体育館の舞台は、いつもより静かだった。
床に引かれた白いテープが立ち位置を示し、天井から落ちる午後の光が、そこだけを照らしている。
「じゃあ、今日は立ち稽古から行くよ」
黒川の声が、淡々と響いた。
演出としての言葉だ。私情を挟まない、いつもの調子。それが逆に、今の二人には助けになっていた。
春日は軽く頷き、指定された位置へ歩く。ジャージではなく、今日は学校指定のブレザー。動きやすさより、舞台を意識した服装だ。
怜も同じように、ブレザーの襟を正して舞台に上がった。
——近い。
向かい合った瞬間、二人は同時にそう思った。
腕一本分の距離。指示通りだ。けれど、実際に立つと、想像よりずっと近い。
「……本番まで、私情で触れない。改めて確認しとく」
黒川が言う。冗談めかした語尾だったが、春日は短く「はい」と返した。
怜も小さく頷く。喉が、きゅっと鳴る。
触れない。
分かっている。分かっているけれど。
「じゃ、半歩前」
演出の指示に、怜が一歩踏み出した。
その瞬間、視界が一気に埋まる。春日の胸元、喉の影、見下ろす視線。
——近すぎる。
怜は思わず息を止めた。緊張が走り、指先が勝手に動く。
掴んだ感触は、布だった。
春日の制服の袖。
ほんの少し、指が引っかかっただけ。
怜自身、掴んだ自覚はなかった。
春日は、一瞬だけ固まった。
——あ。
反射的に、怜を見下ろしてしまう。
視線が合いそうで、合わない。
動くな。
触るな。
春日は拳を握りしめた。肩に力が入る。
身体の奥で、何かが跳ねそうになるのを、必死に押さえ込む。
大型犬みたいだな、と自嘲が浮かぶ。
我慢しているのに、見えない尻尾が、かすかに揺れてしまいそうな感覚。
「……」
何も言わない。言えない。
動かない。それが、今できる精一杯だった。
しばらくして、怜は自分の手元に気づいた。
袖を掴んでいる。はっとして、すぐに離す。
「……ごめん」
声が小さくなる。
約束、したのに。
春日は首を横に振った。
「大丈夫」
短い一言。
それ以上、何も言わない。
手を離した瞬間、怜の胸に、妙な空白が生まれた。
寂しい、とまでは言えない。でも、確かに何かが抜けた。
黒川の「続けよう」という声で、稽古が再開する。
台詞を口にする怜の声は、わずかに揺れていた。
「……あなたは、なぜそんなにも遠いの」
ロミオとジュリエットの言葉が、今の自分に重なる。
春日は低く、安定した声で返す。
「遠くなどない。ここにいる」
抑え込んだ響き。
触れない代わりに、声にすべてを込めているようだった。
舞台の端で、白石がそれを見ている。
黒川は台本を見ながら、心の中でそっと呟いた。
——触れてないのが、逆に尊い。
稽古が終わる。
二人は並んで舞台を降りるが、少しだけ距離を取った。
触れていない。
それなのに、袖の感触が、体温が、呼吸が、まだ残っている。
怜は俯きながら思う。
触れてないはずなのに、どうしてこんなに意識してしまうんだ。
春日は天井を見上げ、深く息を吐いた。
触らなかった。それだけで、こんなに苦しいなんて。
見えない尻尾は、ようやく止まった。
けれど、心臓の奥は、まだ落ち着かない。
——触れない約束は、思っていたより、甘くて、厳しい。
床に引かれた白いテープが立ち位置を示し、天井から落ちる午後の光が、そこだけを照らしている。
「じゃあ、今日は立ち稽古から行くよ」
黒川の声が、淡々と響いた。
演出としての言葉だ。私情を挟まない、いつもの調子。それが逆に、今の二人には助けになっていた。
春日は軽く頷き、指定された位置へ歩く。ジャージではなく、今日は学校指定のブレザー。動きやすさより、舞台を意識した服装だ。
怜も同じように、ブレザーの襟を正して舞台に上がった。
——近い。
向かい合った瞬間、二人は同時にそう思った。
腕一本分の距離。指示通りだ。けれど、実際に立つと、想像よりずっと近い。
「……本番まで、私情で触れない。改めて確認しとく」
黒川が言う。冗談めかした語尾だったが、春日は短く「はい」と返した。
怜も小さく頷く。喉が、きゅっと鳴る。
触れない。
分かっている。分かっているけれど。
「じゃ、半歩前」
演出の指示に、怜が一歩踏み出した。
その瞬間、視界が一気に埋まる。春日の胸元、喉の影、見下ろす視線。
——近すぎる。
怜は思わず息を止めた。緊張が走り、指先が勝手に動く。
掴んだ感触は、布だった。
春日の制服の袖。
ほんの少し、指が引っかかっただけ。
怜自身、掴んだ自覚はなかった。
春日は、一瞬だけ固まった。
——あ。
反射的に、怜を見下ろしてしまう。
視線が合いそうで、合わない。
動くな。
触るな。
春日は拳を握りしめた。肩に力が入る。
身体の奥で、何かが跳ねそうになるのを、必死に押さえ込む。
大型犬みたいだな、と自嘲が浮かぶ。
我慢しているのに、見えない尻尾が、かすかに揺れてしまいそうな感覚。
「……」
何も言わない。言えない。
動かない。それが、今できる精一杯だった。
しばらくして、怜は自分の手元に気づいた。
袖を掴んでいる。はっとして、すぐに離す。
「……ごめん」
声が小さくなる。
約束、したのに。
春日は首を横に振った。
「大丈夫」
短い一言。
それ以上、何も言わない。
手を離した瞬間、怜の胸に、妙な空白が生まれた。
寂しい、とまでは言えない。でも、確かに何かが抜けた。
黒川の「続けよう」という声で、稽古が再開する。
台詞を口にする怜の声は、わずかに揺れていた。
「……あなたは、なぜそんなにも遠いの」
ロミオとジュリエットの言葉が、今の自分に重なる。
春日は低く、安定した声で返す。
「遠くなどない。ここにいる」
抑え込んだ響き。
触れない代わりに、声にすべてを込めているようだった。
舞台の端で、白石がそれを見ている。
黒川は台本を見ながら、心の中でそっと呟いた。
——触れてないのが、逆に尊い。
稽古が終わる。
二人は並んで舞台を降りるが、少しだけ距離を取った。
触れていない。
それなのに、袖の感触が、体温が、呼吸が、まだ残っている。
怜は俯きながら思う。
触れてないはずなのに、どうしてこんなに意識してしまうんだ。
春日は天井を見上げ、深く息を吐いた。
触らなかった。それだけで、こんなに苦しいなんて。
見えない尻尾は、ようやく止まった。
けれど、心臓の奥は、まだ落ち着かない。
——触れない約束は、思っていたより、甘くて、厳しい。



