席替えから、数日が経った。
隣にいるのが春日陽向だという事実に、少しずつ慣れてきたはずなのに、どうしてか落ち着かない。
理由は簡単だ。距離が近い。
物理的にも、精神的にも。
朝、教室に入ると、もう陽向は席にいた。
椅子に斜めに座って、スマホを見ている。制服のシャツは第一ボタンが外れていて、ネクタイが少し緩い。
「おはよ、怜」
顔を上げて、にこっと笑う。
「……おはよう」
返事をしながら、俺は鞄を机の横に掛けた。
席に座ると、自然と視界に入る距離。肩と肩が、近い。
10センチ。
たったそれだけの差なのに、陽向が隣にいると、空間の感覚が変わる。
朝のHRが始まるまでの時間、教室はざわざわしている。
誰かが昨日のテレビの話をして、誰かが部活の愚痴をこぼす。
その中で、陽向はやたらと話しかけてくる。
「怜さ、朝弱い?」
「……普通」
「目、ちょっと眠そう」
「……気のせい」
そう言いながら、口元を手で覆う。
無意識だった。
陽向はそれを見て、また首を傾げる。
「その癖、かわいいな」
「……やめて」
即座に言うと、陽向は少し驚いた顔をしてから、苦笑した。
「ごめん」
素直に謝るのが、余計に調子を狂わせる。
猫は、簡単に懐かない。
それは、自分でも分かっている。
授業中、陽向は落ち着きがない。
ノートを取るより、俺のノートを覗き込む方が多い。
「なあ、ここどういう意味?」
「……先生、今言っただろ」
「聞いてなかった」
悪びれない。
顔を近づけてくるから、否応なく説明する距離になる。
俺は視線を教科書に落としたまま、淡々と説明した。
「……なるほど」
陽向は満足そうに頷く。
「怜って、教えるの上手いな」
「……普通」
褒められるのは、嫌いじゃない。
でも、どう返せばいいのか分からない。
昼休み。
今日も陽向はパン。
「それだけで足りるのか」
「慣れてる」
俺は弁当を広げる。
箸を持つ手に、陽向の視線が刺さる。
「……見るな」
「いいじゃん」
結局、今日も少し分けた。
「怜の家って、料理上手いんだな」
「……家が、っていうか」
言いかけて、やめる。
家のことを話すのは、少し面倒だ。
陽向は深追いしない。
それが、助かる。
午後、体育がない日は、教室で自習になることが多い。
その日もそうだった。
俺は本を開いて、静かに時間を過ごす。
陽向は椅子を前後に揺らしながら、落ち着かない。
「なあ、怜」
「……何」
「放課後、時間ある?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……用事はないけど」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
即決。
相談というより、提案でもない。
猫は、簡単に懐かない。
だから、すぐに頷くのは癪だった。
「……考える」
「いいよ」
そう言って、笑う。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉にほどけた。
机を引く音、笑い声、誰かがスマホを取り出す気配。昼間の緊張が嘘みたいに消えていく。
俺はノートを閉じ、静かに鞄にしまった。
ブレザーの袖を整え、立ち上がる。
「怜、今日一緒に帰らない?」
隣から、当たり前みたいな声。
「……部活は?」
「今日は休み」
即答。
その迷いのなさが、少し眩しい。
「別に、いいけど」
そう答えると、陽向はぱっと表情を明るくした。
「よっしゃ」
感情が顔に出すぎだ。
犬みたいだと思う。たぶん、悪い意味じゃない。
教室を出て、廊下を歩く。
夕方の光が窓から差し込み、床に長い影を落としていた。
「怜ってさ」
「……何」
「いつも正門使わないよな」
少しだけ、足が止まりかける。
「裏門」
「だよな。なんで?」
一瞬、答えるか迷った。
でも、陽向は変に詮索する目をしていなかった。
「……人、少ないから」
「へえ」
それ以上、深くは聞いてこない。
その距離感に、ほんの少しだけ救われる。
裏門に向かう道は、正門と違って静かだ。
部活帰りの生徒がたまに通るくらいで、人目は少ない。
裏門の外に、一台の黒い車が停まっていた。
目立たない位置。校舎の影に溶け込むように。
後部座席の窓が、控えめに下がる。
「怜様」
落ち着いた声。
「本日はこのままご帰宅でよろしいですか?」
「うん」
短く答えてから、隣を見る。
陽向が、固まっていた。
「……え?」
声にならない声。
車と俺を交互に見て、ゆっくり瞬きをする。
「……何」
「いや、その……」
言葉を選んでいるのが分かる。
「……迎え?」
「そう」
「……毎日?」
「だいたい」
陽向は小さく息を吐いた。
「正門じゃない理由、分かった気がする」
俺は何も言わなかった。
