撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 学期末。
 大学生にとって一番“撤収”したい季節が来た。
 講義は終わる、でも緊張は終わらない。
 なぜならレポートがある。テストもある。発表もある。
 そして僕には、提出締切を前にすると人格が「副委員長」になるという悪癖がある。

(全部、今日中にやれば安心する……)

 スマホを見ると、朝から当然のように通知が来ていた。

【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:レポ進捗】

(最後なに!?)

【伊吹:起きた】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯食べる】
【伊吹:進捗は……これから】

 既読。

【神崎:これからじゃない。今】

(生活指導に加えて進捗管理まで始まった)



 図書館にて。
 席取りに強い神崎は、今日もすでに席を確保していた。
 この時期の大学図書館の席取りは争奪戦なのに、さすがだ。

「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「すでに死んでる」
「死んでない!」
「死んでる」
「まだ始めてもいないのに!?」

 PCを開き、ブルーのアイコンをダブルクリックすると、画面には真っ白なWordの画面が現れた。
 タイトルすら入ってない。なぜなら、タイトルを考えるだけで疲れるから。
 神崎が僕の画面を覗き込む。

「……真っ白」
「これからだって!」
「これから、じゃない」
「神崎のそれ、呪いみたい」
「呪いじゃない。現実」

 神崎はペットボトルの水を僕の横に置いて、次に小袋のチョコも置いた。

「糖分」
「今日は飴じゃないんだ」
「レポはチョコ」
「根拠ある?」
「伊吹の顔」
「顔で全部決めるな!」

 そう言いながらも、僕はチョコに手を伸ばした。濃い甘さが脳に染み渡る。悔しい。



 作業は……始まった。
 資料を開く。引用をまとめる。構成を考える。
 気づけば、僕はいつもの悪い癖を発動していた。

(序論も結論も完璧にしたい)
(引用も抜けなく)
(誤字ゼロ)
(ついでに別科目のレポもやる)

 “全部”だ。
 神崎が僕のキーボードの音を聞きながら言った。

「伊吹」
「なに」
「今、“全部やる顔”してる」
 
(なんで分かった!?)
 
「……してない」
「してる」
「してないってば!」

 神崎はノートにさらさらと何かを書き始めた。
 そして、僕の前にノートから破り取った紙を置く。

「分解」

 紙には、僕のレポを勝手に“工程表”にしたものが書かれていた。
 目的(2行)
 先行研究(箇条書き)
 主張(1行)
 根拠(3つ)
 まとめ(2行)

(……何この彼氏、レポの解体までできるの)

 短い。短すぎる。
 でも、怖いくらいわかりやすい。

「これで足りる?」
「足りる」
「ほんと?」
「足りる」
「神崎、適当じゃない?」
「適当じゃない。最適」

 神崎がさらっと言う。

「伊吹は、最初に広げすぎて詰む」

 図星で耳が痛い。

「……でも、ちゃんとしたい」
「ちゃんと、は大事」

 神崎は少し間を置いて、僕の目を真っ直ぐに見つめた。

「でも伊吹の“ちゃんと”は、限界までやること」
「……限界じゃない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」

 神崎は短く言い切る。
 その真っ直ぐさが、怖い。
 僕は反射的に“平気な顔”を作った。

「大丈夫だって。副委員長じゃないけど、こういうの得意だし」

 言った瞬間、神崎の目が変わった。
 撤収班じゃない顔。

「得意でも、無理はするな」
「無理してない」
「してる」
「してない!」

 僕の声が、少しだけ強くなってしまう。

「神崎さ、心配しすぎ」

 言ってから、しまったと思った。
 神崎の眉が、ほんの少し下がる。

「……心配する」
「え」
「彼氏だから」

 淡々と言われると、反論できない。ずるい。
 でも、僕はつい意地になってしまった。

「僕だって子どもじゃない」
「子どもじゃない」
「じゃあ、放っておいて」

 言った瞬間、空気が固まった。
 神崎が、ゆっくりと息を吐く。

「……放っておけない」

 その声が、思ってたより弱く聞こえて、僕の胸がぎゅっとなった。

(僕、今、何でこんなこと言っちゃったんだろ……)



