その週末。
僕は朝から落ち着かなかった。
別に試験でもないし、学祭でもない。撤収もない。なのに心臓だけがドキドキと忙しい。
デート、って言ったら負けな気がする
(でもこれ、どう見てもデートだよね)
玄関で靴を履きながらスマホを見ると、いつも通り神崎からの通知が並んでいた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:現地 11:00】
(休日も生活指導…)
【伊吹:起きてる】
【伊吹:水飲んだ】
【伊吹:朝飯食べた】
【伊吹:わかった】
既読。
【神崎:……よし】
(努力どこ行った!?)
僕はため息をついて、そのまま家を出た。
◇
待ち合わせは駅前。
神崎はすでにいた。いつもの涼しい顔、いつもの黒い服。なのに今日は、髪が少しだけ丁寧で、服も“講義用”より少しだけちゃんとしてる。
(ずるい。格好いいのずるい)
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「赤い」
「赤くない!」
「赤い」
神崎が小さく笑う。
「……緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してないってば!」
神崎が手を差し出した。
「手」
「え?」
「繋ぐ?」
駅前には、たくさんの人が行き交っている。
昨日の“噂”が頭をよぎって、僕は一瞬ためらった。
神崎がすぐに言い直した。
「……嫌ならやめる」
逃げ道付き。ずるい。
僕は小声で言った。
「……今は、腕」
「腕?」
「腕組むとかじゃなくて! その……袖、掴む」
僕が言うと、神崎は少し口角を上げながら頷いた。
「いい」
僕は神崎のコートの袖を、ほんの少しだけ掴んだ。
それだけで胸が落ち着くのが悔しい。
「行きたいところ」
「うん……本屋」
「いい」
「即決だね」
「伊吹の“安心する場所”でしょ?」
神崎がさらっと言う。
(こういうとこ、刺さるんだよ…)
◇
駅ビル内の大型書店は、休日でも程よく静かだった。
紙の匂いと、ぱらりとページをめくる音が心地いい。人がいても、全然騒がしくない。
僕は新刊コーナーを眺めながら、やっと呼吸ができる気がした。
「神崎、何読むの?」
「実用書」
「デートで実用書……」
「生活は実用」
「ロマンがない!」
神崎が真顔で返す。
「伊吹はロマン」
僕は思わず持っていた小説を取り落としそうになった。
「……今それ言う!?」
「今言う」
「本屋!」
「小声」
「そういう問題じゃない!」
僕が慌てて周りを見ると、神崎は涼しい顔で棚を見ている。
外面と中身の差がひどい。僕の心臓だけが被害者。
しばらく歩いて、僕が文庫棚で立ち止まると、背後から声がした。
「伊吹くん?」
振り向くと、同じ学科の男子――講義で顔を合わせる程度の人が立っていた。
軽いノリで笑っている。
「お、偶然……え、神崎くんも一緒じゃん」
来た。偶然の目撃。噂の燃料。
僕は思わず摘んでいた神崎の袖を離しそうになって、指が固まった。
(離したら、“隠してる”みたいで変だし……でも……)
神崎が一歩前に出た。丁寧な口調だ。
「どうも」
神崎に視線を移した男子がにやっとする。
「え、もしかして例の? 付き合ってるってやつ?」
シャツの背中がじわりと冷や汗で濡れている。
僕の脳内に、線引きルールがぱっと点灯した。
(聞かれたら嘘はつかない。自分からは言わない。余計なことは言わない……)
僕が答えを探していると、神崎が僕を見ずにさらっと言った。
「付き合ってる」
事実だけ。余計な情報は一切なし。
でも、僕の心臓はバクバクとうるさい。
男子が「うわ、マジか!」と明るく笑った。
「やっぱりな〜。じゃ、邪魔した! お幸せに!」
軽く手を振って、彼はくるりと踵を返した。
嵐みたいに僕の情緒を乱して、風のようにに去って行く。停滞時間が短くて良かった。
僕はほっと息を吐いてから、神崎をじろっと睨んだ。
「……今の、確かにルール通りだった」
「うん」
「でも、心臓に悪い」
「心臓、守る」
「どうやって」
神崎は棚の影で少しだけ僕に近づいてから、他人の視線が届かない角度で小声で言った。
「……伊吹が“彼氏”って言えるようになれば、落ち着くと思う」
予想外の言葉に、心臓がドキンと跳ねた。
「え」
「言うの恥ずかしいって、ずっと言ってるでしょ?」
そう言いながら、神崎はさらに一歩近づいてきた。
「だから、練習」
「練習!?」
「二人だけの今」
僕は顔が熱くなって、思わず大きく首を振った。
「無理!」
「無理じゃない」
「無理だって!」
神崎が珍しく、すごく小さい声で言った。
「……お願い」
ずるい。お願いはずるい。
僕は周りを確認した。
人はいるけど、棚の向こうで顔は見えない。声も届きにくい。
(……二人だけ、なら)
「……一回だけ」
「一回?」
「一回。今日だけ」
神崎が頷く。
「うん。今日だけでいい」
僕は息を吸って、超小声で言った。
「……蓮……彼氏」
言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
神崎は固まって、それから、わかりやすく呼吸が止まった。
「……」
「なに、無言やめて!」
神崎がやっと息を吐いて、同じくらい小さい声で言った。
「……嬉しい」
そして、言いかけて止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎の耳が赤い。僕より赤い。勝った気がする。
僕が小さく笑うと、神崎がさらに小声で言った。
