学期末。
大学生にとって一番“撤収”したい季節が来た。
講義は終わる、でも緊張は終わらない。
なぜならレポートがある。テストもある。発表もある。
そして僕には、提出締切を前にすると人格が「副委員長」になるという悪癖がある。
(全部、今日中にやれば安心する……)
スマホを見ると、朝から当然のように通知が来ていた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:レポ進捗】
(最後なに!?)
【伊吹:起きた】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯食べる】
【伊吹:進捗は……これから】
既読。
【神崎:これからじゃない。今】
(生活指導に加えて進捗管理まで始まった)
◇
図書館にて。
席取りに強い神崎は、今日もすでに席を確保していた。
この時期の大学図書館の席取りは争奪戦なのに、さすがだ。
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「すでに死んでる」
「死んでない!」
「死んでる」
「まだ始めてもいないのに!?」
PCを開き、ブルーのアイコンをダブルクリックすると、画面には真っ白なWordの画面が現れた。
タイトルすら入ってない。なぜなら、タイトルを考えるだけで疲れるから。
神崎が僕の画面を覗き込む。
「……真っ白」
「これからだって!」
「これから、じゃない」
「神崎のそれ、呪いみたい」
「呪いじゃない。現実」
神崎はペットボトルの水を僕の横に置いて、次に小袋のチョコも置いた。
「糖分」
「今日は飴じゃないんだ」
「レポはチョコ」
「根拠ある?」
「伊吹の顔」
「顔で全部決めるな!」
そう言いながらも、僕はチョコに手を伸ばした。濃い甘さが脳に染み渡る。悔しい。
◇
作業は……始まった。
資料を開く。引用をまとめる。構成を考える。
気づけば、僕はいつもの悪い癖を発動していた。
(序論も結論も完璧にしたい)
(引用も抜けなく)
(誤字ゼロ)
(ついでに別科目のレポもやる)
“全部”だ。
神崎が僕のキーボードの音を聞きながら言った。
「伊吹」
「なに」
「今、“全部やる顔”してる」
(なんで分かった!?)
「……してない」
「してる」
「してないってば!」
神崎はノートにさらさらと何かを書き始めた。
そして、僕の前にノートから破り取った紙を置く。
「分解」
紙には、僕のレポを勝手に“工程表”にしたものが書かれていた。
目的(2行)
先行研究(箇条書き)
主張(1行)
根拠(3つ)
まとめ(2行)
(……何この彼氏、レポの解体までできるの)
短い。短すぎる。
でも、怖いくらいわかりやすい。
「これで足りる?」
「足りる」
「ほんと?」
「足りる」
「神崎、適当じゃない?」
「適当じゃない。最適」
神崎がさらっと言う。
「伊吹は、最初に広げすぎて詰む」
図星で耳が痛い。
「……でも、ちゃんとしたい」
「ちゃんと、は大事」
神崎は少し間を置いて、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも伊吹の“ちゃんと”は、限界までやること」
「……限界じゃない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
神崎は短く言い切る。
その真っ直ぐさが、怖い。
僕は反射的に“平気な顔”を作った。
「大丈夫だって。副委員長じゃないけど、こういうの得意だし」
言った瞬間、神崎の目が変わった。
撤収班じゃない顔。
「得意でも、無理はするな」
「無理してない」
「してる」
「してない!」
僕の声が、少しだけ強くなってしまう。
「神崎さ、心配しすぎ」
言ってから、しまったと思った。
神崎の眉が、ほんの少し下がる。
「……心配する」
「え」
「彼氏だから」
淡々と言われると、反論できない。ずるい。
でも、僕はつい意地になってしまった。
「僕だって子どもじゃない」
「子どもじゃない」
「じゃあ、放っておいて」
言った瞬間、空気が固まった。
神崎が、ゆっくりと息を吐く。
「……放っておけない」
その声が、思ってたより弱く聞こえて、僕の胸がぎゅっとなった。
(僕、今、何でこんなこと言っちゃったんだろ……)
◇
そして数分の沈黙。
図書館の静けさが、逆に痛い。
神崎は視線を自分のPC画面に置いたまま、キーボードを打つ指だけが少し速い。
僕は画面を見るふりをしながら、小さい声で謝った。
「……ごめん」
神崎がこちらを見ないまま答える。
「うん」
短い。怒ってる?
