春の教室には、まだ冬の名残みたいな冷たい空気が残っていた。
窓が少しだけ開いていて、カーテンが風に揺れる。そのたび、チョークの粉が白く舞う。
「じゃあ、席替えするぞー」
担任の声が落ちると、教室が一斉にざわついた。
机を引く音、椅子が床を擦る音。誰かの笑い声。
俺は特に期待もせず、黒板に貼られた座席表を見る。
こういうのは運だ。良い席でも悪い席でも、結局は慣れる。
三条怜。
自分の名前を見つけて、その横を見る。
「……春日?」
聞き覚えのある名字だった。
陸上部で有名なやつ。長距離のエース。いつも校庭を走っている姿を見る。
「三条!」
背後から、やけに明るい声がした。
振り向いた瞬間、視界が一気に塞がれる。
近い。……でかい。
白いTシャツに薄手のパーカー。制服の上からでも分かる肩幅。
背が高くて、まっすぐ立っているだけなのに存在感がある。
「よろしくな、三条」
「……怜でいい」
「じゃあ怜な。俺、陽向」
名前を呼ばれるだけで、距離が縮まった気がした。
気のせいだと思いたくて、俺は椅子を引いた。
机を移動させるとき、どうしても距離が近くなる。
陽向は気にせず動くけど、俺は壁際に追いやられる形になった。
「ここでいい?」
陽向がそう言って、机を押した、その瞬間だった。
誰かの机がぶつかり、バランスを崩した陽向が、反射的に腕を伸ばす。
ドン。
鈍い音と同時に、背中に冷たい感触。
壁。
顔のすぐ横、耳の横に、陽向の腕。
「……っ」
声が出なかった。
視界いっぱいに、陽向の制服の襟元と喉仏。
見上げる形になって、初めてはっきり分かる。
――高い。
178センチ。
俺より10センチ高い体は、こんなにも近いと圧になる。
「……あ」
陽向が間の抜けた声を出した。
「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
慌てて腕を離し、一歩下がる。
空気が戻ってくる。
でも、心臓の音は戻らない。
「……平気」
反射的に口元を手で覆っていた。
照れたとき、困ったときに出る癖。
「ほんと? どっか当たってない?」
覗き込んでくる。
上から。
「……平気だから」
「そっか」
安心したように笑う。
何もなかったみたいに。
――犬だ。
完全に。
授業が始まっても、さっきの距離感が頭から離れなかった。
ノートを取る手が、少し遅れる。
「怜」
小声で呼ばれる。
「……何」
「さっきの、ほんとごめんな」
「……もういい」
これ以上、思い出させないでほしい。
陽向は気にしていないのが分かる。
だから余計に、俺だけが意識しているみたいで、落ち着かない。
昼休み。
陽向はコンビニのパンを咥えながら、俺の机に腰掛ける。
「怜、弁当?」
「……そうだけど」
弁当箱を広げると、陽向が身を乗り出す。
「うわ、うまそう」
距離が近い。
「……少しなら」
「ほんと? ありがとう!」
一口食べて、分かりやすく目を輝かせる。
「うまっ」
「……大袈裟」
「いや、ほんとだって」
身を乗り出した拍子に、机が揺れる。
弁当が傾いて、慌てて手を伸ばす。
同時に、陽向の手も伸びて、指が触れた。
一瞬。
ほんの一瞬なのに、胸が跳ねた。
陽向の手は大きい。
俺の手を、簡単に包めそうだ。
「悪い!」
すぐに離れる。
「……別に」
また、口元を覆っていた。
午後の体育。
着替えた陽向は、やっぱり目立つ。
Tシャツ一枚でも分かる筋肉。
脚が長くて、フォームが綺麗。
俺は運動が得意じゃない。
それでも、準備体操くらいは普通にこなす。
「怜、背ちっちゃくね?」
「……168」
「俺178」
言われなくても分かってる。
「見下ろすの、ちょっと楽しい」
「嫌味?」
「いや、かわいいって意味」
意味が分からない。
走ると、陽向は前に出る。
なのに、何度も振り返る。
「怜、ちゃんと来てる?」
「……来てる」
置いていかない犬。
授業終わり、廊下が混んでいた。
人の流れに押されて、また壁際に寄る。
次の瞬間――
ドン。
今度は完全に事故だった。
誰かにぶつかられた陽向が、反射的に手をつく。
逃げ場はなかった。
顔が、近い。
陽向はすぐに気づいて固まる。
「……」
「……」
数秒。
やけに長い沈黙。
「……近い」
やっと出た言葉。
「ごめん!!」
勢いよく離れる。
「俺、ほんと距離感なくて……」
「……自覚して」
口元を覆ったまま言うと、陽向は苦笑した。
「気をつける」
でも、たぶん、またやる。
放課後。
「また明日な」
「……うん」
背の高い影が、夕方の廊下に伸びる。
犬みたいなやつ。
無自覚で、距離が近くて、落ち着きがなくて。
なのに――
隣の席が空いたら、
それはそれで、少しだけ嫌だと思ってしまった。
その感情の名前を、
