なにかと近すぎ!メイドの秘密と苦いチョコで笑って泣く文化祭

 十二月十七日(火)の夕方。空は朝から薄暗く、商店街のアーケードを叩く雨音が、ずっと同じリズムを刻んでいた。

 奏はカゴを片手に、駅前の製菓材料店のシャッターを見上げた。「本日臨時休業」の紙が、濡れた風で震えている。

 「……嘘だろ」

 ココアバター。あれがないと、結音が言っていた「口どけ」が作れない。代用品でいい、と頭では分かっても、欠ける感覚が気持ち悪い。奏は次の店へ走り、次の店でも首を振られ、最後に入ったスーパーでは「来週入荷ですね」とレジ横で言われた。

 雨が強くなる。靴下のつま先が冷たくなった。

 「奏くん、探してるの、これ?」

 背後から声がして振り向くと、結音がエコバッグを抱えて立っていた。濡れた前髪の先から水滴が落ち、頬の上をつるりと滑る。

 「なんでここに」

 「香りを比べるなら、商店街の奥の方が早いって思って。台所実習室で、奏くんの顔が『一人でやる顔』だったから」

 奏は反論を飲み込んだ。自分の顔がどう見えているか、考えたことがない。

 結音は傘をさしながら、奏をアーケードの外へ誘導した。角を曲がると、古い洋館みたいな建物が現れた。雨に濡れた白い壁、重い扉、窓に灯る暖色の明かり。

 「ここ、洋館カフェ『ルミエール邸』。製菓用の材料、意外と置いてるの」

 「カフェに?」

 「うん。焼き菓子の材料とか。あと、香りも比べられる」

 扉を開けた瞬間、雨の匂いが切れた。甘い、でも重くない香り。暖房の熱と、コーヒーの蒸気が混ざって、奏の肩の力が一段落ちる。

 席に着くと、結音はメニューを指さした。「ここのホットチョコ、濃いよ。香りが分かりやすい」

 「今は飲んでる場合じゃ――」

 奏が言い終わる前に、結音は「じゃあ、香りの勉強」と言って注文を決めた。久慈が来るかもしれないのに、と奏の心臓が早くなる。なのに結音は平然としている。

 運ばれてきたカップから、湯気が立った。結音は顔を寄せ、目を閉じる。「ほら、最初は甘い。でも奥に、少し木みたいな匂いがある」

 奏も真似して鼻を近づけた途端、結音がカップを奏の口元へ差し出した。「一口」

 「……近い」

 「飲んでから言って」

 奏は渋々口をつけた。舌に広がる苦味と甘味の境目がはっきりしていて、さっきまでの雨の冷たさが溶けていく。

 「これ、甘いけど、後味が残らない。ココアバターの質がいいのかも」

 奏が思わず分析すると、結音が嬉しそうに笑った。「ほら、奏くんも体で分かった」

 そのとき、ホールの向こうで久慈が別のテーブルに頭を下げた。客の笑い声に混ざって、久慈の「ありがとうございます」が聞こえる。いつもの教室では聞かない声だった。奏はカップを握る指に力が入るのを感じた。


 「いらっしゃいませ」

 その声で、奏の背中が固まった。

 トレーを持って現れたのは久慈だった。しかも――黒いワンピースに白いエプロン、頭には白いカチューシャ。袖口から覗く手首はいつも通りなのに、そこに布のフリルがついているだけで、脳が追いつかない。

