犬系男子は猫系男子に恋をする

 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

 まだ空は暗く、カーテンの向こうからは朝の気配がほとんど感じられない。
 怜はしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと起き上がった。

(……早い)

 時計を見ると、いつもより一時間以上早い。

 それでも、二度寝をする気にはならなかった。

 頭の中にあるのは、ここ数日、何度も浮かんでは消えていく顔。
 春日陽向。

 大会が近づいてから、彼は明らかに変わった。
 教室では落ち着きがなく、放課後はすぐにグラウンドへ向かう。

 話す時間は減った。
 目が合っても、どこか遠くを見るような目をしている。
(……寂しい、なんて)

 そんな感情を抱く資格が、自分にあるのか分からない。

 怜はベッドを降り、部屋を出た。
 まだ誰も起きていない広い家の廊下は、足音がやけに響く。

 キッチンに入ると、昨日のことを思い出した。

 ——「朝はパンで充分なんだよな」

 以前、何気なく聞いた陽向の言葉。

 だから、弁当なんて作る必要はないのかもしれない。
 それでも。

(……空腹で走るの、きついだろ)

 そう思ってしまった自分を、もう止められなかった。

 昨日、家のシェフに頼んで、簡単な弁当の作り方を教わった。
 包丁の持ち方から、火加減まで。

 慣れない手つきで作ったそれは、正直、見た目がいいとは言えない。

 卵焼きは少し形が歪で、野菜も均等じゃない。
 それでも、全部、陽向のことを考えながら作った。

「……これで、いい」

 小さく呟いて、弁当箱を閉じる。

 怜は私服に着替えた。
 薄いシャツに、動きやすいパンツ。朝の冷え込み対策に軽いパーカーを羽織る。

 鞄に弁当を入れると、胸の奥がきゅっと縮んだ。

(なんで、こんなに緊張してるんだ)

 応援するだけ。
 それだけのはずなのに。

 正門から外へ出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
 息を吸い込み、学校へ向かう。

 グラウンドに近づくにつれて、聞こえてくる足音。
 規則正しいリズム。

 朝練中の陸上部だ。

 遠くに、見慣れた背中があった。

 陽向はジャージ姿で、スタートラインに立っている。
 肩幅が広く、脚が長い。走り出す前の姿勢だけで、力強さが伝わってくる。

(……速い)

 合図と同時に、地面を蹴る。

 一瞬で距離が縮まり、風を切って走り抜ける。

 息を呑んだ。

 ——こんなふうに、全力で何かに向かう人を、今まで見たことがあっただろうか。

 練習が一段落した頃を見計らって、怜はフェンスの近くへ行った。

「……陽向」

 声をかけると、陽向が振り向く。
 一瞬、驚いたような顔をして——

 次の瞬間、表情が一気に明るくなった。

「怜!?」

 大型犬、発動。

 そう表現するしかない勢いで、こちらへ駆け寄ってくる。

「え、なんで!?どうした!?」

 目を輝かせ、息を弾ませながら、距離を詰めてくる。

(近い……)

 怜は思わず、口元を手で覆った。

「……その、朝練してるって聞いたから」

「わざわざ来たのか!?」

 声が一段高い。
 本当に、尻尾が見えそうだった。

「これ……」

 弁当袋を差し出す。

 陽向は一瞬、固まった。

「……え?」

「朝、パンだけって言ってたけど……お腹、空くだろ」

 少し早口になる。

「昨日、初めて作ったから……見た目は、あんまり……」

 最後まで言い切る前に、陽向が弁当を受け取った。

「……マジで?」

 蓋を開ける。

 不格好な卵焼き。
 色が少し濃い野菜。

 沈黙。

(……やっぱり、迷惑だったか)

 そう思った瞬間。

「やば」

 陽向が、ぽつりと言った。

「……なにが」

「嬉しすぎて」

 顔が、くしゃっと崩れる。

「俺のために作ったんだろ?これ」

「……そう、だけど」

「最高かよ」

 陽向は本気で嬉しそうだった。

 肩を揺らし、何度も弁当を見て、怜を見る。

「なにこれ……マジで力出るんだけど」

「……まだ食べてないだろ」

「気持ちの問題!」

 はっきり言い切る。

 怜の胸が、どくんと鳴った。

「怜さ」

 急に真剣な声になる。

「大会、見に来てくれる?」

 一瞬、言葉に詰まる。

「……うん」

 小さく頷くと、陽向は満面の笑みを浮かべた。

「絶対、勝つ」

 その言葉が、冗談じゃないと分かる。

 走ることしか考えていない目。
 でも、その奥に、確かに自分が映っている気がして。

(……応援する理由)

 それは、もう十分すぎるほど、胸の中にあった。

 怜は、陽向から一歩離れて言う。

「……無理は、するなよ」

「怜が言うなら、ちょっとは考える」

 冗談めかして言いながら、目は真剣だ。

 別れ際。

「弁当、全部食べるからな!」

 そう叫ぶ陽向に、怜は思わず笑った。

 帰り道、胸が温かい。

 理由は、はっきりしている。

 ——好きだ。

 まだ、口には出せない。
 でも、この感情から、もう目を逸らさない。

 応援する理由は、
 彼が走るからじゃない。

 彼だからだ。