翌日、僕は講義中ずっとノートを取っているフリをして、頭の中で同じ言葉を反芻していた。
――無理してるやつが、ちゃんと笑った時。
(それ、好きになる瞬間の答えとして、ずるくない?)
しかも“俺は”って言った。主語がデカい。なんで僕にそんなこと言うの?
僕が必死に平常心を取り戻そうとしていると、スマホが震えた。
【神崎:今日、広報班 17:30 印刷室前】
【神崎:ポスター貼りの許可、取りに行く】
【神崎:伊吹は授業終わったら水】
(最後だけ生活指導……)
返信しないと迎えに来るので、僕は最小限の単語で返事をした。
【伊吹:了解】
【伊吹:水も了解っておかしくない?】
すぐに既読がつく。
【神崎:よし】
(ああもう!)
◇
17:30。印刷室前。
神崎は今日も先にいた。しかも、紙の束とガムテと養生テープをすでに持っている。準備の妖怪かよ。
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔?」
「考え事してる顔」
「してない」
「してる」
こいつ、僕の顔の一体何を見てるんだ。
「……何考えてたの」
「考えてないってば」
「言え」
「命令形やめて!」
神崎は少しだけ笑って、「じゃあ当てる」と言った。
「昨日の話」
心臓が変な跳ね方をした。
「……昨日の話って何」
「恋愛相談」
「っ……!」
僕は思わず目を白黒させて、どもりながら否定した。
「な、なにそれ、違うし。あれは、ただの雑談!」
「雑談にしては真剣だった」
「真剣じゃない!」
「真剣」
神崎はそう断言してから、淡々と紙束を僕に渡してきた。
「はい。ポスター貼りに行くから。副委員長は先導して」
「先導って、僕が?」
「伊吹は道覚える係」
「なにその係!」
僕が文句を言いながら歩き出すと、神崎は当然のように隣に並んだ。相変わらず歩幅がぴったり合うのが悔しい。
◇
掲示の許可を取って、指定の掲示板を回り、ポスターを一枚一枚貼っていく。
神崎は「ここは端から」「貼る位置は目線の高さ」とか、変にプロっぽい。僕は僕で「この掲示板、学生課の目の前だから剥がされやすいかも」とか、真面目に考えてしまう。
(うんうん。なんだかんだで、僕も副委員長として様になってきてるじゃないか)
最後の掲示板にポスターを貼り終えたところで、背後から明るい声がした。
「あっ、伊吹先輩!」
昨日の一年生の女の子だ。手にスマホを持って、はにかんでいる。
「この前のポスター、友達にもめっちゃ好評でした! あの、えっと……」
僕が「ありがとう」と言おうとした瞬間、神崎が一歩前に出た。
「何か用?」
声が低い。丁寧なんだけど、なぜか壁みたいな威圧感がある。
女の子が一瞬だけ固まって、それでも笑って話を続けた。
「えっと、広報のことじゃなくて……伊吹先輩に、ちょっと聞きたいことがあって」
僕に、聞きたいこと?
神崎の視線が、静かに僕に刺さる。
(え、なにこの空気)
女の子がもじもじしながら、おもむろにスマホを差し出してきた。
「先輩って、……恋人とか、いますか?」
世界が、一瞬止まった。
「い、いません!」
反射的にそう答えると、女の子がぱっと顔を明るくした。
「よかった! あの、じゃあ、よかったら――」
「今は難しいと思う」
すかさず神崎が被せてきた。
「え?」
女の子が目を丸くする。僕も丸くする。
「……神崎?」
神崎は女の子に向かって、淡々とした口調で言った。
「伊吹は今忙しいから。学祭実行委員の副委員長もやってるし」
女の子が困ったように笑う。
「で、でも、少しだけ……」
「少しだけ、が意外と長くなるから」
僕は慌てて間に入った。
「ごめんね! 今ほんとにバタバタで……! 学祭終わったら、ね?」
女の子は「はい……!」と頷いて、小走りで去っていった。
その場に残ったのは、僕と神崎と、謎の静けさだけだった。
「……神崎、今の何」
「何が」
「『今は難しいと思う』って何!?」
「今は難しいと思う」
「繰り返すな!」
神崎はポスターを入れていた袋を持ち直して、僕からすっと視線を逸らした。
「副委員長が変な予定を入れると困るから」
「変な予定って失礼!」
「変」
「失礼だってば!」
僕が怒っていると、神崎がぼそっと言った。
「……昨日も“三木とか”って言ってたし」
「え?」
「伊吹って、誘われやすいから」
それだけ言って、神崎はさっさと印刷室に向かって歩き出した。
僕は追いかけながら、困惑した表情で神崎の背中を見つめていた。
(誘われやすい、って何……それ、心配? それとも……)
◇
印刷室に戻る途中、僕は唐突に決心した。
(よし、聞こう。恋愛相談をしてやる!)
