放課後の教室は、昼間とは別の顔をしていた。
夕方の光が窓から差し込み、机と椅子の影を長く引き延ばしている。
怜は自分の席に座り、台本を膝の上に置いた。白いシャツに紺のカーディガン。いつもと変わらない服装のはずなのに、今日は胸の奥が妙に落ち着かない。
――音読だけ。
何度もそう言い聞かせる。
「じゃあ、今日は最初だから音読ね。感情は入れなくていいから」
白石の声に、教室の空気が少し引き締まった。
「……三条、隣いい?」
低い声がして顔を上げると、春日が立っていた。ラフに羽織ったパーカーの下からでも分かる体格の良さと、少し前屈みになるだけで生まれる身長差。
「……うん」
短く答えると、春日は隣の椅子を引いた。
距離が、近い。
(……近すぎる)
肩が触れるほどではない。
それなのに、存在感が強すぎて、息の仕方を忘れそうになる。
最初の台詞は、怜だった。
「……ロミオ。もし、君の名が僕を拒むなら――」
自分の声が思ったより落ち着いていることに、少し驚く。
(読める)
そう思った、次の瞬間。
「……なら、名を捨てよう」
春日の声が、すぐ隣で響いた。
低くて、まっすぐで、無駄がない声。
(……こんな声、してたっけ)
台詞だと分かっているのに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
春日が台本を覗き込むために、少し身を寄せた。
その拍子に、怜の肩に微かな熱が伝わる。
(……っ)
無意識だった。
怜の指が、春日のパーカーの裾を掴んでいた。
(……なに、して)
離そうとするのに、指が言うことを聞かない。
「……ジュリエット」
役名なのに、名前を呼ばれたような気がして、怜は思わず顔を上げてしまう。
目が合う。
近い。
近すぎる。
「君が誰であろうと――俺は、君を選ぶ」
春日の声が、いつもより低く聞こえた。
(演技、だよね)
そう思わないと、保てなかった。
「……私は、逃げない」
怜の声が、わずかに揺れた。
教室の空気が、静まり返る。
台詞は続く。
「沈黙なら――」
「俺は、君を抱きしめる」
その言葉に、怜の背中をぞくりと何かが走った。
音読。
ただの音読。
そう分かっているのに。
「……沈黙なら」
息を整えて、怜は続ける。
「私は、その腕から逃げない」
言い終えた瞬間、白石が小さく咳払いをした。
「……はい、今日はここまで」
現実が、戻ってくる。
怜はゆっくりと息を吐いた。
掴んでいた裾から、そっと指を離す。
心臓の音が、うるさい。
(……疲れた)
台本を閉じようとして、ふと、最後のページが目に入った。
――ラストシーン。
視線を滑らせた、その先で、怜の動きが止まる。
「……え」
そこには、はっきりと書かれていた。
《《ロミオ、ジュリエットの頬に口づける》》
頭が、真っ白になる。
(……キス?)
思わず周囲を見回す。
春日は黒川に呼ばれて席を外していて、こちらを見ていない。
怜は立ち上がり、台本を抱えたまま白石の元へ向かった。
「……白石」
「ん?」
「これ……最後」
白石は一目で理解したように、少しだけ笑った。
「あー、そこ見たんだ」
「……これ、どういうこと?」
声が、自然と小さくなる。
「演出だよ。舞台用の」
「……実際に、するの?」
白石は首を振る。
「しない。
正確には、“したように見せる”」
「……」
「扇子とか、影とか、角度とかね。方法はいくらでもある」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
「でもね」
白石は、怜をまっすぐ見た。
「そこまで行きそうになる“空気”は、必要だと思った」
怜は、言葉を失った。
音読のときの距離。
声。
掴んでしまった裾。
(……演技のはずなのに)
「嫌なら、ちゃんと断っていい」
白石は静かに言う。
「でも、怜がどんな顔をするか、春日がどんな顔をするか――
それを舞台で見たいって思ったのも、本音」
「……春日が、相手でも?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「だから、だよ」
そのとき。
「……三条?」
後ろから、春日の声がした。
振り返ると、少し困ったような顔で立っている。
「……どうした?」
怜は反射的に台本を胸に抱えた。
「……なんでもない」
白石が微笑む。
「そのうち、分かるよ。春日」
「?」
春日は首を傾げるだけだった。
怜は視線を落とす。
(……知ったら)
(春日は、どんな顔をするんだろう)
音読は終わった。
でも、物語はもう、始まってしまっている。
台本の最後のページに書かれた一行が、
怜の胸の奥で、静かに、確かに、息をしていた。
