なにかと近すぎ!メイドの秘密と苦いチョコで笑って泣く文化祭

 十二月二十三日(月)の朝。昇降口前には、各クラスの販売ブースが並び、ダンボールや机がせわしなく運ばれていた。空気は冷たいのに、人の声だけがやたら暖かい。

 二年C組の机には、透明の袋に入ったチョコが山になっていた。シールには、結音の丸い字で「甘い」「甘くない」と書かれている。瑶果が札を掲げて叫んだ。

 「食べ比べ! 甘いのと、甘くないの! どっちも二年C組の味!」

 「甘くないって、売り文句として強いのかな……」誰かが不安そうに言うと、結音が頷いた。

 「甘いのは、どこでもある。甘くないのは、うちだけ。苦いのが好きな人もいるし、甘いのが苦手な人もいる。違いがあると、選べる」

 奏はレジ用の金庫箱を開け、硬貨の枚数を数えていた。指先がかじかんで、数え間違えそうになる。そこへ、紙コップに入った温かいココアが差し出された。

 「飲んで。指が動かないと、数字がずれる」

 結音だった。奏は受け取り、口をつけた。昨日のカフェのホットチョコとは違う。少し薄い。でも、温かい。

 「……ありがと」

 言い終わる前に、背中がどん、と押された。瑶果が「客きた!」と叫び、奏の肩越しに身を乗り出す。

 「いらっしゃいませー! 甘いのと甘くないの、食べ比べできますー!」

 瑶果の声は、冬の校舎に響いた。通りかかった一年生が立ち止まり、「甘くないって何」と笑う。瑶果が胸を張る。「そのまんま! 苦い! でも香りがいい!」

 結音が試食用の小皿を出し、客の前で説明する。「甘い方はミルク多め。甘くない方はカカオ多め。口の中で、香りが残るのが特徴です」

 奏はレジを回しながら、視線だけでブース全体を見た。包装の補充、試食の皿、釣り銭。欠けそうになるたびに、誰かの手が入る。昨日まで見えていなかった動きが、今日は見える。

 裏方の段ボールの前で、久慈が黙々と補充していた。制服の袖をまくり、テープを切り、袋を並べる。客の前に出ないのに、客の流れを見ている。奏が目で合図すると、久慈は頷いて、次の箱を開けた。

 「久慈、今のタイミング神!」瑶果が叫ぶと、久慈は「神じゃない」とだけ返し、瑶果が「照れてる」と笑った。

 午後、別のクラスの女子二人がブースの前でひそひそし始めた。「ねえ、ルミエール邸の男のメイドって、同じ学校らしいよ」「今日、見られるかもって」

 奏の心臓が跳ねた。以前なら、顔色を変えて、黒板の文字を消しに走っていた。けれど今日は、結音が小さく頷き、瑶果が舌を出す。合図は要らない。みんなが状況を知っているからだ。

 瑶果が満面の笑みで女子たちの前に立った。「メイドは知らないけど! 甘くないチョコは知ってる! 試して!」

 結音が小皿を差し出し、「苦い方を先に食べると、甘い方がすごく甘く感じるよ」と優しく言う。女子たちは笑いながら口に運び、「ほんとだ」と目を丸くした。

 その隙に、久慈が裏の段ボールを持ち上げ、ブースの奥へ場所を移した。視線を浴びない位置へ、自然に。奏はそれを見て、胸の中で小さく頷いた。隠すためじゃない。流れを整えるためだ。

 釣り銭が足りなくなりかけたときも、奏が焦って手を止める前に、久慈が硬貨の袋を黙って差し出した。奏は受け取り、目で礼を言う。久慈は頷くだけ。言葉は少ないのに、動きが多い。