神崎があんな答え方をしてきたせいで、僕の中の変なスイッチが押されてしまった。押したのは神崎であって、僕は悪くない。
(だって、僕が誘われやすいとか、女の子との予定を変な予定とか言って……どういうつもりか気になるだろ)
「ねえ神崎」
「ん」
「恋愛相談、乗ってよ」
神崎の足がピタリと止まった。
「……何」
「だから、恋愛相談」
「誰の」
「僕の」
神崎の目が、ゆっくりと細くなる。
「……伊吹の?」
「そう。僕の」
「……相手は」
「え、そこ聞く?」
「聞く」
いきなり相談のハードルを爆上げされてしまった。
僕は気まずくなって視線を神崎から逸らしながら、誤魔化すようにボソリと言った。
「……わかんない」
「わかんない?」
「好きかどうかも、よくわかんないし」
「……」
神崎が黙る。黙ると怖い。無表情が怖い。沈黙が耐え難い。
僕は早口で続けた。
「ほら、好きって何? ってよく言うじゃん。好きになる瞬間も人それぞれだし、僕はそういうの鈍いし……」
「鈍い」
「うるさい!」
「鈍いの自覚あるなら、相談の前に一個だけ答えろ」
「なに」
神崎が、まっすぐ僕を見る。
「相手は、男?」
僕は一瞬言葉に詰まった。
(それは……)
そもそも、僕はなんで神崎に恋愛相談なんかしようとしたんだっけ?
(……そうだ。こいつの反応が見たかったからだ)
それを見たら、ここ数日の心のモヤモヤがもしかしたら晴れるんじゃないかと思ったから。
「……男、だよ」
「ふうん」
神崎がそれだけ言って、また歩き出す。
僕は追いかけながら言葉を続けた。
「で、相談なんだけど――」
「今はダメ」
「なんで!?」
「場所が悪い」
「場所?」
「ここ廊下だし、人もいるから」
「確かにいるけど!」
そこで神崎は、少しだけ声を落とした。
「……伊吹の話、聞かれたくない」
胸が、またドクンと変な音を立てた。
(聞かれたくないって……それって、優しさ?)
神崎が続ける。
「印刷室で聞くよ。誰もいなくなってから」
「……了解」
「よし」
「よしって言うな!」
◇
夜。印刷室。
最後の作業を終えて、先輩や後輩たちが次々と帰って行き、最終的に机の上には紙とペンと僕ら二人の静けさだけが残った。
神崎がゆっくりとした動作で椅子を引いて、僕の向かいにドサリと腰掛けた。
「で」
短い。
「恋愛相談」
短いってば!
