四月の風は、まだ少しだけ冷たかった。
窓が開いたままの教室に、カーテンがふわりと揺れている。午後のホームルーム。眠気と期待が入り混じった空気の中で、担任が教卓に立った。
「じゃあ、席替えな」
その一言で、教室が一気にざわついた。
三条怜は、教室の後ろの方、廊下側の席に座ったまま、静かに前を見ていた。
白いシャツに紺のブレザー。きちんと着こなしてはいるが、ネクタイは少しだけ緩めている。特別目立つ格好ではない。本人も、目立つつもりは一切なかった。
(……端の席でいいんだけどな)
心の中でそう思いながらも、表情は変えない。
誰の隣でも構わない。ただ、できれば静かな席がいい。それだけだった。
担任が、くじの順に名前を読み上げていく。
「前から二列目、窓側。三条」
怜は小さく息を吐いた。
(前か……)
前列は少し落ち着かない。だが、文句を言う理由もない。鞄を持って立ち上がり、指定された席へ向かう。椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
続けて、担任の声。
「その隣。春日」
一瞬、教室の空気が変わった。
怜が顔を上げると、少し離れた席で、春日陽向がこちらを見ていた。
明るい茶色の髪。シャツの袖を無造作に肘までまくり、ブレザーは羽織っているだけ。制服の着方ひとつ取っても、自由な人間だとわかる。
目が合った瞬間、陽向はぱっと笑って、こちらに手を振った。
「よろしくな、三条!」
声が大きい。
迷いなく、こちらへ歩いてくる。その足取りすら軽い。
(……犬だ)
それが、怜の第一印象だった。
落ち着きがなく、感情が表に出やすい。
人との距離が近いことを、まるで気にしていない。
陽向は隣の椅子に腰を下ろすと、すぐに体ごとこちらへ向けた。
「一年よろしくな」
「……どうも」
最低限の返事だけ返す。
それ以上話すつもりはなかった。
授業が始まると、教室は静かになった。
怜はノートを開き、淡々と板書を書き写していく。シャープペンの先が紙を走る感覚は嫌いじゃない。
そのときだった。
「なあ」
低すぎない、明るい声。
視線を感じて、怜は一瞬だけ手を止めた。
「それ、シャーペン?」
横を見ると、陽向が興味深そうにこちらを見ている。
距離が、近い。
「……そうだけど」
「書きやすそうだな。どこの?」
どうでもいい質問。
なのに、なぜか落ち着かない。
「……文房具屋」
短く答えると、再びノートに視線を落とした。
「あ、そうなんだ」
それだけで引いてくれるのかと思ったが、陽向は満足そうに笑っただけだった。
昼休みになると、教室のあちこちで机が動き始めた。
怜はいつも通り、机をそのままにして弁当を取り出す。
白米と簡単なおかずだけの、質素な弁当だ。
「ここで食べてもいい?」
顔を上げると、陽向が弁当を手に立っていた。
断る理由はない。
「……好きにすれば」
「サンキュ」
陽向は向かいではなく、自然に隣の席に腰を下ろした。
距離が、やっぱり近い。
陽向はよく喋った。
部活の話、クラスの話、どうでもいい話。
怜は相槌を打つだけで、ほとんど聞き役だった。
「三条ってさ、静かだよな」
「……悪いか」
「いや」
陽向はすぐに首を振った。
「落ち着く」
その一言に、怜は箸を止めた。
予想外だった。
静かなのは、ただ人と距離を取りたいからだ。
褒められることではないと思っていた。
「……そうか」
それだけ返すと、再び食事に戻る。
胸の奥が、少しだけざわついた。
昼休みが終わる頃、陽向が言った。
「なあ、これから一年、隣だな」
「……そうだな」
当たり前のことを言っているだけなのに、その言葉が妙に残る。
放課後。
怜は鞄を持ち、教室を出ようとした。
「一緒に帰る?」
隣から、迷いのない声。
「……今日は、一人で帰る」
断る。
でも、拒絶ではない。
「そっか。また明日な!」
陽向はあっさりと引いた。
追ってこない。その距離感に、逆に戸惑う。
教室を出て、廊下を歩きながら、怜は無意識に考えていた。
(……犬みたいなやつ)
うるさくて、距離が近くて、落ち着きがない。
正直、苦手なタイプのはずなのに。
胸に残るのは、鬱陶しさよりも、
さっき言われた「落ち着く」という言葉の温度だった。
嫌いじゃない。