俺はまだ、知らない。
窓が少しだけ開いていて、カーテンが風に揺れる。そのたび、チョークの粉が白く舞う。
「じゃあ、席替えするぞー」
担任の声が落ちると、教室が一斉にざわついた。
机を引く音、椅子が床を擦る音。誰かの笑い声。
俺は特に期待もせず、黒板に貼られた座席表を見る。
こういうのは運だ。良い席でも悪い席でも、結局は慣れる。
三条怜。
自分の名前を見つけて、その横を見る。
「……春日?」
聞き覚えのある名字だった。
陸上部で有名なやつ。長距離のエース。いつも校庭を走っている姿を見る。
「三条!」
背後から、やけに明るい声がした。
振り向いた瞬間、視界が一気に塞がれる。
近い。……でかい。
白いTシャツに薄手のパーカー。制服の上からでも分かる肩幅。
背が高くて、まっすぐ立っているだけなのに存在感がある。
「よろしくな、三条」
「……怜でいい」
「じゃあ怜な。俺、陽向」
名前を呼ばれるだけで、距離が縮まった気がした。
気のせいだと思いたくて、俺は椅子を引いた。
机を移動させるとき、どうしても距離が近くなる。
陽向は気にせず動くけど、俺は壁際に追いやられる形になった。
「ここでいい?」
陽向がそう言って、机を押した、その瞬間だった。
誰かの机がぶつかり、バランスを崩した陽向が、反射的に腕を伸ばす。
ドン。
鈍い音と同時に、背中に冷たい感触。
壁。
顔のすぐ横、耳の横に、陽向の腕。
「……っ」
声が出なかった。
視界いっぱいに、陽向の制服の襟元と喉仏。
見上げる形になって、初めてはっきり分かる。
――高い。
178センチ。
俺より10センチ高い体は、こんなにも近いと圧になる。
「……あ」
陽向が間の抜けた声を出した。
「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
慌てて腕を離し、一歩下がる。
空気が戻ってくる。
でも、心臓の音は戻らない。
「……平気」
反射的に口元を手で覆っていた。
照れたとき、困ったときに出る癖。
「ほんと? どっか当たってない?」
覗き込んでくる。
上から。
「……平気だから」
「そっか」
安心したように笑う。
何もなかったみたいに。
――犬だ。
完全に。
授業が始まっても、さっきの距離感が頭から離れなかった。
ノートを取る手が、少し遅れる。
「怜」
小声で呼ばれる。
「……何」
「さっきの、ほんとごめんな」
「……もういい」
これ以上、思い出させないでほしい。
陽向は気にしていないのが分かる。
だから余計に、俺だけが意識しているみたいで、落ち着かない。
昼休み。
陽向はコンビニのパンを咥えながら、俺の机に腰掛ける。
「怜、弁当?」
「……そうだけど」
弁当箱を広げると、陽向が身を乗り出す。
「うわ、うまそう」
距離が近い。
「……少しなら」
「ほんと? ありがとう!」
一口食べて、分かりやすく目を輝かせる。
「うまっ」
「……大袈裟」
「いや、ほんとだって」
身を乗り出した拍子に、机が揺れる。
弁当が傾いて、慌てて手を伸ばす。
同時に、陽向の手も伸びて、指が触れた。
一瞬。
ほんの一瞬なのに、胸が跳ねた。
陽向の手は大きい。
俺の手を、簡単に包めそうだ。
「悪い!」
すぐに離れる。
「……別に」
また、口元を覆っていた。
午後の体育。
着替えた陽向は、やっぱり目立つ。
Tシャツ一枚でも分かる筋肉。
脚が長くて、フォームが綺麗。
俺は運動が得意じゃない。
それでも、準備体操くらいは普通にこなす。
「怜、背ちっちゃくね?」
「……168」
「俺178」
言われなくても分かってる。
「見下ろすの、ちょっと楽しい」
「嫌味?」
「いや、かわいいって意味」
意味が分からない。
走ると、陽向は前に出る。
なのに、何度も振り返る。
「怜、ちゃんと来てる?」
「……来てる」
置いていかない犬。
授業終わり、廊下が混んでいた。
人の流れに押されて、また壁際に寄る。
次の瞬間――
ドン。
今度は完全に事故だった。
誰かにぶつかられた陽向が、反射的に手をつく。
逃げ場はなかった。
顔が、近い。
陽向はすぐに気づいて固まる。
「……」
「……」
数秒。
やけに長い沈黙。
「……近い」
やっと出た言葉。
「ごめん!!」
勢いよく離れる。
「俺、ほんと距離感なくて……」
「……自覚して」
口元を覆ったまま言うと、陽向は苦笑した。
「気をつける」
でも、たぶん、またやる。
放課後。
「また明日な」
「……うん」
背の高い影が、夕方の廊下に伸びる。
犬みたいなやつ。
無自覚で、距離が近くて、落ち着きがなくて。
なのに――
隣の席が空いたら、
それはそれで、少しだけ嫌だと思ってしまった。
その感情の名前を、
俺はまだ、知らない。



