十二月十六日(月)の放課後。窓の外は、海から運ばれた冷たい風で白く曇っていた。神奈川県の海沿いにある公立高校の二年C組。教室のストーブは弱く唸るだけで、指先だけがやたら冷える。
担任の佐伯が黒板の前でチョークを鳴らした。
「来週の十二月二十三日、校内チャリティ販売がある。二年C組は――手作りチョコレート担当だ。売上は寄付。材料費は精算して、残りが寄付金になる。だから、計算も管理も大事だぞ」
ざわっと空気が跳ね、誰かが「え、チョコ?」と声を漏らした。瑶果は「チョコってだけで勝てそう」と言って笑い、後ろの席が「勝ち負けじゃない」と突っ込む。教室が温まる一方で、奏は机の上で、すでにノートを開いていた。
ページの端に日付を書き、試作、仕入れ、包装、当日の役割――線を引く。欠けたら終わる。なら、欠けない形にするだけだ。頭の中で工程を並べると、体の動きまで整っていく気がした。
佐伯が続ける。「今日このあと、軽く段取り決める。台所実習室、空けといた。道具の確認だけでもしてこい」
「はいはい、先生が本気だ」瑶果が両手を上げる。「奏、こういうの得意でしょ? 司令塔やってよ」
「司令塔って……」
奏は視線を落とし、ノートの表に「役割分担」と書き足した。司令塔でも何でもいい。動けばいい。
「おい」
隣の席から、低い声が落ちた。久慈だった。椅子に浅く腰をかけ、腕を組んでいる。黒板も見ていない。
「俺、こういうの無理。集団向いてない。欠席扱いでいい」
「欠席って……」
奏はペン先を止めた。目の前の表に、空白ができる。空白があると、全体がぐらつく。
「無理って決めるの早くない? やること選べばいいだろ」
「選ぶとかじゃない。やらない」
久慈は言い切った。そこだけ、教室の音が薄くなった気がした。
「はいはい、久慈、また一匹狼モード?」瑶果が後ろから身を乗り出し、指をくるくる回して茶化す。「でもさ、チョコ作りって意外と楽しいよ? 失敗しても食べられるし」
「失敗して食べるのが目的なら、最初から買えばいい」
「正論が刺さる~」
瑶果が笑うと、周りもつられて息を吐いた。空気がほぐれたところで、別の息づかいが、奏の肩のすぐ横に来た。
「奏くん、もう表作ってるんだ」
結音だった。いつの間にか奏の机の横に立ち、ノートを覗き込んでいる。覗き込むというより、同じ空気を吸いに来た距離だ。髪の先が袖に触れ、肩が――軽く当たった。
奏の背筋が反射で伸びた。
「……近い」
「え?」
結音が首をかしげ、さらにノートへ顔を寄せる。奏は声が裏返った。
「なにかと近すぎ!」
教室が一斉に振り向いた。誰かが「言った!」と笑い、瑶果が「奏、照れてる?」と肘で小突く。結音は目を丸くし、それから「ごめん」と言いながらも、目はノートの表を離さない。
「でもね、これ。役割って、やってみて決めた方が早いよ。材料を触って、温度見て、混ぜて。体で覚えると、失敗の理由も分かるから」
「手順は……」
奏は言いかけて、口を閉じた。手順の前に、やってみる。結音の言い方には、押しつけがなかった。なのに、奏の胸の奥がちくりとする。自分の表は、まだ誰にも見せていない。見せていいのか分からない。
結音はノートの余白に小さく矢印を描いた。「明日じゃなくてもいい。今、台所実習室、行ってみよう? 道具見るだけなら、十分快適に失敗できる」
瑶果が「失敗できるって言い方おもしろ」と笑った。「じゃ、行こ行こ。奏の表、持って!」
奏は抵抗する暇を失った。数人が席を立ち、椅子が床を擦る。久慈はその流れの外側で、鞄の持ち手を握ったまま動かない。