たぶん、それだけは確かだった。
窓が開いたままの教室に、カーテンがふわりと揺れている。午後のホームルーム。眠気と期待が入り混じった空気の中で、担任が教卓に立った。
「じゃあ、席替えな」
その一言で、教室が一気にざわついた。
三条怜は、教室の後ろの方、廊下側の席に座ったまま、静かに前を見ていた。
白いシャツに紺のブレザー。きちんと着こなしてはいるが、ネクタイは少しだけ緩めている。特別目立つ格好ではない。本人も、目立つつもりは一切なかった。
(……端の席でいいんだけどな)
心の中でそう思いながらも、表情は変えない。
誰の隣でも構わない。ただ、できれば静かな席がいい。それだけだった。
担任が、くじの順に名前を読み上げていく。
「前から二列目、窓側。三条」
怜は小さく息を吐いた。
(前か……)
前列は少し落ち着かない。だが、文句を言う理由もない。鞄を持って立ち上がり、指定された席へ向かう。椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
続けて、担任の声。
「その隣。春日」
一瞬、教室の空気が変わった。
怜が顔を上げると、少し離れた席で、春日陽向がこちらを見ていた。
明るい茶色の髪。シャツの袖を無造作に肘までまくり、ブレザーは羽織っているだけ。制服の着方ひとつ取っても、自由な人間だとわかる。
目が合った瞬間、陽向はぱっと笑って、こちらに手を振った。
「よろしくな、三条!」
声が大きい。
迷いなく、こちらへ歩いてくる。その足取りすら軽い。
(……犬だ)
それが、怜の第一印象だった。
落ち着きがなく、感情が表に出やすい。
人との距離が近いことを、まるで気にしていない。
陽向は隣の椅子に腰を下ろすと、すぐに体ごとこちらへ向けた。
「一年よろしくな」
「……どうも」
最低限の返事だけ返す。
それ以上話すつもりはなかった。
授業が始まると、教室は静かになった。
怜はノートを開き、淡々と板書を書き写していく。シャープペンの先が紙を走る感覚は嫌いじゃない。
そのときだった。
「なあ」
低すぎない、明るい声。
視線を感じて、怜は一瞬だけ手を止めた。
「それ、シャーペン?」
横を見ると、陽向が興味深そうにこちらを見ている。
距離が、近い。
「……そうだけど」
「書きやすそうだな。どこの?」
どうでもいい質問。
なのに、なぜか落ち着かない。
「……文房具屋」
短く答えると、再びノートに視線を落とした。
「あ、そうなんだ」
それだけで引いてくれるのかと思ったが、陽向は満足そうに笑っただけだった。
昼休みになると、教室のあちこちで机が動き始めた。
怜はいつも通り、机をそのままにして弁当を取り出す。
白米と簡単なおかずだけの、質素な弁当だ。
「ここで食べてもいい?」
顔を上げると、陽向が弁当を手に立っていた。
断る理由はない。
「……好きにすれば」
「サンキュ」
陽向は向かいではなく、自然に隣の席に腰を下ろした。
距離が、やっぱり近い。
陽向はよく喋った。
部活の話、クラスの話、どうでもいい話。
怜は相槌を打つだけで、ほとんど聞き役だった。
「三条ってさ、静かだよな」
「……悪いか」
「いや」
陽向はすぐに首を振った。
「落ち着く」
その一言に、怜は箸を止めた。
予想外だった。
静かなのは、ただ人と距離を取りたいからだ。
褒められることではないと思っていた。
「……そうか」
それだけ返すと、再び食事に戻る。
胸の奥が、少しだけざわついた。
昼休みが終わる頃、陽向が言った。
「なあ、これから一年、隣だな」
「……そうだな」
当たり前のことを言っているだけなのに、その言葉が妙に残る。
放課後。
怜は鞄を持ち、教室を出ようとした。
「一緒に帰る?」
隣から、迷いのない声。
「……今日は、一人で帰る」
断る。
でも、拒絶ではない。
「そっか。また明日な!」
陽向はあっさりと引いた。
追ってこない。その距離感に、逆に戸惑う。
教室を出て、廊下を歩きながら、怜は無意識に考えていた。
(……犬みたいなやつ)
うるさくて、距離が近くて、落ち着きがない。
正直、苦手なタイプのはずなのに。
胸に残るのは、鬱陶しさよりも、
さっき言われた「落ち着く」という言葉の温度だった。
嫌いじゃない。
たぶん、それだけは確かだった。



