

 ただそれだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
 別に、変な距離じゃない。台本を覗き込んで、役の確認をしているだけだ。そう、分かってる。

 ――分かってる、はずなのに。

「……」

 喉の奥が、きゅっと鳴った。

 あんなふうに笑うんだな。
 あんな声で、相槌を打つんだな。

 俺の前では、もっと静かで、少し距離を取るくせに。

 いや、違う。
 それは俺が勝手にそう感じてるだけだ。怜は誰に対しても同じで、俺だけ特別じゃない。

 そう言い聞かせて、息を整える。

 今日は立ち稽古だ。
 触れない約束は、まだ続いている。

「春日」

 名前を呼ばれて、顔を上げると、怜がこちらへ歩いてくるところだった。
 制服の袖が、少し長い。風に揺れて、手首が覗く。

 距離が近づく。

 ――近い。

 それだけで、身体の奥が勝手に反応する。
 触れたい。話したい。抱きしめたい。

 全部、我慢する。

「ここ、動線確認しときたいんだけど……」

「あ、ああ。俺でよければ」

 言葉は平静でも、内側は忙しい。
 怜が立ち位置を示そうとして、一歩寄る。

 その瞬間、指先が俺の袖を掴んだ。

 ほんの一瞬。
 無意識の、癖みたいな動き。

 ――ダメだ。

 俺は動かなかった。
 動いたら、終わる気がしたから。

 見えない尻尾が、ぶん、と揺れそうになるのを、必死で踏みとどまる。
 大型犬が、待てを命じられてるみたいに。

「……ごめん」

 怜が小さく言って、手を離す。

 その「ごめん」が、胸に刺さった。

 謝ることじゃない。
 でも、それを言ったら、きっと全部溢れる。

 稽古が始まる。

 台詞を読み、動きを確認し、目線を合わせる。
 ロミオとジュリエットの距離は、近すぎる。

 目を見て、声を出す。
 それだけで、心拍が跳ね上がる。

 休憩時間。
 怜が別の男子に声をかけられた。

「三条、さっきの場面さ、ここどう思う?」

 台本を二人で覗き込む。
 距離が、また近い。

 頭の中で、何かが切れた。

「それ、俺がやる」

 気づいた時には、二人の間に立っていた。
 自分の声が、低い。

 相手が一瞬、目を瞬かせる。

「あ、春日。別に――」

「ロミオ役は俺だろ」

 空気が、止まる。

 誰かが苦笑いで言った。

「春日、独占欲強くね?」

 否定しようとして、言葉が出なかった。

 ……強いに決まってる。

 だって。

 怜が、俺の前にいる。

 視線の先で、怜が少し困った顔をした。
 そして、小さく頭を下げる。

「……ごめん。気にすると思わなくて」

 その一言で、胸が締め付けられた。

 違う。
 気にするのは、俺が勝手なんだ。

 でも、抑えられない。

 稽古が再開する。
 感情の強いシーンだ。

「――君の光で、僕は生きている」

 台詞を吐きながら、怜を見る。
 近い。息遣いが分かる。

 触れない約束が、ただの線に思えてくる。

 抱きしめたい。
 腕を回して、逃がしたくない。

 でも、壊したくない。

 俺の感情で、怜を縛りたくない。

 稽古が終わり、人が引いていく。
 体育館に残ったのは、俺だけだった。

 壁に手をつく。
 呼吸が荒い。

「……っ」

 拳を握る。

 言いたい。
 欲しい。
 触れたい。

 でも最後に出た言葉は、ひとつだけだった。

「……壊したくない」

 夜。
 家で、スマホを開く。

 怜からのLINE。

『今日はありがとう』

 それだけで、胸が苦しくなる。

 触れないって約束。
 守ってるの、俺だけかもしれない。

 でも――それでも。

 壊すより、我慢を選ぶ。

 見えない尻尾を、今日も必死で抑えながら。