昔、一度だけ正門に車を停めたことがある。
次の日から、世界が変わった。
急に距離を詰めてくるクラスメイト。
探るような視線。
興味と下心が混ざった笑顔。
それが、苦手だった。
「……目立ちたくない」
ぽつりと、そう言った。
「前にさ、知られたことあって」
陽向は黙って聞いている。
「一斉に話しかけられて……それが、嫌だった」
しばらく沈黙。
「だから、ここに来てって頼んでる」
言い終わると、少しだけ胸が軽くなった。
「……そっか」
陽向は、それだけ言った。
変に驚いたり、同情したりしない。
その反応が、ありがたかった。
少し迷ってから、俺は言った。
「……いつも送ってもらってるから」
そして、視線を外しながら。
「もしよければ、乗ってく?」
一瞬、風が止まった気がした。
「……いいの?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
即答すぎる。
運転席の白石さんが、穏やかに会釈する。
「どうぞ」
後部座席に並んで座る。
ドアが閉まると、外の音が遠くなった。
陽向は落ち着かない様子で、シートに座り直す。
「……すげぇ」
「何が」
「全部」
内装、匂い、静けさ。
「怜の家って……」
一瞬、言葉を探してから。
「……金持ち?」
直球すぎて、思わず口元を手で覆った。
「……まあ」
「マジで」
「今さらだな」
陽向は俺を見て、少し困ったように笑った。
「でも、怜は怜だな」
「……何それ」
「そのまんま」
車は静かに走り出す。
「……なあ」
陽向がぽつりと言う。
「遠い人だって思わないからな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……俺は、変わらない」
「うん」
それだけで、十分だった。
「怜」
「……何」
「猫っぽいよな」
「は?」
「簡単に懐かない感じ」
睨むと、陽向は笑った。
「でも、懐いてくれたら嬉しい」
何も答えられなかった。
猫は、簡単に懐かない。
でも、信頼できる場所には、戻ってくる。
家の前に着く。
「ありがとう」
降りる前、陽向が少しだけ躊躇ってから言った。
「……また、裏門からでいい?」
「……うん」
気づかれない場所で、
少しずつ距離が縮むなら――
それも、悪くない。
猫は、簡単に懐かない。
けれど、
自分から「乗ってく?」と言った相手は、
もう特別だった。
隣にいるのが春日陽向だという事実に、少しずつ慣れてきたはずなのに、どうしてか落ち着かない。
理由は簡単だ。距離が近い。
物理的にも、精神的にも。
朝、教室に入ると、もう陽向は席にいた。
椅子に斜めに座って、スマホを見ている。制服のシャツは第一ボタンが外れていて、ネクタイが少し緩い。
「おはよ、怜」
顔を上げて、にこっと笑う。
「……おはよう」
返事をしながら、俺は鞄を机の横に掛けた。
席に座ると、自然と視界に入る距離。肩と肩が、近い。
10センチ。
たったそれだけの差なのに、陽向が隣にいると、空間の感覚が変わる。
朝のHRが始まるまでの時間、教室はざわざわしている。
誰かが昨日のテレビの話をして、誰かが部活の愚痴をこぼす。
その中で、陽向はやたらと話しかけてくる。
「怜さ、朝弱い?」
「……普通」
「目、ちょっと眠そう」
「……気のせい」
そう言いながら、口元を手で覆う。
無意識だった。
陽向はそれを見て、また首を傾げる。
「その癖、かわいいな」
「……やめて」
即座に言うと、陽向は少し驚いた顔をしてから、苦笑した。
「ごめん」
素直に謝るのが、余計に調子を狂わせる。
猫は、簡単に懐かない。
それは、自分でも分かっている。
授業中、陽向は落ち着きがない。
ノートを取るより、俺のノートを覗き込む方が多い。
「なあ、ここどういう意味?」
「……先生、今言っただろ」
「聞いてなかった」
悪びれない。
顔を近づけてくるから、否応なく説明する距離になる。
俺は視線を教科書に落としたまま、淡々と説明した。
「……なるほど」
陽向は満足そうに頷く。
「怜って、教えるの上手いな」
「……普通」
褒められるのは、嫌いじゃない。
でも、どう返せばいいのか分からない。
昼休み。
今日も陽向はパン。
「それだけで足りるのか」
「慣れてる」
俺は弁当を広げる。
箸を持つ手に、陽向の視線が刺さる。
「……見るな」
「いいじゃん」
結局、今日も少し分けた。
「怜の家って、料理上手いんだな」
「……家が、っていうか」
言いかけて、やめる。
家のことを話すのは、少し面倒だ。
陽向は深追いしない。
それが、助かる。
午後、体育がない日は、教室で自習になることが多い。
その日もそうだった。
俺は本を開いて、静かに時間を過ごす。
陽向は椅子を前後に揺らしながら、落ち着かない。
「なあ、怜」