夕方の光が窓から差し込み、机と椅子の影を長く引き延ばしている。
怜は自分の席に座り、台本を膝の上に置いた。白いシャツに紺のカーディガン。いつもと変わらない服装のはずなのに、今日は胸の奥が妙に落ち着かない。
――音読だけ。
何度もそう言い聞かせる。
「じゃあ、今日は最初だから音読ね。感情は入れなくていいから」
白石の声に、教室の空気が少し引き締まった。
「……三条、隣いい?」
低い声がして顔を上げると、春日が立っていた。ラフに羽織ったパーカーの下からでも分かる体格の良さと、少し前屈みになるだけで生まれる身長差。
「……うん」
短く答えると、春日は隣の椅子を引いた。
距離が、近い。
(……近すぎる)
肩が触れるほどではない。
それなのに、存在感が強すぎて、息の仕方を忘れそうになる。
最初の台詞は、怜だった。
「……ロミオ。もし、君の名が僕を拒むなら――」
自分の声が思ったより落ち着いていることに、少し驚く。
(読める)
そう思った、次の瞬間。
「……なら、名を捨てよう」
春日の声が、すぐ隣で響いた。
低くて、まっすぐで、無駄がない声。
(……こんな声、してたっけ)
台詞だと分かっているのに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
春日が台本を覗き込むために、少し身を寄せた。
その拍子に、怜の肩に微かな熱が伝わる。
(……っ)
無意識だった。
怜の指が、春日のパーカーの裾を掴んでいた。
(……なに、して)
離そうとするのに、指が言うことを聞かない。
「……ジュリエット」
役名なのに、名前を呼ばれたような気がして、怜は思わず顔を上げてしまう。
目が合う。
近い。
近すぎる。
「君が誰であろうと――俺は、君を選ぶ」
春日の声が、いつもより低く聞こえた。
(演技、だよね)
そう思わないと、保てなかった。
「……私は、逃げない」
怜の声が、わずかに揺れた。
教室の空気が、静まり返る。
台詞は続く。
「沈黙なら――」
「俺は、君を抱きしめる」
その言葉に、怜の背中をぞくりと何かが走った。
音読。
ただの音読。
そう分かっているのに。
「……沈黙なら」
息を整えて、怜は続ける。
「私は、その腕から逃げない」
言い終えた瞬間、白石が小さく咳払いをした。
「……はい、今日はここまで」
現実が、戻ってくる。
怜はゆっくりと息を吐いた。
掴んでいた裾から、そっと指を離す。
心臓の音が、うるさい。
(……疲れた)
台本を閉じようとして、ふと、最後のページが目に入った。
――ラストシーン。
視線を滑らせた、その先で、怜の動きが止まる。
「……え」
そこには、はっきりと書かれていた。
《《ロミオ、ジュリエットの頬に口づける》》
頭が、真っ白になる。
(……キス?)
思わず周囲を見回す。
春日は黒川に呼ばれて席を外していて、こちらを見ていない。
怜は立ち上がり、台本を抱えたまま白石の元へ向かった。
「……白石」
「ん?」
「これ……最後」
白石は一目で理解したように、少しだけ笑った。
「あー、そこ見たんだ」
「……これ、どういうこと?」
声が、自然と小さくなる。
「演出だよ。舞台用の」
「……実際に、するの?」
白石は首を振る。
「しない。
正確には、“したように見せる”」
「……」
「扇子とか、影とか、角度とかね。方法はいくらでもある」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
「でもね」
白石は、怜をまっすぐ見た。
「そこまで行きそうになる“空気”は、必要だと思った」
怜は、言葉を失った。
音読のときの距離。
声。
掴んでしまった裾。
(……演技のはずなのに)
「嫌なら、ちゃんと断っていい」
白石は静かに言う。
「でも、怜がどんな顔をするか、春日がどんな顔をするか――
それを舞台で見たいって思ったのも、本音」
「……春日が、相手でも?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「だから、だよ」
そのとき。
「……三条?」
後ろから、春日の声がした。
振り返ると、少し困ったような顔で立っている。
「……どうした?」
怜は反射的に台本を胸に抱えた。
「……なんでもない」
白石が微笑む。
「そのうち、分かるよ。春日」
「?」
春日は首を傾げるだけだった。
怜は視線を落とす。
(……知ったら)
(春日は、どんな顔をするんだろう)
音読は終わった。
でも、物語はもう、始まってしまっている。
台本の最後のページに書かれた一行が、
怜の胸の奥で、静かに、確かに、息をしていた。



