犬系男子は猫系男子に恋をする

体育館の床は、夕方になると少しだけ冷たい。
窓から差し込む西日が、舞台に立つ二人の影を長く引き延ばしていた。

「じゃあ、次はこの場面いこうか」

白石の声で、怜は背筋を伸ばす。
今日の立ち稽古は、これまでより一段階踏み込んだ内容だった。

「ロミオが、ジュリエットの手を取る……その“寸前”まで」

白石はそう言って、台本のページを指で叩く。

「今回はまだ触れない。本番まで、触れないって決めたでしょ」

「……はい」

返事をしながら、怜の胸の奥がざわつく。
“触れない”という言葉が、昨日からずっと頭に引っかかっていた。

昨夜。
偶然拾ってしまった、黒田のBL漫画。

指先が、触れそうで触れない。
息が、心臓の音が、全部伝わってしまう距離。

——思い出すな。
そう思うほど、鮮明に浮かんでしまう。

「じゃ、立ち位置ついて」

白石の指示で、怜は舞台中央へ歩く。
制服はいつも通り。白いシャツに紺のズボン。
隣に立つ春日陽向は、少しだけシャツの袖をまくっていて、腕の筋が目立つ。

……近い。

正対した瞬間、否応なく気づいてしまう身長差。
怜が少し顎を上げないと、陽向の目と合わない距離。

「距離、もう半歩詰めて」

その言葉に、胸が跳ねる。
陽向が一歩近づき、空気が変わった。

——近すぎる。

白石が合図を出す。

「……はい、ここから」

陽向が、ゆっくりと手を伸ばす。
その動きがやけにスローモーションに見えた。

指先。
自分の手の、ほんの数センチ横。

触れていない。
なのに、温度を感じる。

怜の呼吸が浅くなる。
漫画の一コマが、脳裏に重なる。

(だめだ……集中しないと)

そう思うのに、視線が指先から離れない。

「……三条、目」

白石の声で、はっとして顔を上げる。

その瞬間、陽向と目が合った。

——近い。

驚くほど近くて、怜は思わず肩を揺らしてしまう。

「……っ」

陽向の目が、わずかに見開かれた。

(……今日の怜、変じゃないか?)

陽向はそう思いながらも、動かない。
触れない約束を守るために、指先を止めたまま。

だが、分かってしまう。

怜の息遣い。
僅かに震える肩。
そして——早すぎる鼓動。

こんな距離なら、聞こえてしまう。

(……緊張、しすぎだろ)

それとも。

——俺のせいか?

白石が言う。

「そのまま。いいよ、今の距離」

怜の心臓が、限界までうるさくなる。
指先が、ほんの数ミリ、無意識に動いてしまいそうになる。

——触れたら、どうなる?

一瞬だけ、そんな考えが浮かんでしまう。

「……ストップ」

白石の声で、時間が戻った。

陽向は反射的に手を引いた。
触れていないのに、名残惜しそうな動き。

その瞬間、怜の胸が、きゅっと締め付けられる。

(……今の、なんだ)

触れていない。
それなのに、離れたことが、こんなにもはっきり分かる。

「休憩入ろうか」

白石の声で、場が緩む。

怜は舞台の端へ移動し、水を飲む。
喉を通る冷たさで、少しだけ現実に戻る。

——落ち着け。

すると、背後から気配がした。

「……三条」

振り向くと、陽向が立っている。
少し距離を取ったまま、声を落として。

「今日、どうした?」

怜の心臓が跳ねた。

「な、何も……」

思わず否定してしまう。
その声が、自分でも分かるほど不自然だった。

陽向はそれ以上追及しない。
けれど、視線は外さない。

(……やっぱり、何かある)

でも、聞かない。
触れない約束と同じように、踏み込まない。

「……無理すんなよ」

それだけ言って、陽向は戻っていった。

稽古が終わり、体育館を出る。
並んで歩くが、会話は少ない。

廊下で、ふと手が近づく。
触れそうで、触れない。

怜は、昨日の自分を少しだけ後悔する。

(……あの漫画、読まなければよかった)

でも。

陽向は、歩きながら思っていた。

(……今日の怜、目が離せなかった)

触れていないのに。
距離を保っているのに。

指先の余韻だけが、確かに残っていた。