撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 翌日、僕はちゃんと朝ごはんを食べた。
 別に神崎に言われたからじゃない。副委員長としての自己管理。そう、自己管理……なのに、スマホを見るとすぐに通知が来ている。

【神崎:朝飯】
【神崎:要報告】

(第七条は“誘われたら報告”だろ! いつの間に朝飯まで管轄に入った!?)

 僕は箸を持ったまま、最小限の返事をした。

【伊吹:食べた】
【伊吹:白米と味噌汁】

 既読。

【神崎:よし】

(努力してないじゃん!)

 反射で「よし禁止」と打ちかけて、やめた。朝から喧嘩する元気はない……いや、元気はあるけど、心臓がうるさくなるのがなんだか嫌だった。



 昼。広報最終ミーティング。
 印刷室はいつもより人が多かった。広報班のメンバーに加えて、委員長、ステージ班、警備班、案内係っぽい人までいる。机の上はプリントと付箋でカオス状態だ。
 僕は副委員長として、全体の進行を回し始めた。

「えっと、当日の導線確認からいきます。ポスター掲示はこのルートで――」
「伊吹、こっち」

 神崎がさりげなく僕の前にメモを滑らせる。箇条書きのチェックリストだった。抜けがない。腹立つくらい助かる。
 会議は順調に進んで……進んでいた、はずだった。
 突然ブブッとスマホが鳴って、画面を確認したステージ班の先輩がさっと顔色を変えた。

「……ごめん。出演者側から今連絡が来た。開始時間、十五分押しで確定だって」

 その場の空気が一瞬で凍りついた。

「えっ」

 委員長が目を見開く。

「待って、昨日訂正出したばっかじゃん!?」

 警備班も焦った様子で続ける。

「導線の誘導も変わるね。人の流れが……」

 広報班の一年生が青ざめた。

「掲示の時間、また直すんですか……?」

 僕は無意識にひゅっと息を飲んでいた。昨日の“時間ズレ”がさっと頭をよぎる。

(また? また訂正?)

 委員長が焦って、矢継ぎ早にまくしたてた。

「SNSどうする!? 固定投稿また差し替え? ストーリーは? 当日アナウンスは!?」

 質問が一気に飛んできて、僕の頭の中で言葉がこんがらがって絡み合った。

(落ち着け。副委員長は常に冷静沈着。冷静沈着で……)

 僕はなんとか深呼吸して口を開いた。

「大丈夫です。今すぐ整理します。えっと、まず――」
「大丈夫じゃない」

 低くて、はっきりとした神崎の声が、印刷室に落ちるように響いた。
 みんな一斉に神崎の方を振り返った。
 神崎は僕じゃなく、会議全体に向けて言った。

「整理は伊吹がやって、作業は分担する。時間が押したなら、広報は“訂正”じゃなく“追加告知”にする。固定は変えないで、ストーリーと当日掲示で対応」

 神崎は素早く言い切ってから、委員長に視線を投げた。

「委員長。全体アナウンス文、今ここで決めましょう。警備班はすぐに導線修正。ステージ班は確定タイムテーブルを紙で出して下さい」

 神崎、いつの間に司令塔になった?
 委員長が「……うん、そうしよう!」と頷く。
 会議の空気が一気に元の活気を取り戻し、みんなが素早く動き出した。僕の胸だけが、まだざわざわしたまま落ち着きを取り戻せずにいた。

(神崎が、助けてくれた)

 でも同時に、ひどく恥ずかしかった。

(僕が副委員長なのに、固まって……)