僕は深呼吸して、なるべく真面目に言った。
「……僕、最近、変なんだよね」
「知ってる」
「知ってるの!?」
「さっきから落ち着きないし」
「それは神崎のせい!」
「俺?」
「俺だよ」
「俺がイケメンすぎるから?」
「自分で言うな!」
神崎が、ほんの少しだけ笑った。
僕はその笑顔に勢いをもらって、さらに言葉を続ける。
「なんかさ、嫌いなはずの人に、ムカつくのに、安心する時があって」
「うん」
「で、優しくされると腹立つのに、嫌じゃなくて……」
「うん」
「それって、好き?」
聞いた瞬間、自分の心臓がうるさすぎて、僕は思わず耳を塞ぎたくなった。
神崎は答えない。
代わりに、テーブルの上のペンを指で転がして、ぽつりと言った。
「……それ、誰」
「誰って?」
「伊吹がそう思う相手」
僕は思わず視線を泳がせた。
(言えるわけないじゃん。今、目の前にいるのに)
印刷室に、少しの間気まずい沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、神崎の方だった。
「伊吹」
「なに」
「撤収班ルール第六条」
「また!?」
神崎が、珍しく少しだけムッとした顔で新しい条項を口にした。
「恋愛相談するなら、相手の名前は伏せない」
「そんなルール聞いてない!」
「今作った」
「今作るなってば!」
僕が文句を言うと、神崎はため息をついて、でも思いの外優しい声で続けた。
「……当ててもいい?」
「え?」
「伊吹が好きかもって思ってる相手」
神崎が、その先をさらに淡々と続ける。
「三木」
「違う!」
「一年生」
「違うってば!」
「じゃあ――」
神崎が一瞬間を置いて、僕の目をじっと見つめた。
「俺?」
頭の中が真っ白になった。
「ち、ちが……っ」
すかさず否定しようとしたのに、うっかり喉の奥に言葉を引っかけてしまった。
神崎は、慌てた様子の僕を見てすっと目を細めた。
「……否定するの、遅いな」
「遅くない!」
「遅い」
「うるさい!」
僕は思わず机に突っ伏したくなった。恥ずかしすぎる。
神崎が、少しだけこちらに身を乗り出して、低い声で言った。
「伊吹」
「なに……」
「好きかどうか、今決めなくていいよ」
……え。
そう言った後、神崎はいつもの飄々とした調子に戻って言葉を続けた。
「ただ、撤収班ルール第七条」
「まだ増えるの!?」
「伊吹が誰かに誘われたら、俺に報告すること」
「なにそれ!」
「副委員長が変なタイミングで倒れたら困るから、安全管理のために」
「安全管理って何!?」
「必要なことなので」
「必要じゃない!」
神崎は真顔で言い切った。
「必要」
言い切った後、神崎の声がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……俺が、困るから」
その一言で、僕の反論は全部明後日の方向へ飛んでいってしまった。
僕は顔を上げて、神崎と正面から向き合った。
神崎はいつもの涼しい顔をしているのに、耳だけが少し赤い。
(ずるい……)
「……わかったよ。報告すればいいんでしょ?」
「よし」
「それ言うなって!」
僕が反射的にそう言うと、神崎がふっとおかしそうに笑った。
その笑いが、昨日よりさらに近くに感じられて、今日の僕はもう逃げ道を見つけられなかった。
学祭当日まで、あと二週間ちょっと。
撤収班ルールは増殖中で、内容もちょっと暴走中。
でも、なぜだかそれをちょっと嬉しく思ってしまう自分がいた。
――無理してるやつが、ちゃんと笑った時。
(それ、好きになる瞬間の答えとして、ずるくない?)
しかも“俺は”って言った。主語がデカい。なんで僕にそんなこと言うの?
僕が必死に平常心を取り戻そうとしていると、スマホが震えた。
【神崎:今日、広報班 17:30 印刷室前】
【神崎:ポスター貼りの許可、取りに行く】
【神崎:伊吹は授業終わったら水】
(最後だけ生活指導……)
返信しないと迎えに来るので、僕は最小限の単語で返事をした。
【伊吹:了解】
【伊吹:水も了解っておかしくない?】
すぐに既読がつく。
【神崎:よし】
(ああもう!)
◇
17:30。印刷室前。
神崎は今日も先にいた。しかも、紙の束とガムテと養生テープをすでに持っている。準備の妖怪かよ。
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔?」
「考え事してる顔」
「してない」
「してる」
こいつ、僕の顔の一体何を見てるんだ。
「……何考えてたの」
「考えてないってば」
「言え」
「命令形やめて!」
神崎は少しだけ笑って、「じゃあ当てる」と言った。
「昨日の話」
心臓が変な跳ね方をした。
「……昨日の話って何」
「恋愛相談」
「っ……!」
僕は思わず目を白黒させて、どもりながら否定した。
「な、なにそれ、違うし。あれは、ただの雑談!」
「雑談にしては真剣だった」
「真剣じゃない!」
「真剣」
神崎はそう断言してから、淡々と紙束を僕に渡してきた。
「はい。ポスター貼りに行くから。副委員長は先導して」
「先導って、僕が?」
「伊吹は道覚える係」
「なにその係!」
僕が文句を言いながら歩き出すと、神崎は当然のように隣に並んだ。相変わらず歩幅がぴったり合うのが悔しい。
◇
掲示の許可を取って、指定の掲示板を回り、ポスターを一枚一枚貼っていく。
神崎は「ここは端から」「貼る位置は目線の高さ」とか、変にプロっぽい。僕は僕で「この掲示板、学生課の目の前だから剥がされやすいかも」とか、真面目に考えてしまう。
(うんうん。なんだかんだで、僕も副委員長として様になってきてるじゃないか)
最後の掲示板にポスターを貼り終えたところで、背後から明るい声がした。
「あっ、伊吹先輩!」
昨日の一年生の女の子だ。手にスマホを持って、はにかんでいる。
「この前のポスター、友達にもめっちゃ好評でした! あの、えっと……」
僕が「ありがとう」と言おうとした瞬間、神崎が一歩前に出た。
「何か用?」
声が低い。丁寧なんだけど、なぜか壁みたいな威圧感がある。
女の子が一瞬だけ固まって、それでも笑って話を続けた。
「えっと、広報のことじゃなくて……伊吹先輩に、ちょっと聞きたいことがあって」
僕に、聞きたいこと?