「久慈も。道具確認だけでも――」
佐伯が声をかけたが、久慈は首を横に振った。「帰る」。それだけ言って立ち上がり、扉へ向かった。廊下の方から体育館の笛が遠くに聞こえる。久慈の足音は、その笛より淡々としていた。
台所実習室は、金属の匂いがした。大きな調理台が二列に並び、棚にはボウル、泡立て器、ゴムベラ。結音が手早く戸棚を開け、温度計を取り出す。
「チョコは温度が命って言われるけど、私はね、音で分かると思ってる」
「音?」
奏が眉を寄せると、結音は湯せん用の鍋に水を張り、蛇口をひねった。水が金属に当たる音が「カン」と響く。
「ほら。水の音が硬いと冷たい。柔らかいとぬるい。……って言っても、伝わらないよね。だから、触ろう」
結音は奏の手首を――迷いなく掴んだ。袖の上からでも、指の温度が分かった。
「ちょ、ちょっと」
「熱いときは離せばいい。奏くん、手順は丁寧なのに、怖がると固まるよね」
言い方が、叱るでも褒めるでもない。奏は反射で「固まってない」と言いかけ、結音の指が手首から離れていないことに気づき、言葉の順番が乱れた。
「……なにかと近すぎ」
瑶果が「また言った!」と大笑いし、調理台の向こうで誰かが「近いって言う方が近い」と返す。笑い声が天井に当たり、実習室が一気に騒がしくなった。
奏はノートを開き、調理台の端で表を書き直した。材料担当、試作担当、包装担当。誰かが「テンパリングって何?」と聞き、結音が「簡単に言うと、溶かして、冷やして、もう一回整える」と手振りで説明する。奏はその手振りの順序を目で追い、頭の中の工程表に組み込んだ。
「じゃ、誰が何やる?」瑶果がゴムベラを振る。「私は味見!」
「味見は最後ね」結音が即座に返す。「最初は洗い物。味見にたどり着くために、まず手を動かす」
瑶果が「条件が重い」と言って、スポンジを受け取った。
奏は表の空白を見つめた。久慈の欄がぽっかり残っている。埋めるための名前はいくらでも書ける。けれど、空白を空白のまま置いておくと、どこかで歪む気がした。
「奏くん、久慈くんのこと、気になる?」
結音が小さく言った。奏はペンを握り直す。
「気になるっていうか……欠けるのが嫌なんだ」
「欠けないために、一人で背負うの?」
結音の問いは柔らかいのに、答案用紙みたいに正誤を迫ってくる。奏は答えを探しながら、結局、いつもの形を選んだ。
「……進める。俺がやる」
結音は何も言わず、湯せん鍋の火を止めた。瑶果は泡立て器を持って「奏、無理しないでね」と軽く言い、すぐ「でも無理した顔してる」と付け足した。
奏は笑えなかった。欠けないために自分が動く。そう決めるほど、胸の中の海風が強くなる。
実習室を出るとき、廊下の窓から海が見えた。灰色の波が、同じ場所で何度も砕けている。奏はノートを抱え直した。波みたいに、同じことを繰り返しても、前へ進むしかない。
教室に戻ると、久慈の机だけがきれいに片づいていた。椅子も机も、最初から誰も座っていなかったみたいに静かだ。
奏は黒板の端にチョークで小さく「チョコ担当 集合」と書き、明日の放課後の集合時刻を書き足した。誰かに確認を取るより先に、まず決めてしまう癖が指に残っている。
窓際の席に座り、ノートを開いた。包装の袋の枚数、リボンの色、寄付金用の封筒――「忘れるな」と書いても、忘れない保証にはならない。だから、二重に書く。
ふと、結音の「触ろう」という声がよみがえった。手首に残った温度はもう薄いのに、言葉だけが近いままだ。
「……近いのは、距離だけじゃないのか」
