犬系男子は猫系男子に恋をする

放課後の体育館は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
窓から差し込む夕方の光が床に長い影を落とし、空気は少しだけ冷えている。

怜は体育館の中央に立ちながら、無意識に指先を握りしめていた。
制服の袖が少しだけ長く、掌に布の感触が残る。

その数歩先に、春日陽向がいる。

距離は、決して近くない。
けれど――心臓がうるさい。

「じゃあ今日は、名前を呼ぶ練習をやろうか」

白石の声が響く。
怜の肩が、わずかに跳ねた。

「ロミオとジュリエットって、お互いの名前を呼ぶ場面が多いでしょ。
 呼び方ひとつで、関係性も感情も変わるから」

白石は淡々と説明するが、その視線は確実に二人を捉えていた。

「ルールは簡単。目を見ること。立ち位置は変えない。触れない。
 名前だけを呼ぶ」

触れない。

その言葉に、陽向は小さく喉を鳴らした。
視線を逸らしたまま、拳を握りしめる。

(触れない……)

約束だ。
本番まで、触れないと決めた。

それなのに。

「じゃあ、春日くんから」

白石の声で、逃げ道は消えた。

陽向は、ゆっくりと顔を上げる。
怜と目が合う。

怜は、思わず息を止めた。

――近い。

距離は変わっていないのに、そう感じた。

「……ジュリエット」

低く、抑えた声だった。
体育館に、はっきりと響く。

怜の心臓が跳ねる。

役名のはずなのに。
“怜”と呼ばれた時よりも、胸の奥に直接触れてきた。

「……っ」

声が、すぐに出ない。

「怜?」

白石ではない。
陽向が、思わずそう呼びかけてしまい、はっと口を閉じる。

「……ごめん」

怜は小さく首を振り、唇を噛んだあと、声を出した。

「……ロミオ」

思ったより、柔らかい声になってしまった。

陽向の喉が鳴る。

(やばい)

役だ。
これは役の練習だ。

そう言い聞かせても、胸の奥が熱い。

「いいね。そのまま続けて」

白石が言う。

呼ぶ。
呼ばれる。

「ジュリエット」

「ロミオ」

回数を重ねるたび、声が変わっていく。
演技のはずなのに、感情が滲む。

怜は、何度目かの「ロミオ」を呼ぶ途中で、視線を逸らしてしまった。

その一瞬に、陽向の胸がきしむ。

(目、逸らされた……)

理由なんて分かっている。
近すぎるからだ。

「目を見て」

白石の指摘に、怜は慌てて顔を上げる。

その拍子に、陽向の視線と真正面からぶつかった。

近い。

近すぎる。

「次はね」

白石が声を落とす。

「“想ってる人を呼ぶつもり”で」

体育館の空気が、変わった。

黒田は一歩下がり、内心で両手を握りしめる。

(名前呼び回……この展開……尊い……)

陽向は一瞬、目を伏せた。

(想ってる人)

考えるまでもない。

ゆっくりと顔を上げ、怜を見る。

「……ジュリエット」

声が、先ほどよりも低く、真っ直ぐだった。
迷いがない。

怜の胸が、ぎゅっと締め付けられる。

役名なのに。
どうして――こんなに。

「……」

返事が、出ない。

唇は動くのに、声が詰まる。

陽向が一歩踏み出しそうになり、寸前で止まった。

触れない。

約束が、ぎりぎりで理性を繋ぎ止める。

「……今日はここまで」

白石が練習を切り上げる。

助かった、と思うと同時に、終わってしまったことが惜しくもあった。

二人は少し距離を取って床に座る。
言葉が出ない。

体育館の隅で、黒田が動いた拍子に、何かが床に落ちた。

ぱさり。

「……あ」

黒田の声が遅れる。

怜は反射的にそれを拾い上げた。

薄い冊子。
表紙には、寄り添う二人の男子高校生。

――タイトルを、読んでしまう。

一瞬で、理解した。

「……」

怜の思考が、完全に止まる。

(BL……漫画……?)

無意識に、ページをめくってしまった。

名前を呼ぶシーン。
視線を逸らせない二人。
触れない約束に、苦しむ描写。

――さっきまでの、自分たちと、重なった。

「っ……!」

ぱたん、と慌てて閉じる。

黒田が青ざめた顔で近づいてくる。

「そ、それ……」

「ご、ごめん……!」

怜は漫画を差し出しながら、顔が熱くなるのを感じた。

でも。

頭から、離れない。

(……あれ、私……)

さっきまで、役だと思っていた感情が、
ただの演技じゃなかった可能性が、はっきりと突きつけられる。

致命傷だった。

怜は、その夜――
“ロミオ”という名前を、何度も思い出して眠れなくなることになる。