 僕は無理やり声を出して進行を回した。

「じゃあ、広報は追加告知文を作ります。僕が文案作って――」
「伊吹、文案は俺」

 神崎がすかさず被せてきた。

「え?」
「伊吹は全体まとめ。それが副委員長の仕事」

 僕は言い返したかった。できるって言いたかった。
 でも、言葉が喉の奥に引っかかって出てこなかった。
 神崎が僕の顔を見て、声を落として言った。

「……今、顔が白い」
「白くないよ」
「白い」
「神崎、会議中――」
「会議中だから言う」

 神崎の目が、いつもと違った。
 ふざけてない目。
 撤収班の目じゃなかった。



 会議が終わって、みんながそれぞれの作業のために散っていく。印刷室に残ったのは、僕と神崎の二人だけ。
 さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだ。
 僕は椅子に座ったままため息をついた。

「……ごめん」

 無意識に声が小さくなる。

「何が」
「僕、さっき固まってた。副委員長なのに」

 神崎は机の上の付箋を片づけながら、淡々と言った。

「副委員長だから固まるんだ」
「え?」
「責任があるから」

 神崎は僕を見ないまま続ける。

「伊吹、別に完璧じゃなくていい」

 不覚にも、僕の喉の奥がぐっと熱くなる。

「でも、もしミスしたら――」
「ミスしたら直す」

 神崎の言葉は驚くほどシンプルだ。

「昨日も直したし、今日も直せる。伊吹が倒れる方が、よっぽど困る」

 また“困る”だ。
 僕はおずおずと神崎を見上げた。

「……それ、撤収班の仕事?」

 神崎が、珍しく言葉を選ぶように少し考える素振りを見せた。

「撤収班じゃない」
「じゃあ何」

 神崎は、僕の方にちゃんと体を向けて、ゆっくりと言った。

「……好きな人が、苦しそうなのを見るのは嫌だ」

 心臓が、ぎゅうっと掴まれるような心地がした。
 神崎は続ける。

「伊吹が頑張るのはいい。でも“頑張り方”は選べ」
「頑張り方……」
「全部一人で背負うな。人に頼れ」

 正論だった。優しさの正論は、心にきちんと刺さる。
 僕はごまかすように小さく笑った。

「神崎、説教みたい」
「説教じゃない」
「じゃあ何」

 神崎が、真剣な表情のままで小さく眉を下げた。

「……お願い」

 まただ。
 昨日、僕が言わせた“お願い”。
 今日は、神崎が自分から言った。

「お願いだから、倒れないで」

 僕は、もう反論することができなかった。

「……うん」

 返事をした瞬間、こわばっていた神崎の肩が少しだけ緩んだ。まるで安心したみたいに。
 そのさりげない仕草が、ずるい。
 僕は小さい声で言った。

「……神崎」
「ん」
「さっき、みんなの前で僕のこと止めたでしょ」
「止めた」
「恥ずかしかった」

 神崎が珍しく、申し訳なさそうな表情を見せた。今日は珍しい神崎をやたらと見た気がする。

「ごめん」
「でも……」

 僕は軽く息を吸ってから、思い切って続けた。

「……助かった」

 神崎の目が、一瞬だけ大きく見開かれる。

「今、何て?」
「聞こえてるでしょ!」
「もう一回」
「調子乗るな!」

 僕が言うと、神崎が笑った。最近気がついたけど、こういうときの神崎の笑みは普段よりずっと柔らかく見える。

「……じゃあ」

 神崎がポケットから飴を取り出した。

「はい」
「また飴」
「糖分。脳に」
「僕、子ども扱いされてる」
「子どもじゃない」
「じゃあ何」

 神崎は飴を僕の手に押し付けて、目を逸らしながら言った。

「……大事な人」

 心臓が、ドキドキとうるさい。
 くしゃっと握りしめた手の中の飴の袋が、やけに温かく感じる。
 神崎がコホンと咳払いして、いつもの調子に戻そうとした。

「撤収班ルール――」
「やめて!」

 僕が叫ぶと、神崎が小さく笑った。

「……わかった」

 わかった、って言うだけで、なんでこんなに胸が高鳴るんだろう。
 
 学祭当日まで、あと数日。
 トラブルはきっとまた起きる。
 そして、今の神崎の顔を見てしまった僕は――もう、今までの僕には戻れない気がした。