翌日。
図書館に行く途中、僕は神崎の歩幅がいつもより微妙に遅いことに気づいた。
遅いというか、迷いがある。
神崎は基本、迷わない。撤収班だし、護衛だし、生活指導だし。
(……今日の神崎、変)
「神崎」
「ん」
「……眠い?」
「眠くない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だ」
僕が言うと、神崎は少し黙ってから、ようやく認めた。
「……少し」
認めたのが意外で、僕は思わずその場で立ち止まった。
「え、どうしたの。寝てない?」
「寝た」
「じゃあ何」
神崎は視線を逸らしながら言った。
「家」
たったそれだけ。
(“家”って言い方、いつもより苦い。どうしたんだろ)
神崎は、自分のことをあまり話さない。
僕のことは“顔”で何でも見抜くのに、自分のことについては言葉を減らす。
僕は焦って追及しないように、なるべく軽いノリで聞いた。
「家で何かあった?」
「……少し」
神崎の返事が、いつもよりずっと大人しい。
それが逆に不安になる。
◇
図書館にて。
僕のレポは昨日の“分解表”のおかげで順調だった。
なのに今日は、神崎が全然こちらを見ない。
いつもなら、僕の水の減り具合まで監視するのに。
神崎はずっとスマホを机に寝かせて、指先だけで画面を触っている。
(誰かと連絡?)
胸がざわっとしかけて、僕は慌てて“独占欲”をしまった。
(嫉妬じゃない。心配。今日は神崎の心配)
神崎がふいにスマホを見て、眉をほんの少し寄せた。
その表情が、チクリと胸に刺さった。
「……神崎」
「ん」
「何かあったなら、言って」
神崎はしばらく黙っていた。
沈黙が長い。珍しい。
それからやっと、神崎が小さい声で言った。
「母親から連絡」
「……お母さん?」
「うん」
神崎の声が低い。
「弟が、熱で」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫。たぶん」
たぶん、って神崎が言うのが怖い。
「看病とか?」
「父親は仕事で遅い。母親は夜勤で、昼間は寝ないといけない」
神崎が短く言って、言葉を切る。
(……家庭の事情)
僕は、胸がきゅっとなった。
「神崎、じゃあ今日……」
「帰らない」
即答。語調が強い。
神崎の指が、スマホの端をきゅっと押した。
「え?」
「レポ、手伝うって言った」
神崎が僕を見る。撤収班の目だ。
責任感の目。
僕の胸がざわっとする。
「……僕のレポより、家でしょ」
「家は俺が行っても変わらない」
「変わるよ!」
僕の声が強くなり、周りにちらっとこちらを見られて、僕は慌てて声を落とした。
「……変わる。弟さん、熱なんでしょ」
神崎は一拍置いて、低い声で言った。
「……昨日、伊吹のこと放っておけないって言っただろ」
胸がぎゅっとなる。
(確かに、放っておいては言いすぎたって、僕も言ったけど……)
でも、神崎が無理してる。
僕は静かに言った。
「……放っておかないのは、僕がする」
「え」
「神崎、帰って。弟さんのところへ」
神崎が瞬きをする。
僕が“止める側”に回ったの、初めてかもしれない。
「……伊吹」
「なに」
「無理してる?」
「してない」
「嘘」
僕は言葉を言い直した。
「無理はしてないけど、めちゃくちゃ心配してる」
言い切ったら、少しだけ楽になった。
「神崎が“平気な顔”してるの、僕も嫌」
神崎の目が揺れる。
「……伊吹」
神崎が何か言いかけて、止める。
僕はすかさず畳みかけた。
「レポは大丈夫。分解表あるし。今日やるのは結論だけだし」
「……結論、難しいだろ」
「難しいけど、できる」
僕は神崎の真似をして、短く言った。
「終わらない」
神崎が、ほんの少し口元を緩めた。