 そして数分の沈黙。
 図書館の静けさが、逆に痛い。
 神崎は視線を自分のPC画面に置いたまま、キーボードを打つ指だけが少し速い。
 僕は画面を見るふりをしながら、小さい声で謝った。

「……ごめん」

 神崎がこちらを見ないまま答える。

「うん」

 短い。怒ってる?
 そう、神崎は怒ってる時ほど言葉が短い。これはやばいかも……
 僕は慌てて続けた。

「放っておいて、は言いすぎた」
「うん」
「神崎が心配するの、嫌じゃないよ」
「……」
「ただ、僕、焦ると……つい強がっちゃって」

 言葉にしたら、自分でも情けなくなる。
 でも神崎は、少しだけ肩の力を抜いた。

「知ってる」
「知ってるんだ」
「観察結果」

 その言い方で、ちょっとだけ笑ってしまった。
 神崎がやっと僕の方を見る。

「伊吹」
「なに」
「俺は、止めたい」
「……何を」
「伊吹の“平気な顔”」

 心臓が、どくんと鳴った。

「平気な顔、するなって言われても……癖だよ」
「癖は直す」
「撤収班みたいに言うな!」

 神崎が一拍置いて、“お願い”を選んだ。

「……お願い。平気な顔、やめて」

 ずるい。
 僕は観念して、正直に言った。

「……怖い」
「何が」
「レポ。落としたら終わる気がする」

 神崎が、真剣な表情で真っ直ぐ僕を見つめる。

「終わらない」

 あの時、学祭の時と同じ言葉。

「落としても、次がある」
「でも……」
「でも、じゃない」

 神崎は机の上の紙を指でトントンと叩いた。

「分解。これで進める」
「……うん」
「今日やるのは、目的と先行研究だけ」
「え、それだけ?」
「それだけ」
「でも締切――」
「締切は明後日」
「知ってるけど!」
「だから今日はそれだけ」

 神崎が僕を見る。

「伊吹が倒れたら、レポより困る」

 また“困る”だ。
 僕は大きく息を吐いて、やっと決心がついたように言った。

「……わかった。今日はそれだけやる」

 神崎の肩がほんの少し落ちる。まるで安心したみたいに。

「よし」
「言った!!」

 僕が小声で怒ると、神崎は珍しく素直に言った。

「……言っちゃった」
「努力!」
「努力する」

 言い方が可愛いところがずるい。



 それからの作業は、驚くほどスムーズに進んだ。
 目的は確かに二行で書けた。
 先行研究は箇条書きで整理できた。
 僕の“全部”は、少しずつ縮んでいく。
 
 夕方、神崎が僕の画面を見て言った。

「今日はここまで」
「うん……ここまでで、いいんだ」
「いい」

 神崎は淡々と僕のPCを閉じる手伝いをして、ボソリと言った。

「帰る」
「……うん」
「帰宅連絡」
「はいはい」

 いつもの儀式。
 でも今日は、僕の方から言った。

「……蓮」
「ん」
「今日は、止めてくれてありがとう」

 神崎の目が少しだけ大きくなった。

「今、何て」
「聞こえてるでしょ!」
「もう一回」
「調子乗るな!」

 僕が言うと、神崎が小さく笑った。

「……じゃあ、俺も言う」
「え」
「悠真、偉かった」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ訂正」

 神崎が今度は真面目な表情で言った。

「……頼ってくれて、嬉しい」

 胸が、静かにトクンと跳ねた。
 僕は照れて、わざと乱暴な言い方をした。

「……うるさい」
「うるさくない」
「うるさいよ」

 神崎は笑って、言いかけて止めた。

「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」

 今日はその攻防が、ちょっとだけ幸せだった。