撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 翌日。
 図書館に行く途中、僕は神崎の歩幅がいつもより微妙に遅いことに気づいた。
 遅いというか、迷いがある。
 神崎は基本、迷わない。撤収班だし、護衛だし、生活指導だし。

(……今日の神崎、変)

「神崎」
「ん」
「……眠い?」
「眠くない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だ」

 僕が言うと、神崎は少し黙ってから、ようやく認めた。

「……少し」

 認めたのが意外で、僕は思わずその場で立ち止まった。

「え、どうしたの。寝てない?」
「寝た」
「じゃあ何」

 神崎は視線を逸らしながら言った。

「家」

 たったそれだけ。

(“家”って言い方、いつもより苦い。どうしたんだろ)

 神崎は、自分のことをあまり話さない。
 僕のことは“顔”で何でも見抜くのに、自分のことについては言葉を減らす。
 僕は焦って追及しないように、なるべく軽いノリで聞いた。

「家で何かあった?」
「……少し」

 神崎の返事が、いつもよりずっと大人しい。
 それが逆に不安になる。



 図書館にて。
 僕のレポは昨日の“分解表”のおかげで順調だった。
 なのに今日は、神崎が全然こちらを見ない。
 いつもなら、僕の水の減り具合まで監視するのに。
 神崎はずっとスマホを机に寝かせて、指先だけで画面を触っている。

(誰かと連絡?)

 胸がざわっとしかけて、僕は慌てて“独占欲”をしまった。

(嫉妬じゃない。心配。今日は神崎の心配)

 神崎がふいにスマホを見て、眉をほんの少し寄せた。
 その表情が、チクリと胸に刺さった。

「……神崎」
「ん」
「何かあったなら、言って」

 神崎はしばらく黙っていた。
 沈黙が長い。珍しい。
 それからやっと、神崎が小さい声で言った。

「母親から連絡」
「……お母さん?」
「うん」

 神崎の声が低い。

「弟が、熱で」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫。たぶん」

 たぶん、って神崎が言うのが怖い。

「看病とか?」
「父親は仕事で遅い。母親は夜勤で、昼間は寝ないといけない」

 神崎が短く言って、言葉を切る。

(……家庭の事情)

 僕は、胸がきゅっとなった。

「神崎、じゃあ今日……」
「帰らない」

 即答。語調が強い。
 神崎の指が、スマホの端をきゅっと押した。

「え?」
「レポ、手伝うって言った」

 神崎が僕を見る。撤収班の目だ。
 責任感の目。
 僕の胸がざわっとする。

「……僕のレポより、家でしょ」
「家は俺が行っても変わらない」
「変わるよ!」

 僕の声が強くなり、周りにちらっとこちらを見られて、僕は慌てて声を落とした。

「……変わる。弟さん、熱なんでしょ」

 神崎は一拍置いて、低い声で言った。

「……昨日、伊吹のこと放っておけないって言っただろ」

 胸がぎゅっとなる。

(確かに、放っておいては言いすぎたって、僕も言ったけど……)
 
 でも、神崎が無理してる。
 僕は静かに言った。

「……放っておかないのは、僕がする」
「え」
「神崎、帰って。弟さんのところへ」

 神崎が瞬きをする。
 僕が“止める側”に回ったの、初めてかもしれない。

「……伊吹」
「なに」
「無理してる?」
「してない」
「嘘」

 僕は言葉を言い直した。

「無理はしてないけど、めちゃくちゃ心配してる」

 言い切ったら、少しだけ楽になった。

「神崎が“平気な顔”してるの、僕も嫌」

 神崎の目が揺れる。

「……伊吹」

 神崎が何か言いかけて、止める。
 僕はすかさず畳みかけた。

「レポは大丈夫。分解表あるし。今日やるのは結論だけだし」
「……結論、難しいだろ」
「難しいけど、できる」

 僕は神崎の真似をして、短く言った。

「終わらない」

 神崎が、ほんの少し口元を緩めた。

「……真似した」
「真似した」
「可愛い」
「言うな!」

 僕が小声で怒ると、神崎が少しだけ息を吐いて、やっと頷いた。

「……帰る」

 その一言が、重い。
 決断が重い。
 僕は立ち上がって、神崎の荷物をまとめた。

「送っていく」
「いらない」
「いる」
「命令形」
「……お願い。送らせて」

 言い直した。僕が。
 神崎が一瞬固まって、それから小さく頷いた。

「……うん」



 駅までの道。
 神崎はいつもより黙っていた。
 僕はその沈黙が怖くて、でも怖いからこそ、軽い言葉を探した。

「弟さん、何歳?」
「小学生」
「可愛いね」
「うん」
「神崎、お兄ちゃんなんだ」
「……そう」

 神崎の声が、少しだけ弱い。
 僕は小声で言った。

「神崎、完璧じゃなくていいよ」

 神崎が足を止めた。

「完璧じゃない」
「知ってる……でも神崎、完璧な顔する」

 神崎がこちらを見る。
 撤収班じゃない顔。

「伊吹にだけは、見せたくない」

 胸が、どくんと鳴った。

「……見せていい」

 僕は言った。

「僕、神崎の彼氏だよ」

 言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
 でも、言えた。
 神崎の目が一瞬大きくなって、それから柔らかくなる。

「……うん」

 神崎が小さく言った。

「……ありがとう」

 それだけ。
 でも、その“ありがとう”が、今までで一番重かった。



 駅の改札前にて。

「帰宅連絡は?」

 僕が冗談っぽく言うと、神崎が少しだけ笑った。

「気になる?」
「……気になるでしょ」
「……連絡する」
「よしって言う?」
「言わない」
「努力してる」
「努力してる」

 神崎が一拍置いて、珍しく小さい声で言った。

「……悠真」
「なに」
「帰ったら、連絡していい?」
「当たり前でしょ」

 神崎の肩が、緊張が緩んだみたいにほんの少しだけ落ちた。
 改札を通る直前、神崎が振り返って言った。

「……好き」

 僕は顔を赤くして叫びそうになったけど、なんとか喉元で止めた。

「今言う……!」

 神崎が小さく笑って、改札の向こうへ消えた。
 僕はその背中を見送りながら、胸がじわっと熱くなるのを感じていた。

(神崎にも、弱い日がある)

 その弱さを、僕に見せてくれたことが嬉しい。
 そして、僕が少しだけ支えられたことも嬉しい。

 たぶん――この先も、僕らはこうやって支え合っていくんだ。