初夏の競技場は、朝から熱を孕んでいた。
スタンドに人が集まり始め、アナウンスが反響する。
陽向はアップを終え、トラックの端で軽く腿を叩いた。
陸上用のユニフォームは、黒を基調にしたシンプルなもの。
身体にぴったり沿って、呼吸のたびに布がわずかに動く。
(いよいよだな)
大会当日。
この日のために、何ヶ月も走ってきた。
追い込みのきつさも、脚が笑うほどの練習も、全部ここに繋がっている。
それなのに——
(……気になる)
視線が、無意識にスタンドを探してしまう。
いるかどうかなんて、分からない。
そもそも、来るなんて約束もしていない。
それでも。
(来てたら、いいな)
そんなことを思ってしまう自分に、陽向は苦笑した。
コールがかかる。
「次は、男子100メートル予選——」
名前を呼ばれ、スタート地点へ向かう。
スパイクでトラックを踏みしめる感触が、神経を研ぎ澄ませる。
スタンドのざわめきが、遠くなる。
目の前にあるのは、一直線の赤いレーンだけ。
(集中しろ)
深く息を吸う。
しゃがみ込み、スタートの姿勢を取る。
視界の端で、ふと、人影が動いた。
(……?)
スタンドの一角。
白いシャツに、薄い色の羽織。
黒髪が風に揺れている。
——怜。
一瞬、呼吸を忘れた。
(……来てる)
胸の奥が、きゅっと音を立てる。
どうして。
どうして、こんなに嬉しい。
パン、と乾いた音が響く。
スタートの合図。
身体が、反射的に前へ弾けた。
——走る。
風を切る。
地面を蹴る。
けれど、頭のどこかで、まだ怜の姿が残っている。
(見られてる)
そう思った瞬間、背中を押された気がした。
——その時だった。
「陽向——!! 頑張れ!!」
声。
聞き慣れた、少し低めの声。
一瞬、世界が止まった。
(……怜?)
考えるより先に、身体が反応した。
脚が、もう一段強く地面を叩く。
(ありがとう、怜)
心の中で、そう呟く。
(不思議だな)
息は苦しい。
視界も狭まっている。
それなのに。
(怜が見てると思うと、すげぇ力出る)
胸の奥が、熱い。
ゴールテープが迫る。
最後の一歩に、全てを込めた。
——駆け抜ける。
次の瞬間、歓声が爆発した。
息を切らしながら、電光掲示板を見る。
一位。
数字を認識した瞬間、膝に手をついた。
(……やった)
全身が、震える。
肩で息をしながら、もう一度スタンドを見る。
怜は、立ち上がっていた。
両手を口元に当てて、目を見開いている。
驚きと、喜びと、全部混ざった顔。
その表情を見た瞬間。
胸の奥で、何かがはっきりした。
(あぁ)
ゆっくり、実感が降りてくる。
(俺——)
今まで、何度も思ってきた。
気になるとか。
一緒にいると落ち着くとか。
守りたいとか。
でも、それを、ちゃんとした言葉で考えたことはなかった。
(俺、あいつの事好きなんだ)
息を整えながら、陽向は思う。
(女の子を好きになる感覚と同じ)
それ以上に、真っ直ぐで。
(大好きなんだ)
視線の先で、怜と目が合う。
少し遅れて、怜が気づいたように、はっとして視線を逸らす。
そして、いつもの癖で、口元を手で覆った。
——ああ、もう。
可愛いとか、そんな言葉じゃ足りない。
(怜の事が)
胸の奥が、じんわり温かくなる。
競技を終え、控えスペースに戻っても、頭はぼんやりしていた。
「陽向! 一位おめでとう!」
田島が背中を叩く。
「お前、最後伸びすぎだろ」
「……うるせぇ」
照れ隠しに、視線を逸らす。
(あの声、だよな)
怜の声。
たった一言。
それだけで、世界が変わった。
スタンドの方を見ると、怜はもういなかった。
きっと、人混みを避けて移動したのだろう。
(……後で、話したい)
そう思った瞬間、胸が少しだけ跳ねた。
結果発表、表彰。
すべてが終わった後、陽向は一人、スタンド裏に向かう。
そこに、怜がいた。
壁にもたれて、静かに息をついている。
「……怜」
声をかけると、怜が顔を上げた。
「……陽向」
少し、照れたように。
「一位……おめでとう」
「ありがと」
一歩、近づく。
身長差の分、自然と見下ろす形になる。
「……声、聞こえた」
怜の肩が、ぴくりと動いた。
「……うるさかった?」
「全然」
むしろ。
「めちゃくちゃ、力出た」
怜が、目を丸くする。
「……そう?」
「ああ」
迷いはなかった。
今なら、言える気がした。
「怜が見てるって思ったらさ」
言葉を選びながら、続ける。
「……負ける気、しなかった」
怜は何も言わなかった。
ただ、少し俯いて、耳まで赤くなっている。
その様子を見て、陽向は確信した。
(もう、戻れないな)
でも、それでいい。
夏のトラックで届いた声は、
確かに、陽向の心を、ここまで連れてきたのだから。
スタンドに人が集まり始め、アナウンスが反響する。
陽向はアップを終え、トラックの端で軽く腿を叩いた。
陸上用のユニフォームは、黒を基調にしたシンプルなもの。
身体にぴったり沿って、呼吸のたびに布がわずかに動く。
(いよいよだな)
大会当日。
この日のために、何ヶ月も走ってきた。
追い込みのきつさも、脚が笑うほどの練習も、全部ここに繋がっている。
それなのに——
(……気になる)
視線が、無意識にスタンドを探してしまう。
いるかどうかなんて、分からない。
そもそも、来るなんて約束もしていない。
それでも。
(来てたら、いいな)
そんなことを思ってしまう自分に、陽向は苦笑した。
コールがかかる。
「次は、男子100メートル予選——」
名前を呼ばれ、スタート地点へ向かう。
スパイクでトラックを踏みしめる感触が、神経を研ぎ澄ませる。
スタンドのざわめきが、遠くなる。
目の前にあるのは、一直線の赤いレーンだけ。
(集中しろ)
深く息を吸う。
しゃがみ込み、スタートの姿勢を取る。
視界の端で、ふと、人影が動いた。
(……?)