そう、神崎は怒ってる時ほど言葉が短い。これはやばいかも……
僕は慌てて続けた。
「放っておいて、は言いすぎた」
「うん」
「神崎が心配するの、嫌じゃないよ」
「……」
「ただ、僕、焦ると……つい強がっちゃって」
言葉にしたら、自分でも情けなくなる。
でも神崎は、少しだけ肩の力を抜いた。
「知ってる」
「知ってるんだ」
「観察結果」
その言い方で、ちょっとだけ笑ってしまった。
神崎がやっと僕の方を見る。
「伊吹」
「なに」
「俺は、止めたい」
「……何を」
「伊吹の“平気な顔”」
心臓が、どくんと鳴った。
「平気な顔、するなって言われても……癖だよ」
「癖は直す」
「撤収班みたいに言うな!」
神崎が一拍置いて、“お願い”を選んだ。
「……お願い。平気な顔、やめて」
ずるい。
僕は観念して、正直に言った。
「……怖い」
「何が」
「レポ。落としたら終わる気がする」
神崎が、真剣な表情で真っ直ぐ僕を見つめる。
「終わらない」
あの時、学祭の時と同じ言葉。
「落としても、次がある」
「でも……」
「でも、じゃない」
神崎は机の上の紙を指でトントンと叩いた。
「分解。これで進める」
「……うん」
「今日やるのは、目的と先行研究だけ」
「え、それだけ?」
「それだけ」
「でも締切――」
「締切は明後日」
「知ってるけど!」
「だから今日はそれだけ」
神崎が僕を見る。
「伊吹が倒れたら、レポより困る」
また“困る”だ。
僕は大きく息を吐いて、やっと決心がついたように言った。
「……わかった。今日はそれだけやる」
神崎の肩がほんの少し落ちる。まるで安心したみたいに。
「よし」
「言った!!」
僕が小声で怒ると、神崎は珍しく素直に言った。
「……言っちゃった」
「努力!」
「努力する」
言い方が可愛いところがずるい。
◇
それからの作業は、驚くほどスムーズに進んだ。
目的は確かに二行で書けた。
先行研究は箇条書きで整理できた。
僕の“全部”は、少しずつ縮んでいく。
夕方、神崎が僕の画面を見て言った。
「今日はここまで」
「うん……ここまでで、いいんだ」
「いい」
神崎は淡々と僕のPCを閉じる手伝いをして、ボソリと言った。
「帰る」
「……うん」
「帰宅連絡」
「はいはい」
いつもの儀式。
でも今日は、僕の方から言った。
「……蓮」
「ん」
「今日は、止めてくれてありがとう」
神崎の目が少しだけ大きくなった。
「今、何て」
「聞こえてるでしょ!」
「もう一回」
「調子乗るな!」
僕が言うと、神崎が小さく笑った。
「……じゃあ、俺も言う」
「え」
「悠真、偉かった」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ訂正」
神崎が今度は真面目な表情で言った。
「……頼ってくれて、嬉しい」
胸が、静かにトクンと跳ねた。
僕は照れて、わざと乱暴な言い方をした。
「……うるさい」
「うるさくない」
「うるさいよ」
神崎は笑って、言いかけて止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
今日はその攻防が、ちょっとだけ幸せだった。
大学生にとって一番“撤収”したい季節が来た。
講義は終わる、でも緊張は終わらない。
なぜならレポートがある。テストもある。発表もある。
そして僕には、提出締切を前にすると人格が「副委員長」になるという悪癖がある。
(全部、今日中にやれば安心する……)
スマホを見ると、朝から当然のように通知が来ていた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:レポ進捗】
(最後なに!?)
【伊吹:起きた】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯食べる】
【伊吹:進捗は……これから】
既読。
【神崎:これからじゃない。今】
(生活指導に加えて進捗管理まで始まった)
◇
図書館にて。
席取りに強い神崎は、今日もすでに席を確保していた。
この時期の大学図書館の席取りは争奪戦なのに、さすがだ。
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「すでに死んでる」
「死んでない!」
「死んでる」
「まだ始めてもいないのに!?」
PCを開き、ブルーのアイコンをダブルクリックすると、画面には真っ白なWordの画面が現れた。
タイトルすら入ってない。なぜなら、タイトルを考えるだけで疲れるから。
神崎が僕の画面を覗き込む。
「……真っ白」
「これからだって!」
「これから、じゃない」
「神崎のそれ、呪いみたい」
「呪いじゃない。現実」
神崎はペットボトルの水を僕の横に置いて、次に小袋のチョコも置いた。
「糖分」
「今日は飴じゃないんだ」
「レポはチョコ」
「根拠ある?」
「伊吹の顔」
「顔で全部決めるな!」
そう言いながらも、僕はチョコに手を伸ばした。濃い甘さが脳に染み渡る。悔しい。
◇
作業は……始まった。
資料を開く。引用をまとめる。構成を考える。
気づけば、僕はいつもの悪い癖を発動していた。
(序論も結論も完璧にしたい)
(引用も抜けなく)
(誤字ゼロ)
(ついでに別科目のレポもやる)
“全部”だ。
神崎が僕のキーボードの音を聞きながら言った。
「伊吹」
「なに」
「今、“全部やる顔”してる」
(なんで分かった!?)