神崎の視線が、静かに僕に刺さる。
(え、なにこの空気)
女の子がもじもじしながら、おもむろにスマホを差し出してきた。
「先輩って、……恋人とか、いますか?」
世界が、一瞬止まった。
「い、いません!」
反射的にそう答えると、女の子がぱっと顔を明るくした。
「よかった! あの、じゃあ、よかったら――」
「今は難しいと思う」
すかさず神崎が被せてきた。
「え?」
女の子が目を丸くする。僕も丸くする。
「……神崎?」
神崎は女の子に向かって、淡々とした口調で言った。
「伊吹は今忙しいから。学祭実行委員の副委員長もやってるし」
女の子が困ったように笑う。
「で、でも、少しだけ……」
「少しだけ、が意外と長くなるから」
僕は慌てて間に入った。
「ごめんね! 今ほんとにバタバタで……! 学祭終わったら、ね?」
女の子は「はい……!」と頷いて、小走りで去っていった。
その場に残ったのは、僕と神崎と、謎の静けさだけだった。
「……神崎、今の何」
「何が」
「『今は難しいと思う』って何!?」
「今は難しいと思う」
「繰り返すな!」
神崎はポスターを入れていた袋を持ち直して、僕からすっと視線を逸らした。
「副委員長が変な予定を入れると困るから」
「変な予定って失礼!」
「変」
「失礼だってば!」
僕が怒っていると、神崎がぼそっと言った。
「……昨日も“三木とか”って言ってたし」
「え?」
「伊吹って、誘われやすいから」
それだけ言って、神崎はさっさと印刷室に向かって歩き出した。
僕は追いかけながら、困惑した表情で神崎の背中を見つめていた。
(誘われやすい、って何……それ、心配? それとも……)
◇
印刷室に戻る途中、僕は唐突に決心した。
(よし、聞こう。恋愛相談をしてやる!)
神崎があんな答え方をしてきたせいで、僕の中の変なスイッチが押されてしまった。押したのは神崎であって、僕は悪くない。
(だって、僕が誘われやすいとか、女の子との予定を変な予定とか言って……どういうつもりか気になるだろ)
「ねえ神崎」
「ん」
「恋愛相談、乗ってよ」
神崎の足がピタリと止まった。
「……何」
「だから、恋愛相談」
「誰の」
「僕の」
神崎の目が、ゆっくりと細くなる。
「……伊吹の?」
「そう。僕の」
「……相手は」
「え、そこ聞く?」
「聞く」
いきなり相談のハードルを爆上げされてしまった。
僕は気まずくなって視線を神崎から逸らしながら、誤魔化すようにボソリと言った。
「……わかんない」
「わかんない?」
「好きかどうかも、よくわかんないし」
「……」
神崎が黙る。黙ると怖い。無表情が怖い。沈黙が耐え難い。
僕は早口で続けた。
「ほら、好きって何? ってよく言うじゃん。好きになる瞬間も人それぞれだし、僕はそういうの鈍いし……」
「鈍い」
「うるさい!」
「鈍いの自覚あるなら、相談の前に一個だけ答えろ」
「なに」
神崎が、まっすぐ僕を見る。
「相手は、男?」
僕は一瞬言葉に詰まった。
(それは……)
そもそも、僕はなんで神崎に恋愛相談なんかしようとしたんだっけ?
