なにかと近すぎ!メイドの秘密と苦いチョコで笑って泣く文化祭

 十二月十九日(木)の放課後。台所実習室の窓は白く曇り、外の運動場の声がぼやけて聞こえた。鍋に張った湯が、静かに湯気を上げている。

 「火、弱めて。お湯が沸騰すると、チョコがざらつく」

 奏は温度計を覗き込みながら言った。結音は頷き、火を止める代わりに、鍋の底を少しだけずらした。

 「温度計も大事。でもね、泡の音。ほら、さっきより静かになったでしょ」

 「音で分かるのは、結音だけだろ」

 奏の言い方は刺さりそうで刺さらない。結音は笑って、ゴムベラを奏に渡した。「じゃあ、奏くんは手順。私は感覚。二つあると失敗しにくい」

 その「二つ」が、奏の胸をちくりとさせた。二つでやる、という言い方が、当たり前の提案みたいで。

 瑶果はエプロンの紐を結びながら、「私の役割は味見。異論は認めない」と宣言した。結音が「まず刻む」と言い、奏が「刻む前に手を洗え」と返す。瑶果が「奏、家庭科の先生みたい」と笑う。実習室の空気は軽い。

 刻んだチョコを湯せんで溶かし、冷まして、また温める。奏のノートには温度の数字が並び、結音は「ツヤ」を指で確かめる。奏が「触るな」と言いかけると、結音は「触らないと分からない」と返す。

 「……せめて手袋」

 「はいはい、奏くんの勝ち」

 結音が手袋をはめる仕草が、妙に手際がいい。奏は自分の勝ちなのに、負けた気がした。

 型に流し込む段階で、瑶果がボウルの縁を覗き込み、「わ、黒い!」と声を上げた。

 「ビター多めだから」

 奏が言うと、結音が「甘くするなら砂糖足せるよ」と提案する。奏は首を振った。「配合は変えない」。結音はそれ以上押さない。ただ、ゴムベラを動かす腕の角度だけを、少し変えた。

 冷蔵庫で固めたチョコを、型から外す。ぱきん、と乾いた音がして、瑶果が一つ口に放り込んだ。

 「……」

 瑶果の眉が動いた。目が細くなり、次の瞬間、叫んだ。

 「大人味!……っていうか甘くない!」

 実習室が一斉に笑って、同時にため息が混ざった。誰かが「苦っ」と顔をしかめ、別の誰かが「でも香りいい」と言う。結音は小さく頷いた。

 結音はテーブルの端にチョコを並べ、みんなに一片ずつ配った。「苦いって言った人、甘いって言った人、どっちも正解。感じ方が違うだけ」

 瑶果が「じゃあ、どうするの? 苦いのを売るの?」と口を尖らせると、結音はゴムベラを立てて考えた。

 「一回、甘いのも作って比べよう。どっちが『二年C組の味』か決める。奏くん、配合、変えるの嫌?」

 奏は「嫌」と言いかけて止めた。嫌だ。けれど、嫌と言い切ると、また一人で抱える形になる気がした。

 「……二つ作るなら、管理は俺がする」

 「うん、管理は奏くん。混ぜ方は私」結音が即座に返す。「二つあれば、どっちかが当たる。外れたら、外れた方は私が責任取って食べる」

 瑶果が「責任が軽い」と笑い、結音が「食べるのは重いよ」と真面目な顔をする。笑いが起きる。その笑いの中で、奏の胸が少しだけほどけた。

 二回目は、砂糖を少し足し、混ぜる時間を伸ばした。結音は「手首の力を抜いて」と言い、奏の手首に指を添えた。

 「近――」

 「今は近い方がいい。力、入りすぎ」

 奏は言い返せず、言われた通りに混ぜた。さっきよりツヤが出る。香りも丸くなる。味見した瑶果が「お、これは甘い! でもさっきの苦いやつ、なんかクセになる」と言って、二つを交互に口へ運んだ。