「……してない」
「してる」
「してないってば!」
神崎はノートにさらさらと何かを書き始めた。
そして、僕の前にノートから破り取った紙を置く。
「分解」
紙には、僕のレポを勝手に“工程表”にしたものが書かれていた。
目的(2行)
先行研究(箇条書き)
主張(1行)
根拠(3つ)
まとめ(2行)
(……何この彼氏、レポの解体までできるの)
短い。短すぎる。
でも、怖いくらいわかりやすい。
「これで足りる?」
「足りる」
「ほんと?」
「足りる」
「神崎、適当じゃない?」
「適当じゃない。最適」
神崎がさらっと言う。
「伊吹は、最初に広げすぎて詰む」
図星で耳が痛い。
「……でも、ちゃんとしたい」
「ちゃんと、は大事」
神崎は少し間を置いて、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも伊吹の“ちゃんと”は、限界までやること」
「……限界じゃない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
神崎は短く言い切る。
その真っ直ぐさが、怖い。
僕は反射的に“平気な顔”を作った。
「大丈夫だって。副委員長じゃないけど、こういうの得意だし」
言った瞬間、神崎の目が変わった。
撤収班じゃない顔。
「得意でも、無理はするな」
「無理してない」
「してる」
「してない!」
僕の声が、少しだけ強くなってしまう。
「神崎さ、心配しすぎ」
言ってから、しまったと思った。
神崎の眉が、ほんの少し下がる。
「……心配する」
「え」
「彼氏だから」
淡々と言われると、反論できない。ずるい。
でも、僕はつい意地になってしまった。
「僕だって子どもじゃない」
「子どもじゃない」
「じゃあ、放っておいて」
言った瞬間、空気が固まった。
神崎が、ゆっくりと息を吐く。
「……放っておけない」
その声が、思ってたより弱く聞こえて、僕の胸がぎゅっとなった。
(僕、今、何でこんなこと言っちゃったんだろ……)
◇
そして数分の沈黙。
図書館の静けさが、逆に痛い。
神崎は視線を自分のPC画面に置いたまま、キーボードを打つ指だけが少し速い。
僕は画面を見るふりをしながら、小さい声で謝った。
「……ごめん」
神崎がこちらを見ないまま答える。
「うん」
短い。怒ってる?
そう、神崎は怒ってる時ほど言葉が短い。これはやばいかも……
僕は慌てて続けた。
「放っておいて、は言いすぎた」
「うん」
「神崎が心配するの、嫌じゃないよ」
「……」
「ただ、僕、焦ると……つい強がっちゃって」
言葉にしたら、自分でも情けなくなる。
でも神崎は、少しだけ肩の力を抜いた。
「知ってる」
「知ってるんだ」
「観察結果」
その言い方で、ちょっとだけ笑ってしまった。
神崎がやっと僕の方を見る。
「伊吹」
「なに」
「俺は、止めたい」
「……何を」
「伊吹の“平気な顔”」
心臓が、どくんと鳴った。
「平気な顔、するなって言われても……癖だよ」
「癖は直す」
「撤収班みたいに言うな!」
神崎が一拍置いて、“お願い”を選んだ。
「……お願い。平気な顔、やめて」
ずるい。
僕は観念して、正直に言った。
「……怖い」
「何が」
「レポ。落としたら終わる気がする」
神崎が、真剣な表情で真っ直ぐ僕を見つめる。
「終わらない」
あの時、学祭の時と同じ言葉。
「落としても、次がある」
「でも……」
「でも、じゃない」
神崎は机の上の紙を指でトントンと叩いた。
「分解。これで進める」
「……うん」
「今日やるのは、目的と先行研究だけ」
「え、それだけ?」
「それだけ」
「でも締切――」
「締切は明後日」
「知ってるけど!」
「だから今日はそれだけ」
神崎が僕を見る。
「伊吹が倒れたら、レポより困る」
また“困る”だ。
僕は大きく息を吐いて、やっと決心がついたように言った。
「……わかった。今日はそれだけやる」
神崎の肩がほんの少し落ちる。まるで安心したみたいに。
「よし」
「言った!!」
僕が小声で怒ると、神崎は珍しく素直に言った。
「……言っちゃった」
「努力!」
「努力する」
言い方が可愛いところがずるい。
◇
それからの作業は、驚くほどスムーズに進んだ。
目的は確かに二行で書けた。
先行研究は箇条書きで整理できた。
僕の“全部”は、少しずつ縮んでいく。
夕方、神崎が僕の画面を見て言った。
「今日はここまで」
「うん……ここまでで、いいんだ」
「いい」
神崎は淡々と僕のPCを閉じる手伝いをして、ボソリと言った。
「帰る」
「……うん」
「帰宅連絡」
「はいはい」
いつもの儀式。
でも今日は、僕の方から言った。
「……蓮」
「ん」
「今日は、止めてくれてありがとう」
神崎の目が少しだけ大きくなった。
「今、何て」
「聞こえてるでしょ!」
「もう一回」
「調子乗るな!」
僕が言うと、神崎が小さく笑った。
「……じゃあ、俺も言う」
「え」
「悠真、偉かった」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ訂正」
神崎が今度は真面目な表情で言った。
「……頼ってくれて、嬉しい」
胸が、静かにトクンと跳ねた。
僕は照れて、わざと乱暴な言い方をした。
「……うるさい」
「うるさくない」
「うるさいよ」
神崎は笑って、言いかけて止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
今日はその攻防が、ちょっとだけ幸せだった。