奏は小さく呟いて、自分でも意味が分からなくなった。分からないまま、線を引く。線を引けば、明日が来る。
担任の佐伯が黒板の前でチョークを鳴らした。
「来週の十二月二十三日、校内チャリティ販売がある。二年C組は――手作りチョコレート担当だ。売上は寄付。材料費は精算して、残りが寄付金になる。だから、計算も管理も大事だぞ」
ざわっと空気が跳ね、誰かが「え、チョコ?」と声を漏らした。瑶果は「チョコってだけで勝てそう」と言って笑い、後ろの席が「勝ち負けじゃない」と突っ込む。教室が温まる一方で、奏は机の上で、すでにノートを開いていた。
ページの端に日付を書き、試作、仕入れ、包装、当日の役割――線を引く。欠けたら終わる。なら、欠けない形にするだけだ。頭の中で工程を並べると、体の動きまで整っていく気がした。
佐伯が続ける。「今日このあと、軽く段取り決める。台所実習室、空けといた。道具の確認だけでもしてこい」
「はいはい、先生が本気だ」瑶果が両手を上げる。「奏、こういうの得意でしょ? 司令塔やってよ」
「司令塔って……」
奏は視線を落とし、ノートの表に「役割分担」と書き足した。司令塔でも何でもいい。動けばいい。
「おい」
隣の席から、低い声が落ちた。久慈だった。椅子に浅く腰をかけ、腕を組んでいる。黒板も見ていない。
「俺、こういうの無理。集団向いてない。欠席扱いでいい」
「欠席って……」
奏はペン先を止めた。目の前の表に、空白ができる。空白があると、全体がぐらつく。
「無理って決めるの早くない? やること選べばいいだろ」
「選ぶとかじゃない。やらない」
久慈は言い切った。そこだけ、教室の音が薄くなった気がした。
「はいはい、久慈、また一匹狼モード?」瑶果が後ろから身を乗り出し、指をくるくる回して茶化す。「でもさ、チョコ作りって意外と楽しいよ? 失敗しても食べられるし」
「失敗して食べるのが目的なら、最初から買えばいい」
「正論が刺さる~」
瑶果が笑うと、周りもつられて息を吐いた。空気がほぐれたところで、別の息づかいが、奏の肩のすぐ横に来た。
「奏くん、もう表作ってるんだ」
結音だった。いつの間にか奏の机の横に立ち、ノートを覗き込んでいる。覗き込むというより、同じ空気を吸いに来た距離だ。髪の先が袖に触れ、肩が――軽く当たった。
奏の背筋が反射で伸びた。
「……近い」
「え?」
結音が首をかしげ、さらにノートへ顔を寄せる。奏は声が裏返った。
「なにかと近すぎ!」
教室が一斉に振り向いた。誰かが「言った!」と笑い、瑶果が「奏、照れてる?」と肘で小突く。結音は目を丸くし、それから「ごめん」と言いながらも、目はノートの表を離さない。
「でもね、これ。役割って、やってみて決めた方が早いよ。材料を触って、温度見て、混ぜて。体で覚えると、失敗の理由も分かるから」
「手順は……」
奏は言いかけて、口を閉じた。手順の前に、やってみる。結音の言い方には、押しつけがなかった。なのに、奏の胸の奥がちくりとする。自分の表は、まだ誰にも見せていない。見せていいのか分からない。
結音はノートの余白に小さく矢印を描いた。「明日じゃなくてもいい。今、台所実習室、行ってみよう? 道具見るだけなら、十分快適に失敗できる」
瑶果が「失敗できるって言い方おもしろ」と笑った。「じゃ、行こ行こ。奏の表、持って!」
奏は抵抗する暇を失った。数人が席を立ち、椅子が床を擦る。久慈はその流れの外側で、鞄の持ち手を握ったまま動かない。
「久慈も。道具確認だけでも――」