 奏の目が勝手に久慈を追った。久慈も一瞬だけ奏を見て、すぐ視線を皿の上へ落とした。表情は崩れない。崩れないのに、空気だけが変わる。

 結音が席に案内されながら、小声で言った。「知ってた?」

 奏は首を横に振るしかなかった。

 久慈が水を置いた。トレーがテーブルに触れる音が、やけに大きい。奏は声を出せないまま、視線を逃がせない。

 久慈が奏の前にだけ、カップを置かずにトレーを引いた。指先がテーブルの縁をなぞり、低い声が落ちた。

 「今見たこと、黙って」

 それだけ言って、久慈は客席の向こうへ去った。足音が柔らかい。柔らかいのが、余計におかしい。

 奏の喉がようやく動いた。「……なんで、あいつが」

 結音は周囲を見回し、店員と目が合う前に立ち上がった。「厨房の人に、材料のこと聞いてくる。奏くんも――」

 「行く」

 奏が勢いで立つと、椅子が床を擦った。その音で、店内の視線が一瞬寄る。奏は背中に穴が開く気がして、結音の後ろに吸い寄せられた。

 厨房へ続く通路は狭い。すれ違えるかどうかの幅で、壁には額縁、床にはカーペット。結音が先に進み、奏が後ろから付いていく。

 曲がり角で、誰かとぶつかった。

 「……っ」

 白いエプロンが目の前を横切る。久慈だ。トレーを抱えていて、奏の肩と久慈の腕が当たった。布のフリルが、頬に触れた気がした。

 奏は小声で叫んだ。「近い!」

 結音が振り向き、目を丸くして、すぐに手で口元を隠した。笑いそうなのをこらえる顔だった。

 久慈は一歩も引かないまま、奏を見た。目だけが冷たい。

 「通路で叫ぶな」

 「お前が――」

 奏が言い返すより早く、結音が奏の腕を引いた。「こっち」。厨房の手前にある小さな物置みたいなスペースへ、奏を押し込んだ。段ボールの間で、二人の距離がまた――近い。

 「だから近いって……」

 「今は静かに」結音が囁く。「誰かに聞かれたら、久慈くん、困る」

 奏は言葉を飲み込み、息を整えた。木の棚に並ぶ缶のラベルが見えた。「カカオバター」。目が吸い寄せられる。

 結音が店員に事情を説明し、缶を一つ手に取った。「これ、譲ってもらえるって」

 奏は頷きかけた、そのとき、久慈が物置の入口に現れた。周りに客がいないのを確認したのか、声を落とす。

 「条件がある」

 「……条件?」

 「誰にも言うな。学校でも、ここでも。代わりに、チョコの仕入れは俺が回す。必要なもの、リストにして渡せ」

 奏は反射で「なんでそこまで」と言いかけた。けれど、久慈の目が笑っていない。笑っていないのに、どこか追い詰められた目だ。奏は空白を埋めたい衝動を抑え、代わりに一つだけ確かめた。

 「……それ、俺が守れるって思ってんのか」

 「守るって言い方、嫌いだ」

 久慈は短く言った。「黙っていればいいだけだろ」

 結音が二人の間に視線を置き、「奏くん」と小さく呼んだ。答えを急かす呼び方じゃない。奏はその目を見て、頷いた。

 「……分かった。黙る」

 久慈はそれ以上何も言わず、通路の向こうへ消えた。残されたのは、フリルの白さと、胸の中の妙な重さ。

 帰り道、雨は少し弱まっていた。結音は傘を奏の方へ寄せ、肩が触れそうな距離で歩く。

 「奏くん、さっき、守れるって言ったね」

 「言ってない。言いかけただけ」

 「言いかけたってことは、考えたってこと。奏くんは、いつも一人で背負う形にしちゃうから」

 奏は返せなかった。秘密を受け取った瞬間、胸の中で「自分がやる」のスイッチが入ったのを、自分が一番知っている。

 濡れたアスファルトに街灯が滲む。奏は缶を抱え直した。欠けないための一個が手に入ったのに、胸の中には新しい空白が増えた気がした。

 駅の改札が見えるところまで来たところで、結音が足を止めた。鞄の中から小さなメモ帳を出し、ペンを差し出す。

 「仕入れのリスト、今ここで書いちゃお。奏くん、頭の中だけで回してると、また一人で倒れそう」

 「倒れない。……書く」

 奏はメモに「板チョコ(ビター・ミルク)」「砂糖」「生クリーム」「型」「包装袋」「リボン」と並べ、最後に「ココアバター」と二重線を引いた。結音がその上に小さく丸を付ける。

 「久慈くんが回すって言ったけど、リストはクラスにも共有した方がいいよ」

 奏は即座に首を振った。「秘密がある。俺がまとめる」

 結音はペンを受け取り、メモ帳を閉じた。責める顔はしない。ただ、雨雲の下で、息だけが少し長い。

 「分かった。でも、奏くん。黙るって決めたなら、黙るための形も、みんなで作れるよ」

 奏は答えられず、改札へ向かった。背中に傘の先が当たりそうな距離で、結音がついてくる。奏は心の中で、もう一度だけ言った。

 ――なにかと近すぎ。

 その近さが、今は少しだけ救いだった。