スタンドの一角。
白いシャツに、薄い色の羽織。
黒髪が風に揺れている。
——怜。
一瞬、呼吸を忘れた。
(……来てる)
胸の奥が、きゅっと音を立てる。
どうして。
どうして、こんなに嬉しい。
パン、と乾いた音が響く。
スタートの合図。
身体が、反射的に前へ弾けた。
——走る。
風を切る。
地面を蹴る。
けれど、頭のどこかで、まだ怜の姿が残っている。
(見られてる)
そう思った瞬間、背中を押された気がした。
——その時だった。
「陽向——!! 頑張れ!!」
声。
聞き慣れた、少し低めの声。
一瞬、世界が止まった。
(……怜?)
考えるより先に、身体が反応した。
脚が、もう一段強く地面を叩く。
(ありがとう、怜)
心の中で、そう呟く。
(不思議だな)
息は苦しい。
視界も狭まっている。
それなのに。
(怜が見てると思うと、すげぇ力出る)
胸の奥が、熱い。
ゴールテープが迫る。
最後の一歩に、全てを込めた。
——駆け抜ける。
次の瞬間、歓声が爆発した。
息を切らしながら、電光掲示板を見る。
一位。
数字を認識した瞬間、膝に手をついた。
(……やった)
全身が、震える。
肩で息をしながら、もう一度スタンドを見る。
怜は、立ち上がっていた。
両手を口元に当てて、目を見開いている。
驚きと、喜びと、全部混ざった顔。
その表情を見た瞬間。
胸の奥で、何かがはっきりした。
(あぁ)
ゆっくり、実感が降りてくる。
(俺——)
今まで、何度も思ってきた。
気になるとか。
一緒にいると落ち着くとか。
守りたいとか。
でも、それを、ちゃんとした言葉で考えたことはなかった。
(俺、あいつの事好きなんだ)
息を整えながら、陽向は思う。
(女の子を好きになる感覚と同じ)
それ以上に、真っ直ぐで。
(大好きなんだ)
視線の先で、怜と目が合う。
少し遅れて、怜が気づいたように、はっとして視線を逸らす。
そして、いつもの癖で、口元を手で覆った。
——ああ、もう。
可愛いとか、そんな言葉じゃ足りない。
(怜の事が)
胸の奥が、じんわり温かくなる。
競技を終え、控えスペースに戻っても、頭はぼんやりしていた。
「陽向! 一位おめでとう!」
田島が背中を叩く。
「お前、最後伸びすぎだろ」
「……うるせぇ」
照れ隠しに、視線を逸らす。
(あの声、だよな)
怜の声。
たった一言。
それだけで、世界が変わった。
スタンドの方を見ると、怜はもういなかった。
きっと、人混みを避けて移動したのだろう。
(……後で、話したい)
そう思った瞬間、胸が少しだけ跳ねた。
結果発表、表彰。
すべてが終わった後、陽向は一人、スタンド裏に向かう。
そこに、怜がいた。
壁にもたれて、静かに息をついている。
「……怜」
声をかけると、怜が顔を上げた。
「……陽向」
少し、照れたように。
「一位……おめでとう」
「ありがと」
一歩、近づく。
身長差の分、自然と見下ろす形になる。
「……声、聞こえた」
怜の肩が、ぴくりと動いた。
「……うるさかった?」
「全然」
むしろ。
「めちゃくちゃ、力出た」
怜が、目を丸くする。
「……そう?」
「ああ」
迷いはなかった。
今なら、言える気がした。
「怜が見てるって思ったらさ」
言葉を選びながら、続ける。
「……負ける気、しなかった」
怜は何も言わなかった。
ただ、少し俯いて、耳まで赤くなっている。
その様子を見て、陽向は確信した。
(もう、戻れないな)
でも、それでいい。
夏のトラックで届いた声は、
確かに、陽向の心を、ここまで連れてきたのだから。



