撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 期末レポの提出ボタンを押した瞬間。
 画面に出た「提出完了」の文字が、今までの人生で一番眩しく感じられた。
 ちょっと大袈裟だけど、体感はそれくらい。

「……終わった」

 僕は椅子の背にもたれながら、魂を吐き出すように大きく息を吐いた。
 図書館のPC室。周りもみんな同じ顔をしてる。
 期末って、大学生全員をゾンビにする。
 隣の神崎が、淡々と画面を確認しながら言った。

「提出、確認」
「確認した! 何回も確認した!」
「偉い」
「犬みたいに褒めるな!」
「じゃあ訂正」

 神崎が一呼吸置いて、真面目な顔で言った。

「……よく頑張った」

 それだけで、胸がじんとした。

「……神崎もね。弟さんのこともあったのに」
「俺は普通」
「普通じゃない。絶対寝てない日あった」
「少し」
「ほら」

 神崎が小さく笑う。

「伊吹が止めたから、帰れた」

 ……あの日の出来事がよぎって、胸がきゅっとなる。

「僕、彼氏っぽいことした?」

 僕が冗談のつもりで言うと、神崎は真顔で頷いた。

「した」
「え」
「すごく、した」

 言い方が重い。顔がじわっと熱くなる。

「今言う!?」
「今言う」
「図書館!」
「小声」
「そういう問題じゃない!」

 神崎が声を立てないように笑った。



 外に出ると、夕方の空が薄いオレンジ色に染まっている。
 期末試験期間が終わったキャンパスは、少しだけ穏やかで、空気が軽い。
 背負っているリュックも、心なしかいつもより軽く感じる。

「……解放された」
「解放」
「もうレポって単語見たくない」
「見ない」
「見ないで済む?」
「たぶん」
「“たぶん”じゃ嫌だ! 絶対って言って!」

 神崎が小さく笑う。
 駅前へと向かう道すがら、僕はふと、本屋の棚の影で言った「蓮、彼氏」を思い出した。

(あのときは、二人だけの小声だった)

 今、周りには人がいる。
 でも、もう以前みたいに“逃げたい”だけじゃなかった。
 神崎が急に足を止めた。

「伊吹」
「なに」
「……期末終わったから、約束したい」

 学祭の時の言葉みたいで、胸がドキンと跳ねる。

「約束って?」

 神崎が少しだけ視線を逸らす。

「……何もしない時間、一緒に過ごしたい」
「何もしない?」
「何もしない」

(何もしない、か……)

 疲れてる証拠かも。

「いいね、それ。カフェでぼーっとするとか」
「うん」
「じゃあ、今から行こ」

 僕が言った瞬間、後ろから声が飛んできた。

「伊吹くん! 神崎くん!」

 振り向くと、例の女子――線引きのとき、質問してきた子がいた。

「あの、この前はごめんね。聞きすぎた」
「いえ、大丈夫です」

 僕が答えると、彼女は少し笑ってから続けた。

「でも、言いたかった。レポお疲れさま。二人とも、ほんと頑張ってた」

 意外に普通。優しい。

「ありがとうございます」

 僕が頭を下げると、彼女がふいに言った。

「……そういえば、今日も一緒なんだね」

 軽い言い方。けど、どこか気になってるような顔。
 ここで曖昧にしたら、またややこしくなる。
 でも、神崎が答える前に――
 僕の口が動いた。

「うん。一緒」

 そして、軽く息を吸って、もう一言。

「……彼氏だから」

 言えた。
 声は小さかったけど、外で言えた。
 逃げずに言えた。
 彼女が一瞬目を丸くして、それから笑った。

「そっか。じゃ、邪魔しない。お幸せにね」
「……はい」

 彼女は軽く手を振って去っていった。
 僕は心臓の音がうるさすぎて、神崎を見られなかった。

(言った。僕、言った……!)

 神崎の方から、静かな声が聞こえてくる。

「……悠真」
「な、なに」
「今の」
「……今のは、勢い!」
「違う」

 神崎が一拍置いて、言葉を口にした。

「……嬉しい」

 そして、我慢できなかったみたいに。

「よし」

 言った。
 封印、崩壊。

「言ったーー!!」

 僕が叫ぶと、神崎が珍しく笑った。声を立ててはいないけど、肩が揺れるくらい笑ってる。

「努力は!?」
「努力した」
「結果がこれ!」
「……今は、言いたい」

 その言い方が、ずるい。
 僕は照れて、わざと乱暴に言う。

「……うるさい」
「うるさくない」
「うるさいよ」

 神崎が僕の方に少しだけ近づいて、小声で言った。

「……ありがとう。彼氏」

 胸がぎゅっとなる。

「……どういたしまして、彼氏」

 言い返した瞬間、神崎が固まった。

「……」
「なに、その顔」
「……死んだ」
「死ぬな!」
「嬉しくて死んだ」
「生きて!」

 神崎が小さく笑って、僕の袖をそっと掴んだ。

「行こう」
「うん」

 僕は同じように神崎の袖を掴んだ。
 手は繋いでない。
 でも、胸の距離は見た目よりずっと近かった。



 カフェに入って、二人で窓際のカウンター席に並んで座る。

 僕は甘いラテ。神崎はブラック。いつも通りのチョイス。
 でも今日は、カップを持つ手が以前みたいに震えない。
 僕はぽつりと言った。

「……僕、変わったね」
「変わった」
「前は、曖昧にして逃げてた」
「平気な顔もしてた」
「今は、言える」
「言えた」

 神崎が短く言って、でも最後だけ少し柔らかい声で付け足した。

「……俺が、嬉しい」

 僕は笑って、言葉を続けた。

「神崎の“よし”が増えるのは困るけどね」
「増やさない」
「努力する?」
「努力する」
「よし禁止」
「……努力する」

 神崎は一瞬言葉に詰まってから、珍しく自分の言葉で笑った。
 僕も笑った。

 学祭の撤収班から始まった、訳のわからない関係。
 噂に振り回されて、線引きを作って、嫉妬して、支え合って。
 そして今日、僕は外でも言えた。

――彼氏、って。

 それだけで、世界が少しだけ明るい。
 神崎が小声で言う。

「悠真」
「なに」
「……好き」
「今言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」

 神崎が笑って、僕の方を見た。

「これからも、撤収班じゃない時間、作る」

 僕はカップを持って頷いた。

「うん。作ろう」

 神崎が一拍置いて、最後に言う。

「……よし」
「だから言うなーー!!」

 僕のツッコミに、神崎がまた笑った。
 その笑いが、これから先の毎日にも続くんだと思えた。
 だから、きっと大丈夫。
 僕らは、僕らのペースで。

 終わり。