夏休みが終わり、教室に戻ってきた空気は、少しだけ軽かった。
窓から入る風は涼しく、九月の匂いがする。
席は変わらない。
春からずっと、俺――三条怜の隣は、春日陽向だ。
白いシャツにネクタイを緩めた陽向は、夏を越えて少しだけたくましく見えた。日焼けはもう落ち着いているのに、腕や肩のラインが以前よりはっきりしている。
同じ制服なのに、どうしてこんなに存在感が違うんだろう。
――近い。
それだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
夏の出来事が、頭から離れない。
トラックを全力で走る陽向の背中。
スタンドで、無意識に叫んでしまった自分の声。
花火の夜、夜空よりも強く意識してしまった横顔。
ドッグカフェで、犬に囲まれて困っていた俺を助けてくれた大きな手。
どれも、鮮明すぎる。
「……怜」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
反射的に口元を手で覆う。照れたときの癖だ。
「なに?」
できるだけ平静を装ったけれど、声が少しだけ上ずった気がする。
「いや、プリント」
そう言って、陽向が紙を差し出す。
指が触れそうで、触れない。
その距離が、妙に甘くて、苦しい。
授業が始まる。
ノートを取る音、椅子が軋む音。
そんな日常の中で、陽向の存在だけがやけに大きい。
机の端で、陽向の腕が俺の袖に近づく。
触れていないのに、触れられているみたいだ。
――意識しすぎだ。
そう思うのに、どうにもならない。
夏前なら、こんなふうに考えなかったはずなのに。
大会の日。
ゴールした瞬間の陽向の顔。
あのとき、胸が熱くなった理由を、まだ言葉にできない。
花火の帰り道。
夜風の中で並んで歩いた距離。
ほんの少し、近かった肩。
思い出すたび、心がざわつく。
突然、強めの風が吹き込んだ。
カーテンが大きく揺れ、紙がばさりと音を立てる。
「窓、閉めるな」
陽向が立ち上がった、その瞬間だった。
――行かないで。
そんな言葉が浮かぶ前に、体が動いていた。
指先が、陽向の制服の裾を掴む。
ほんの一瞬。
力もほとんど入っていない。
それでも、確かに触れてしまった。
陽向の動きが止まる。
背中越しに、緊張が伝わってくる。
はっとして、すぐに手を離した。
顔が熱い。耳まで赤くなる。
「……ごめん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
陽向は何も言わない。
振り返らず、静かに窓を閉めて席に戻る。
その優しさが、胸に刺さった。
責められたほうが、楽だったかもしれない。
――なんで、掴んだんだ。
理由は分かっている。
陽向が立ち上がるだけで、離れていく気がして、怖くなった。
昼休み。
弁当箱を開く音が周囲に広がる。
「食べないの?」
陽向が、少しだけ顔を近づけてくる。
その距離に、息が詰まる。
「……後で」
本当は、隣にいるだけで胸がいっぱいだった。
陽向はそれ以上聞かず、黙って自分の弁当を食べ始めた。
箸を動かす横顔を、ちらりと見る。
静かな時間。
言葉は少ないのに、意識だけが増えていく。
放課後、チャイムが鳴る。
陽向が鞄を持って立ち上がる。
また、目で追ってしまう。
今度こそ、掴まない。
そう決めていたのに、指先が微かに動いて止まる。
自分でも分かる。
これは偶然じゃない。
無意識に、陽向を引き留めようとしている。
「先、行くな」
「……うん」
短いやり取り。
それだけなのに、胸がきゅっと締め付けられる。
教室を出ていく陽向の背中を見送りながら、思う。
夏は終わったはずなのに、
夏の出来事だけが、まだ心に残っている。
近いのに、触れない。
触れたいのに、言えない。
秋風が静かに教室を抜けていく。
掴めなかった裾と、抑えた指先だけが、熱を持ったままだった。
――この距離は、もう前と同じじゃない。