「……何」
「放課後、時間ある?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……用事はないけど」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
即決。
相談というより、提案でもない。
猫は、簡単に懐かない。
だから、すぐに頷くのは癪だった。
「……考える」
「いいよ」
そう言って、笑う。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉にほどけた。
机を引く音、笑い声、誰かがスマホを取り出す気配。昼間の緊張が嘘みたいに消えていく。
俺はノートを閉じ、静かに鞄にしまった。
ブレザーの袖を整え、立ち上がる。
「怜、今日一緒に帰らない?」
隣から、当たり前みたいな声。
「……部活は?」
「今日は休み」
即答。
その迷いのなさが、少し眩しい。
「別に、いいけど」
そう答えると、陽向はぱっと表情を明るくした。
「よっしゃ」
感情が顔に出すぎだ。
犬みたいだと思う。たぶん、悪い意味じゃない。
教室を出て、廊下を歩く。
夕方の光が窓から差し込み、床に長い影を落としていた。
「怜ってさ」
「……何」
「いつも正門使わないよな」
少しだけ、足が止まりかける。
「裏門」
「だよな。なんで?」
一瞬、答えるか迷った。
でも、陽向は変に詮索する目をしていなかった。
「……人、少ないから」
「へえ」
それ以上、深くは聞いてこない。
その距離感に、ほんの少しだけ救われる。
裏門に向かう道は、正門と違って静かだ。
部活帰りの生徒がたまに通るくらいで、人目は少ない。
裏門の外に、一台の黒い車が停まっていた。
目立たない位置。校舎の影に溶け込むように。
後部座席の窓が、控えめに下がる。
「怜様」
落ち着いた声。
「本日はこのままご帰宅でよろしいですか?」
「うん」
短く答えてから、隣を見る。
陽向が、固まっていた。
「……え?」
声にならない声。
車と俺を交互に見て、ゆっくり瞬きをする。
「……何」
「いや、その……」
言葉を選んでいるのが分かる。
「……迎え?」
「そう」
「……毎日?」
「だいたい」
陽向は小さく息を吐いた。
「正門じゃない理由、分かった気がする」
俺は何も言わなかった。
昔、一度だけ正門に車を停めたことがある。
次の日から、世界が変わった。
急に距離を詰めてくるクラスメイト。
探るような視線。
興味と下心が混ざった笑顔。
それが、苦手だった。
「……目立ちたくない」
ぽつりと、そう言った。
「前にさ、知られたことあって」
陽向は黙って聞いている。
「一斉に話しかけられて……それが、嫌だった」
しばらく沈黙。
「だから、ここに来てって頼んでる」
言い終わると、少しだけ胸が軽くなった。
「……そっか」
陽向は、それだけ言った。
変に驚いたり、同情したりしない。
その反応が、ありがたかった。
少し迷ってから、俺は言った。
「……いつも送ってもらってるから」
そして、視線を外しながら。
「もしよければ、乗ってく?」
一瞬、風が止まった気がした。
「……いいの?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
即答すぎる。
運転席の白石さんが、穏やかに会釈する。
「どうぞ」
後部座席に並んで座る。
ドアが閉まると、外の音が遠くなった。
陽向は落ち着かない様子で、シートに座り直す。
「……すげぇ」
「何が」
「全部」
内装、匂い、静けさ。
「怜の家って……」
一瞬、言葉を探してから。
「……金持ち?」
直球すぎて、思わず口元を手で覆った。
「……まあ」
「マジで」
「今さらだな」
陽向は俺を見て、少し困ったように笑った。
「でも、怜は怜だな」
「……何それ」
「そのまんま」
車は静かに走り出す。
「……なあ」
陽向がぽつりと言う。
「遠い人だって思わないからな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……俺は、変わらない」
「うん」
それだけで、十分だった。
「怜」
「……何」
「猫っぽいよな」
「は?」
「簡単に懐かない感じ」
睨むと、陽向は笑った。
「でも、懐いてくれたら嬉しい」
何も答えられなかった。
猫は、簡単に懐かない。
でも、信頼できる場所には、戻ってくる。
家の前に着く。
「ありがとう」
降りる前、陽向が少しだけ躊躇ってから言った。
「……また、裏門からでいい?」
「……うん」
気づかれない場所で、
少しずつ距離が縮むなら――
それも、悪くない。
猫は、簡単に懐かない。
けれど、
自分から「乗ってく?」と言った相手は、
もう特別だった。