 昼前、客の列が一段落した頃。奏は黒板代わりの看板に、結音が書いた文字を見ていた。「甘くないチョコレート」。その下に、小さく「ビター」と添えてある。

 奏はふと、久慈の横へ行った。「……完売、早い」

 久慈は箱の中を確認しながら言った。「甘いのより、こっちの方が出る。意外だな」

 「意外じゃない」奏は言った。「瑶果が言った通り、クセになる」

 久慈が一瞬だけ口元を動かした。笑うまでいかない、息が抜ける感じ。奏はそれを見て、胸の奥が軽くなる。

 販売が終わり、片づけが始まる。机を戻し、ゴミをまとめ、佐伯へ封筒を渡す。佐伯が「よくやった」と言い、瑶果が「奏が封筒の神だから」と言って笑う。奏は「神やめろ」と返しながら、笑っている自分に気づいた。

 人が散り、ブースの周りが静かになった頃、久慈が奏の横に来た。声は小さい。

 「……あの店」

 奏は顔を上げる。

 「女の制服が条件なんだ。雇う側の趣味じゃない。俺の家の事情。金が必要で、あそこが一番時給が良かった」

 久慈は視線を逸らした。「笑うなら笑え」

 奏は首を横に振った。「笑わない」

 言い切ってから、少しだけ息を足した。「……でも、俺に内緒はやめろ。秘密を抱えると、俺が変な動きする」

 久慈は「知ってる」とも言わず、代わりに一つだけ言った。「次は言う」

 そのやり取りを聞いたのか、結音が近づいてきた。「海、行こう。片づけのあとは、空気を変えた方がいい」

 瑶果は「私は家で寝る!」と叫んで去っていった。去り際に「近い二人、お幸せに!」と叫び、結音が「それは言わない」と追いかけて手を振った。

 学校から海辺までは歩いて十分ほど。夕方の空は赤く、波は黒く光っていた。結音は自販機でココア缶を二本買い、奏と久慈の手にそれぞれ押し当てた。

 「冷えてると、言葉も固まるから」

 奏は缶の温かさを掌で転がした。久慈も同じ動きをしている。二人の動きが揃っていて、奏はおかしくなった。

 「近いって言ってたのに、今日はちょうどいい」

 奏が呟くと、結音は満足そうに頷き、少し離れて波の方を見た。二人だけの会話を残すために、距離を作ったのだと分かった。結音の近さは、近づくためじゃなくて、並べるためなんだ。

 久慈が小さく息を吐いた。「明日も来るか」

 奏は即答した。「当たり前だろ。……仕入れのリスト、明日からは二人で見る」

 久慈は「二人」を否定しなかった。代わりに、肩がほんの少し奏の方へ寄った。

 奏は波打ち際まで少し歩き、靴の先で砂を蹴った。白い泡が寄せては引き、足元の形を何度も消す。

 「昨日さ」奏は海を見たまま言った。「『全部きみのせいだよ』って言われて、腹立った。でも……当たってた。俺、守るって言いながら、自分の都合で動いてた」

 久慈は黙って聞いていた。缶を持つ指が、昨日ほど震えていない。

 奏は続けた。「今日、釣り銭の袋、助かった。……助かったって言うの、遅いけど」

 久慈が小さく鼻で息を吐いた。「遅い」

 「うるさい」

 言い返しながら、奏は笑ってしまった。笑うと、胸の奥の苦さが薄くなる。久慈も、ほんの少し口角を上げた。


 波の音が、昨日より柔らかく聞こえた。甘いのと、甘くないの。どっちも残るのは、同じ温度だ。

 背後から砂を踏む音がして、結音が戻ってきた。「そろそろ帰ろ。風邪ひく」

 奏が振り向くと、結音は二人の肩の距離を見て、目を細めた。「近い」

 奏が「言うな」と言うと、結音は笑った。「言うよ。近いって、並べるってことだから」


 海風が頬を刺すのに、缶の温度と、隣の気配だけが不思議と温かかった。

 奏はココア缶を持ち上げた。「なにかと近すぎ、相棒」

 久慈は視線を海に置いたまま、短く返した。

 「……悪くない」