犬系男子は猫系男子に恋をする

 体育館の床は、少し冷たかった。

 怜は舞台上に立ち、足元のテープを見下ろす。白いシャツに薄手のカーディガン。いつも通りの制服なのに、指先だけが落ち着かない。袖口をつまんでは、離す。その動作を、何度も繰り返していた。

「じゃあ、今日は立ち稽古から入ります」

 黒川の落ち着いた声が、体育館に響く。
 客席側には白石がいて、台本を胸に抱えながらこちらを見ていた。

 ――立ち稽古。

 それだけの言葉なのに、胸の奥がきゅっと縮む。

(……春日は)

 視線を上げると、少し離れた場所に春日がいた。動きやすそうな服装で、腕を軽く回している。いつもと変わらない、はずなのに。

(……最後のページ、見ただろうか)

 その考えが、頭から離れない。

 家に帰って、台本を全部読んだだろうか。
 もし読んだなら、あの一行を見たはずだ。

 ――ロミオ、ジュリエットの頬に口づける。

(……考えすぎ)

 自分に言い聞かせる。

 音読のあとから、二人の間には、はっきりとした変化があった。
 話さなくなったわけじゃない。
 避けているわけでもない。

 ただ。

 『触れない。』

 それだけを、無意識に守っていた。

 目は合う。
 声も交わす。
 でも、一定の距離以上、近づかない。

(触れなければ……)

(これは、演技でいられる)

 怜にとって、それは安全装置だった。

「三条、ここが立ち位置ね」

 黒川の指示で、怜はテープの上に立つ。

「春日は、そこから半歩前」

 春日が動く。
 距離が、縮まる。

(……近い)

 心臓が、早鐘を打つ。

「ちょっと離れすぎかな」

 今度は白石の声。

「恋人同士なら、もう少し近くてもいい」

 怜の喉が、ひくりと鳴った。

「……はい」

 返事をしながら、足が一歩、前に出る。

 近づくたびに、空気が変わる。
 春日の体温が、わずかに伝わる距離。

(触れない……触れない……)

 そう念じる。

「じゃあ、次。ここでジュリエットが迷う動き」

 白石が指示を出す。

「ロミオを呼び止める感じで、袖を掴んで」

 ――袖を掴む。

 怜の思考が、一瞬止まった。

「……え」

「軽くでいいよ。迷いが出れば」

 白石は、あくまで冷静だった。

 逃げ場はなかった。

 怜は、そっと手を伸ばす。

 指先が、春日の腕に触れた。

 ほんの一瞬。

 けれど、その感触ははっきりしていた。

「……っ」

 息が、詰まる。

 すぐに手を離そうとした、そのとき。

「……大丈夫」

 低い声がした。

 春日の声。

 離れない。
 責めない。

 ただ、それだけ。

 その一言で、怜の胸が強く鳴った。

(……だめだ)

 触れてしまった。

 触れないと決めた、その約束が、あっさり壊れてしまった。

「もう一度、同じ動きで確認しよう」

 黒川の声が、現実に引き戻す。

 同じ位置。
 同じ距離。

 今度は、怜の指が、無意識に動いた。

 春日のパーカーの裾を、きゅっと掴む。

(……え)

 自分でも驚いた。

 さっきより、はっきりと。
 逃げない力で。

 春日が、ほんの少しだけ目を見開く。
 それでも、視線を逸らさない。

 距離が、逃げられないほど近い。

 息が、絡む。

(……嫌じゃ、ない)

 その事実が、何よりも怖かった。

「……今の、悪くなかったよ」

 白石の声が、柔らかく落ちる。

 黒川は何も言わない。
 けれど、その表情が、すべてを物語っていた。

 稽古が終わる頃には、怜の心はすっかり疲弊していた。

 春日とは、ほとんど目を合わせられなかった。

 片付けを終え、体育館を出る。

 夕暮れの空気が、ひんやりと頬に触れる。

 怜は一人、台本を胸に抱えた。

(……春日は)

(あの最後のページを、知ったんだろうか)

 知っているかどうか。
 それよりも。

(知って……どう思ったんだろう)

 もし、あれを知ってなお、あの距離を保てるのなら。
 もし、知っているからこそ、今日みたいに動けなくなっているのなら。

 考えれば考えるほど、答えが怖くなる。

 怜は、歩きながら小さく息を吐いた。

「……触れないって、決めたのに」

 そう呟いた声は、誰にも届かない。

 けれど。

 指先に残った感触だけが、
 いつまでも、消えてくれなかった。