犬系男子は猫系男子に恋をする

 家に帰ったのは、いつもより少し遅い時間だった。

「ただいまー……」

 誰もいないリビングに声を投げて、春日は靴を脱ぐ。
 制服のまま自室に直行し、鞄を床に置いた。

(疲れた……)

 体育大会の余韻も、文化祭の準備も、全部一気に来た感じがする。
 けれど、頭の奥に引っかかっているものがあった。

 ――今日の音読。

 隣に座ったときの距離。
 怜の声。
 裾を掴まれた、あの一瞬。

(……なんだったんだ、あれ)

 春日はベッドに腰掛け、鞄の中から台本を取り出した。

「一応、全部読んどくか……」

 軽い気持ちだった。
 演出担当でもないし、役者としては覚えるしかない。
 それだけのつもりで、ページをめくる。

 冒頭。
 中盤。
 音読した部分。

(……ここ、怜ちょっと声震えてたな)

 気づけば、自然と相手役のことばかり考えている。

(いや、役だろ。役)

 自分に言い聞かせながら、ページを進める。

 夜の静けさの中で、文字が妙にくっきり目に入った。

 そして――。

 最後のページ。

 春日の指が、止まる。

「………………は?」

 声が、出なかった。

 正確には、喉から空気が抜けただけだった。

 そこに書かれていたのは、短い一文。

 《ロミオ、ジュリエットの頬に口づける》

 ……。

 …………。

 ……………………。

 春日は、そのまま動かなくなった。

 思考が、完全に停止する。

(キス……?)

 頭の中で言葉を反芻する。

(……キス?)

 もう一度、文字を追う。

(……頬に、口づける)

 台本を閉じて、開いて、もう一度見る。

「……ある」

 現実だった。

 次の瞬間。

「え、無理……」

 春日はベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 腕で目を覆う。

(いやいやいやいや)

(演技だろ)

(舞台だろ)

(……でも)

 怜の顔が、脳裏に浮かぶ。

 音読中の、少し伏せた睫毛。
 掴まれた裾。
 逃げない、と言った声。

「……無理だろ……」

 喉が、からからに渇く。

 想像するだけで、心臓が暴れ出す。

(俺が……三条に……)

 そこまで考えて、勢いよく体を起こした。

「いや、ダメだろ!」

 誰もいない部屋で叫ぶ。

「……俺、役者として失格だろ」

 頭を抱える。

 でも、同時に。

(……嫌か?)

 一瞬、浮かんだ疑問に、自分で驚く。

 嫌、というより。

(……怖い)

 拒絶されるかもしれないこと。
 怜がどう思うか分からないこと。
 そして――自分が、思っている以上に、この役に本気になっていること。

 春日は、台本を胸に抱えた。

(これ……)

(演技で済ませられるのか?)

 心臓の音が、やけにうるさい。

 大型犬みたいに真っ直ぐで、勢いだけで突っ走ってきた自分が、
 初めて、その場から一歩も動けなくなった。

 ――完全フリーズ。

 その夜、春日は何度も台本を開いては閉じ、
 最後のページだけを見て、深く息を吐いた。

(……三条)

 名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。

 春日は、まだ知らない。

 怜もまた、同じ最後の一行に、心を揺らしていることを。