佐伯が声をかけたが、久慈は首を横に振った。「帰る」。それだけ言って立ち上がり、扉へ向かった。廊下の方から体育館の笛が遠くに聞こえる。久慈の足音は、その笛より淡々としていた。
台所実習室は、金属の匂いがした。大きな調理台が二列に並び、棚にはボウル、泡立て器、ゴムベラ。結音が手早く戸棚を開け、温度計を取り出す。
「チョコは温度が命って言われるけど、私はね、音で分かると思ってる」
「音?」
奏が眉を寄せると、結音は湯せん用の鍋に水を張り、蛇口をひねった。水が金属に当たる音が「カン」と響く。
「ほら。水の音が硬いと冷たい。柔らかいとぬるい。……って言っても、伝わらないよね。だから、触ろう」
結音は奏の手首を――迷いなく掴んだ。袖の上からでも、指の温度が分かった。
「ちょ、ちょっと」
「熱いときは離せばいい。奏くん、手順は丁寧なのに、怖がると固まるよね」
言い方が、叱るでも褒めるでもない。奏は反射で「固まってない」と言いかけ、結音の指が手首から離れていないことに気づき、言葉の順番が乱れた。
「……なにかと近すぎ」
瑶果が「また言った!」と大笑いし、調理台の向こうで誰かが「近いって言う方が近い」と返す。笑い声が天井に当たり、実習室が一気に騒がしくなった。
奏はノートを開き、調理台の端で表を書き直した。材料担当、試作担当、包装担当。誰かが「テンパリングって何?」と聞き、結音が「簡単に言うと、溶かして、冷やして、もう一回整える」と手振りで説明する。奏はその手振りの順序を目で追い、頭の中の工程表に組み込んだ。
「じゃ、誰が何やる?」瑶果がゴムベラを振る。「私は味見!」
「味見は最後ね」結音が即座に返す。「最初は洗い物。味見にたどり着くために、まず手を動かす」
瑶果が「条件が重い」と言って、スポンジを受け取った。
奏は表の空白を見つめた。久慈の欄がぽっかり残っている。埋めるための名前はいくらでも書ける。けれど、空白を空白のまま置いておくと、どこかで歪む気がした。
「奏くん、久慈くんのこと、気になる?」
結音が小さく言った。奏はペンを握り直す。
「気になるっていうか……欠けるのが嫌なんだ」
「欠けないために、一人で背負うの?」
結音の問いは柔らかいのに、答案用紙みたいに正誤を迫ってくる。奏は答えを探しながら、結局、いつもの形を選んだ。
「……進める。俺がやる」
結音は何も言わず、湯せん鍋の火を止めた。瑶果は泡立て器を持って「奏、無理しないでね」と軽く言い、すぐ「でも無理した顔してる」と付け足した。
奏は笑えなかった。欠けないために自分が動く。そう決めるほど、胸の中の海風が強くなる。
実習室を出るとき、廊下の窓から海が見えた。灰色の波が、同じ場所で何度も砕けている。奏はノートを抱え直した。波みたいに、同じことを繰り返しても、前へ進むしかない。
教室に戻ると、久慈の机だけがきれいに片づいていた。椅子も机も、最初から誰も座っていなかったみたいに静かだ。
奏は黒板の端にチョークで小さく「チョコ担当 集合」と書き、明日の放課後の集合時刻を書き足した。誰かに確認を取るより先に、まず決めてしまう癖が指に残っている。
窓際の席に座り、ノートを開いた。包装の袋の枚数、リボンの色、寄付金用の封筒――「忘れるな」と書いても、忘れない保証にはならない。だから、二重に書く。
ふと、結音の「触ろう」という声がよみがえった。手首に残った温度はもう薄いのに、言葉だけが近いままだ。
「……近いのは、距離だけじゃないのか」
奏は小さく呟いて、自分でも意味が分からなくなった。分からないまま、線を引く。線を引けば、明日が来る。