それだけは、確かだった。
窓から入る風は涼しく、九月の匂いがする。
席は変わらない。
春からずっと、俺――三条怜の隣は、春日陽向だ。
白いシャツにネクタイを緩めた陽向は、夏を越えて少しだけたくましく見えた。日焼けはもう落ち着いているのに、腕や肩のラインが以前よりはっきりしている。
同じ制服なのに、どうしてこんなに存在感が違うんだろう。
――近い。
それだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
夏の出来事が、頭から離れない。
トラックを全力で走る陽向の背中。
スタンドで、無意識に叫んでしまった自分の声。
花火の夜、夜空よりも強く意識してしまった横顔。
ドッグカフェで、犬に囲まれて困っていた俺を助けてくれた大きな手。
どれも、鮮明すぎる。
「……怜」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
反射的に口元を手で覆う。照れたときの癖だ。
「なに?」
できるだけ平静を装ったけれど、声が少しだけ上ずった気がする。
「いや、プリント」
そう言って、陽向が紙を差し出す。
指が触れそうで、触れない。
その距離が、妙に甘くて、苦しい。
授業が始まる。
ノートを取る音、椅子が軋む音。
そんな日常の中で、陽向の存在だけがやけに大きい。
机の端で、陽向の腕が俺の袖に近づく。
触れていないのに、触れられているみたいだ。
――意識しすぎだ。
そう思うのに、どうにもならない。
夏前なら、こんなふうに考えなかったはずなのに。
大会の日。
ゴールした瞬間の陽向の顔。
あのとき、胸が熱くなった理由を、まだ言葉にできない。
花火の帰り道。
夜風の中で並んで歩いた距離。
ほんの少し、近かった肩。
思い出すたび、心がざわつく。
突然、強めの風が吹き込んだ。
カーテンが大きく揺れ、紙がばさりと音を立てる。
「窓、閉めるな」
陽向が立ち上がった、その瞬間だった。
――行かないで。
そんな言葉が浮かぶ前に、体が動いていた。
指先が、陽向の制服の裾を掴む。
ほんの一瞬。
力もほとんど入っていない。
それでも、確かに触れてしまった。
陽向の動きが止まる。
背中越しに、緊張が伝わってくる。
はっとして、すぐに手を離した。
顔が熱い。耳まで赤くなる。
「……ごめん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
陽向は何も言わない。
振り返らず、静かに窓を閉めて席に戻る。
その優しさが、胸に刺さった。
責められたほうが、楽だったかもしれない。
――なんで、掴んだんだ。
理由は分かっている。
陽向が立ち上がるだけで、離れていく気がして、怖くなった。
昼休み。
弁当箱を開く音が周囲に広がる。
「食べないの?」
陽向が、少しだけ顔を近づけてくる。
その距離に、息が詰まる。
「……後で」
本当は、隣にいるだけで胸がいっぱいだった。
陽向はそれ以上聞かず、黙って自分の弁当を食べ始めた。
箸を動かす横顔を、ちらりと見る。
静かな時間。
言葉は少ないのに、意識だけが増えていく。
放課後、チャイムが鳴る。
陽向が鞄を持って立ち上がる。
また、目で追ってしまう。
今度こそ、掴まない。
そう決めていたのに、指先が微かに動いて止まる。
自分でも分かる。
これは偶然じゃない。
無意識に、陽向を引き留めようとしている。
「先、行くな」
「……うん」
短いやり取り。
それだけなのに、胸がきゅっと締め付けられる。
教室を出ていく陽向の背中を見送りながら、思う。
夏は終わったはずなのに、
夏の出来事だけが、まだ心に残っている。
近いのに、触れない。
触れたいのに、言えない。
秋風が静かに教室を抜けていく。
掴めなかった裾と、抑えた指先だけが、熱を持ったままだった。
――この距離は、もう前と同じじゃない。
それだけは、確かだった。