「……真似した」
「真似した」
「可愛い」
「言うな!」
僕が小声で怒ると、神崎が少しだけ息を吐いて、やっと頷いた。
「……帰る」
その一言が、重い。
決断が重い。
僕は立ち上がって、神崎の荷物をまとめた。
「送っていく」
「いらない」
「いる」
「命令形」
「……お願い。送らせて」
言い直した。僕が。
神崎が一瞬固まって、それから小さく頷いた。
「……うん」
◇
駅までの道。
神崎はいつもより黙っていた。
僕はその沈黙が怖くて、でも怖いからこそ、軽い言葉を探した。
「弟さん、何歳?」
「小学生」
「可愛いね」
「うん」
「神崎、お兄ちゃんなんだ」
「……そう」
神崎の声が、少しだけ弱い。
僕は小声で言った。
「神崎、完璧じゃなくていいよ」
神崎が足を止めた。
「完璧じゃない」
「知ってる……でも神崎、完璧な顔する」
神崎がこちらを見る。
撤収班じゃない顔。
「伊吹にだけは、見せたくない」
胸が、どくんと鳴った。
「……見せていい」
僕は言った。
「僕、神崎の彼氏だよ」
言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
でも、言えた。
神崎の目が一瞬大きくなって、それから柔らかくなる。
「……うん」
神崎が小さく言った。
「……ありがとう」
それだけ。
でも、その“ありがとう”が、今までで一番重かった。
◇
駅の改札前にて。
「帰宅連絡は?」
僕が冗談っぽく言うと、神崎が少しだけ笑った。
「気になる?」
「……気になるでしょ」
「……連絡する」
「よしって言う?」
「言わない」
「努力してる」
「努力してる」
神崎が一拍置いて、珍しく小さい声で言った。
「……悠真」
「なに」
「帰ったら、連絡していい?」
「当たり前でしょ」
神崎の肩が、緊張が緩んだみたいにほんの少しだけ落ちた。
改札を通る直前、神崎が振り返って言った。
「……好き」
僕は顔を赤くして叫びそうになったけど、なんとか喉元で止めた。
「今言う……!」
神崎が小さく笑って、改札の向こうへ消えた。
僕はその背中を見送りながら、胸がじわっと熱くなるのを感じていた。
(神崎にも、弱い日がある)
その弱さを、僕に見せてくれたことが嬉しい。
そして、僕が少しだけ支えられたことも嬉しい。
たぶん――この先も、僕らはこうやって支え合っていくんだ。
図書館に行く途中、僕は神崎の歩幅がいつもより微妙に遅いことに気づいた。
遅いというか、迷いがある。
神崎は基本、迷わない。撤収班だし、護衛だし、生活指導だし。
(……今日の神崎、変)
「神崎」
「ん」
「……眠い?」
「眠くない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だ」
僕が言うと、神崎は少し黙ってから、ようやく認めた。
「……少し」
認めたのが意外で、僕は思わずその場で立ち止まった。
「え、どうしたの。寝てない?」
「寝た」
「じゃあ何」
神崎は視線を逸らしながら言った。
「家」
たったそれだけ。
(“家”って言い方、いつもより苦い。どうしたんだろ)
神崎は、自分のことをあまり話さない。
僕のことは“顔”で何でも見抜くのに、自分のことについては言葉を減らす。
僕は焦って追及しないように、なるべく軽いノリで聞いた。
「家で何かあった?」
「……少し」
神崎の返事が、いつもよりずっと大人しい。
それが逆に不安になる。
◇
図書館にて。
僕のレポは昨日の“分解表”のおかげで順調だった。
なのに今日は、神崎が全然こちらを見ない。
いつもなら、僕の水の減り具合まで監視するのに。
神崎はずっとスマホを机に寝かせて、指先だけで画面を触っている。
(誰かと連絡?)