 「食べ比べにしたら? 甘いのと苦いの。『甘くない』って逆にウケそうじゃない?」

 瑶果の軽い提案が、奏のノートの端に小さく刺さった。軽いのに、消えない。

 「苦味が立ってる。温度の戻し方か、混ぜ方か。奏くん、数字は合ってた?」

 「合ってた。……はずだ」

 奏はノートを見返し、数字の列を指で追った。合っている。合っているのに、甘くない。正しい手順でも、正しい味にはならない。そんなこと、今まであまりなかった。

 そのとき、実習室のドアが開いて、別のクラスの女子が覗いた。「ねえ、二年Cの瑶果っている?」。瑶果が「はーい」と手を上げると、女子は笑いながら言った。

 「聞いた? 商店街の洋館カフェ、男のメイドがいるらしいよ」

 奏の指が止まった。結音が一瞬だけ奏を見る。瑶果は「え、なにそれ。見たい」と目を輝かせた。

 「……知らない」奏は即座に言った。声が硬い。

 女子は「えー絶対いるって」と楽しそうに話し、瑶果も乗って、すぐに噂は泡みたいに広がった。奏の胸の中で、秘密が熱を持つ。

 放課後の教室に戻ると、誰かが黒板の端に小さく「ルミエール邸」と書き、ハートの落書きまで添えていた。奏はチョークを握り、消しゴムで消した。消した瞬間、後ろで「消した!」と声が上がる。

 「なんで消すの?」誰かが笑う。

 奏は咄嗟に言った。「関係ない話は、今やるな。チョコの方が先だ」

 結音は黒板の消し跡を見て、奏の手をそっと止めた。「消すほど目立つよ。奏くん、今の動き、チョコの時みたい。数字が合ってても、味が変わっちゃう」

 奏は唇を噛んだ。「じゃあ、どうすれば」

 「みんなに任せる。噂は噂。私たちはチョコ。……奏くんが一人で動くと、久慈くんも、奏くんも、変に苦くなる」

 結音の言い方はふわっとしているのに、胸の奥に当たる。奏は手を離し、チョークの粉を払った。結音の指が払う動きに重なり、また距離が近くなる。

 奏は小さく呟いた。「近い」

 「うん、近い。だから逃げないで」



 その言い方が、逆に火をつけた。関係ないなら、消さなくていい。そういう目が集まる。奏の背中に、視線が刺さる。

 休み時間、奏は廊下の掲示板の前に立ち、匿名の書き込みがあると噂された紙を探した。見つからないのに、探すふりだけが増える。誰かが「奏、なんか怪しい」と笑い、笑いがまた別の笑いを呼ぶ。

 夕方、昇降口の前で久慈が靴紐を結んでいた。制服のまま、いつもの顔。けれど、奏はその顔の裏にフリルの白さを見てしまう。

 「噂、出てる」

 奏が言うと、久慈は顔を上げなかった。「放っておけ」

 「放っておけって……」

 「誰も確かめられない話だ。勝手に飽きる」

 久慈は立ち上がり、奏の横を通り過ぎようとした。そのとき、袖口を握る指が、ほんの一瞬、震えた。奏は見間違えたと思った。けれど、その震えは確かに、靴紐より細い形でそこにあった。

 奏の胸が締まった。守り方を間違えている。消せば消すほど、目立つ。止めれば止めるほど、動く。

 「……俺が何とかする」

 奏が言うと、久慈は足を止めた。振り向かずに、低い声だけが落ちる。

 「やめろ」

 「でも――」

 「俺のことを理由に、お前が目立つな」

 久慈の言葉は冷たいのに、奏の胸の中に熱が残った。目立たないように守る――そのつもりで動いたのに、自分の動きが一番うるさい。

 その夜、奏は机にノートを広げ、チョコの配合を見直した。数字は正しい。噂を消す方法も、頭の中では正しい。正しいのに、どちらも甘くならない。

 奏はペンを置いて、掌を見た。結音が言った「触ろう」という言葉が、指の間に残っている。久慈の震えも、そこに残っている。

 「……守るって、どういうことだ」

 答えが出ないまま、机の上のチョコは苦い匂いを放っていた。