(……そうだ。こいつの反応が見たかったからだ)
それを見たら、ここ数日の心のモヤモヤがもしかしたら晴れるんじゃないかと思ったから。
「……男、だよ」
「ふうん」
神崎がそれだけ言って、また歩き出す。
僕は追いかけながら言葉を続けた。
「で、相談なんだけど――」
「今はダメ」
「なんで!?」
「場所が悪い」
「場所?」
「ここ廊下だし、人もいるから」
「確かにいるけど!」
そこで神崎は、少しだけ声を落とした。
「……伊吹の話、聞かれたくない」
胸が、またドクンと変な音を立てた。
(聞かれたくないって……それって、優しさ?)
神崎が続ける。
「印刷室で聞くよ。誰もいなくなってから」
「……了解」
「よし」
「よしって言うな!」
◇
夜。印刷室。
最後の作業を終えて、先輩や後輩たちが次々と帰って行き、最終的に机の上には紙とペンと僕ら二人の静けさだけが残った。
神崎がゆっくりとした動作で椅子を引いて、僕の向かいにドサリと腰掛けた。
「で」
短い。
「恋愛相談」
短いってば!
僕は深呼吸して、なるべく真面目に言った。
「……僕、最近、変なんだよね」
「知ってる」
「知ってるの!?」
「さっきから落ち着きないし」
「それは神崎のせい!」
「俺?」
「俺だよ」
「俺がイケメンすぎるから?」
「自分で言うな!」
神崎が、ほんの少しだけ笑った。
僕はその笑顔に勢いをもらって、さらに言葉を続ける。
「なんかさ、嫌いなはずの人に、ムカつくのに、安心する時があって」
「うん」
「で、優しくされると腹立つのに、嫌じゃなくて……」
「うん」
「それって、好き?」
聞いた瞬間、自分の心臓がうるさすぎて、僕は思わず耳を塞ぎたくなった。
神崎は答えない。
代わりに、テーブルの上のペンを指で転がして、ぽつりと言った。
「……それ、誰」
「誰って?」
「伊吹がそう思う相手」
僕は思わず視線を泳がせた。
(言えるわけないじゃん。今、目の前にいるのに)
印刷室に、少しの間気まずい沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、神崎の方だった。
「伊吹」
「なに」
「撤収班ルール第六条」
「また!?」
神崎が、珍しく少しだけムッとした顔で新しい条項を口にした。
「恋愛相談するなら、相手の名前は伏せない」
「そんなルール聞いてない!」
「今作った」
「今作るなってば!」
僕が文句を言うと、神崎はため息をついて、でも思いの外優しい声で続けた。
「……当ててもいい?」
「え?」
「伊吹が好きかもって思ってる相手」
神崎が、その先をさらに淡々と続ける。
「三木」
「違う!」
「一年生」
「違うってば!」
「じゃあ――」
神崎が一瞬間を置いて、僕の目をじっと見つめた。
「俺?」
頭の中が真っ白になった。
「ち、ちが……っ」
すかさず否定しようとしたのに、うっかり喉の奥に言葉を引っかけてしまった。
神崎は、慌てた様子の僕を見てすっと目を細めた。
「……否定するの、遅いな」
「遅くない!」
「遅い」
「うるさい!」
僕は思わず机に突っ伏したくなった。恥ずかしすぎる。
神崎が、少しだけこちらに身を乗り出して、低い声で言った。
「伊吹」
「なに……」
「好きかどうか、今決めなくていいよ」
……え。
そう言った後、神崎はいつもの飄々とした調子に戻って言葉を続けた。
「ただ、撤収班ルール第七条」
「まだ増えるの!?」
「伊吹が誰かに誘われたら、俺に報告すること」
「なにそれ!」
「副委員長が変なタイミングで倒れたら困るから、安全管理のために」
「安全管理って何!?」
「必要なことなので」
「必要じゃない!」
神崎は真顔で言い切った。
「必要」
言い切った後、神崎の声がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……俺が、困るから」
その一言で、僕の反論は全部明後日の方向へ飛んでいってしまった。
僕は顔を上げて、神崎と正面から向き合った。
神崎はいつもの涼しい顔をしているのに、耳だけが少し赤い。
(ずるい……)
「……わかったよ。報告すればいいんでしょ?」
「よし」
「それ言うなって!」
僕が反射的にそう言うと、神崎がふっとおかしそうに笑った。
その笑いが、昨日よりさらに近くに感じられて、今日の僕はもう逃げ道を見つけられなかった。
学祭当日まで、あと二週間ちょっと。
撤収班ルールは増殖中で、内容もちょっと暴走中。
でも、なぜだかそれをちょっと嬉しく思ってしまう自分がいた。