胸がざわっとしかけて、僕は慌てて“独占欲”をしまった。
(嫉妬じゃない。心配。今日は神崎の心配)
神崎がふいにスマホを見て、眉をほんの少し寄せた。
その表情が、チクリと胸に刺さった。
「……神崎」
「ん」
「何かあったなら、言って」
神崎はしばらく黙っていた。
沈黙が長い。珍しい。
それからやっと、神崎が小さい声で言った。
「母親から連絡」
「……お母さん?」
「うん」
神崎の声が低い。
「弟が、熱で」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫。たぶん」
たぶん、って神崎が言うのが怖い。
「看病とか?」
「父親は仕事で遅い。母親は夜勤で、昼間は寝ないといけない」
神崎が短く言って、言葉を切る。
(……家庭の事情)
僕は、胸がきゅっとなった。
「神崎、じゃあ今日……」
「帰らない」
即答。語調が強い。
神崎の指が、スマホの端をきゅっと押した。
「え?」
「レポ、手伝うって言った」
神崎が僕を見る。撤収班の目だ。
責任感の目。
僕の胸がざわっとする。
「……僕のレポより、家でしょ」
「家は俺が行っても変わらない」
「変わるよ!」
僕の声が強くなり、周りにちらっとこちらを見られて、僕は慌てて声を落とした。
「……変わる。弟さん、熱なんでしょ」
神崎は一拍置いて、低い声で言った。
「……昨日、伊吹のこと放っておけないって言っただろ」
胸がぎゅっとなる。
(確かに、放っておいては言いすぎたって、僕も言ったけど……)
でも、神崎が無理してる。
僕は静かに言った。
「……放っておかないのは、僕がする」
「え」
「神崎、帰って。弟さんのところへ」
神崎が瞬きをする。
僕が“止める側”に回ったの、初めてかもしれない。
「……伊吹」
「なに」
「無理してる?」
「してない」
「嘘」
僕は言葉を言い直した。
「無理はしてないけど、めちゃくちゃ心配してる」
言い切ったら、少しだけ楽になった。
「神崎が“平気な顔”してるの、僕も嫌」
神崎の目が揺れる。
「……伊吹」
神崎が何か言いかけて、止める。
僕はすかさず畳みかけた。
「レポは大丈夫。分解表あるし。今日やるのは結論だけだし」
「……結論、難しいだろ」
「難しいけど、できる」
僕は神崎の真似をして、短く言った。
「終わらない」
神崎が、ほんの少し口元を緩めた。
「……真似した」
「真似した」
「可愛い」
「言うな!」
僕が小声で怒ると、神崎が少しだけ息を吐いて、やっと頷いた。
「……帰る」
その一言が、重い。
決断が重い。
僕は立ち上がって、神崎の荷物をまとめた。
「送っていく」
「いらない」
「いる」
「命令形」
「……お願い。送らせて」
言い直した。僕が。
神崎が一瞬固まって、それから小さく頷いた。
「……うん」
◇
駅までの道。
神崎はいつもより黙っていた。
僕はその沈黙が怖くて、でも怖いからこそ、軽い言葉を探した。
「弟さん、何歳?」
「小学生」
「可愛いね」
「うん」
「神崎、お兄ちゃんなんだ」
「……そう」
神崎の声が、少しだけ弱い。
僕は小声で言った。
「神崎、完璧じゃなくていいよ」
神崎が足を止めた。
「完璧じゃない」
「知ってる……でも神崎、完璧な顔する」
神崎がこちらを見る。
撤収班じゃない顔。
「伊吹にだけは、見せたくない」
胸が、どくんと鳴った。
「……見せていい」
僕は言った。
「僕、神崎の彼氏だよ」
言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
でも、言えた。
神崎の目が一瞬大きくなって、それから柔らかくなる。
「……うん」
神崎が小さく言った。
「……ありがとう」
それだけ。
でも、その“ありがとう”が、今までで一番重かった。
◇
駅の改札前にて。
「帰宅連絡は?」
僕が冗談っぽく言うと、神崎が少しだけ笑った。
「気になる?」
「……気になるでしょ」
「……連絡する」
「よしって言う?」
「言わない」
「努力してる」
「努力してる」
神崎が一拍置いて、珍しく小さい声で言った。
「……悠真」
「なに」
「帰ったら、連絡していい?」
「当たり前でしょ」
神崎の肩が、緊張が緩んだみたいにほんの少しだけ落ちた。
改札を通る直前、神崎が振り返って言った。
「……好き」
僕は顔を赤くして叫びそうになったけど、なんとか喉元で止めた。
「今言う……!」
神崎が小さく笑って、改札の向こうへ消えた。
僕はその背中を見送りながら、胸がじわっと熱くなるのを感じていた。
(神崎にも、弱い日がある)
その弱さを、僕に見せてくれたことが嬉しい。
そして、僕が少しだけ支えられたことも嬉しい。
たぶん――この先も、僕らはこうやって支え合っていくんだ。