「じゃあ、俺も」
「え?」
「……悠真、彼氏」
キュン、と胸が締まった。
(名前+彼氏の破壊力……)
僕は耐えきれず、神崎の袖をぎゅっと掴んだ。
「……今の反則」
「反則じゃない」
「反則だよ」
神崎が小さく笑う。
「“彼氏”って言えた伊吹は、えらい」
「犬みたいに褒めるな!」
「じゃあ訂正」
神崎が真面目に言った。
「……ありがとう。言ってくれて」
その言い方の方が、よっぽどずるかった。
◇
本屋のあと、カフェに入った。
僕は甘いラテで、神崎はブラック。いつも通りなのに、今日は机の上の距離が少しだけ近い。
僕がスティックシュガーの袋をいじっていると、神崎が言った。
「さっきの、無理させた?」
「……少しだけ」
「ごめん」
「でも」
僕は息を吸って、ちゃんと声に出して言った。
「……嫌じゃなかった」
神崎の視線が柔らかくなる。
「……よかった」
その“よかった”って声が瞳と同じくらい柔らかくて、胸が落ち着く。
僕は小声で付け足した。
「だから、たぶん……そのうち、ちゃんと外でも言えると思う」
「急がない」
神崎が即答する。
「伊吹のペースで」
やっぱり“合わせる”。
それが嬉しい。
僕はカップを両手で包んで、ぽつりと言った。
「ねえ神崎」
「ん」
「今日は……正式デートってことでいい?」
言った瞬間、神崎が固まった。
「……正式?」
「うん」
神崎は耳を赤くして、絞り出すように言った。
「……いい」
そして、我慢できなかったみたいに言いかける。
「……よ」
「言うなーー!!」
僕が笑うと、神崎も笑った。
噂も、線引きも、独占欲も、全部めんどくさい。
でも、こういう時間がちゃんとあるなら。
僕は少しずつ、“彼氏”に慣れていける気がした。
僕は朝から落ち着かなかった。
別に試験でもないし、学祭でもない。撤収もない。なのに心臓だけがドキドキと忙しい。
デート、って言ったら負けな気がする
(でもこれ、どう見てもデートだよね)
玄関で靴を履きながらスマホを見ると、いつも通り神崎からの通知が並んでいた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:現地 11:00】
(休日も生活指導…)
【伊吹:起きてる】
【伊吹:水飲んだ】
【伊吹:朝飯食べた】
【伊吹:わかった】
既読。
【神崎:……よし】
(努力どこ行った!?)
僕はため息をついて、そのまま家を出た。
◇
待ち合わせは駅前。
神崎はすでにいた。いつもの涼しい顔、いつもの黒い服。なのに今日は、髪が少しだけ丁寧で、服も“講義用”より少しだけちゃんとしてる。
(ずるい。格好いいのずるい)
「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「赤い」
「赤くない!」
「赤い」
神崎が小さく笑う。
「……緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してないってば!」
神崎が手を差し出した。
「手」
「え?」
「繋ぐ?」
駅前には、たくさんの人が行き交っている。
昨日の“噂”が頭をよぎって、僕は一瞬ためらった。
神崎がすぐに言い直した。
「……嫌ならやめる」
逃げ道付き。ずるい。
僕は小声で言った。
「……今は、腕」
「腕?」
「腕組むとかじゃなくて! その……袖、掴む」
僕が言うと、神崎は少し口角を上げながら頷いた。
「いい」
僕は神崎のコートの袖を、ほんの少しだけ掴んだ。
それだけで胸が落ち着くのが悔しい。
「行きたいところ」
「うん……本屋」
「いい」
「即決だね」
「伊吹の“安心する場所”でしょ?」
神崎がさらっと言う。
(こういうとこ、刺さるんだよ…)
◇
駅ビル内の大型書店は、休日でも程よく静かだった。
紙の匂いと、ぱらりとページをめくる音が心地いい。人がいても、全然騒がしくない。
僕は新刊コーナーを眺めながら、やっと呼吸ができる気がした。
「神崎、何読むの?」
「実用書」
「デートで実用書……」
「生活は実用」
「ロマンがない!」
神崎が真顔で返す。
「伊吹はロマン」
僕は思わず持っていた小説を取り落としそうになった。
「……今それ言う!?」
「今言う」
「本屋!」
「小声」
「そういう問題じゃない!」
僕が慌てて周りを見ると、神崎は涼しい顔で棚を見ている。
外面と中身の差がひどい。僕の心臓だけが被害者。
しばらく歩いて、僕が文庫棚で立ち止まると、背後から声がした。
「伊吹くん?」
振り向くと、同じ学科の男子――講義で顔を合わせる程度の人が立っていた。
軽いノリで笑っている。
「お、偶然……え、神崎くんも一緒じゃん」
来た。偶然の目撃。噂の燃料。
僕は思わず摘んでいた神崎の袖を離しそうになって、指が固まった。
(離したら、“隠してる”みたいで変だし……でも……)
神崎が一歩前に出た。丁寧な口調だ。
「どうも」
神崎に視線を移した男子がにやっとする。
「え、もしかして例の? 付き合ってるってやつ?」
シャツの背中がじわりと冷や汗で濡れている。
僕の脳内に、線引きルールがぱっと点灯した。
(聞かれたら嘘はつかない。自分からは言わない。余計なことは言わない……)
僕が答えを探していると、神崎が僕を見ずにさらっと言った。
「付き合ってる」
事実だけ。余計な情報は一切なし。
でも、僕の心臓はバクバクとうるさい。
男子が「うわ、マジか!」と明るく笑った。
「やっぱりな〜。じゃ、邪魔した! お幸せに!」
軽く手を振って、彼はくるりと踵を返した。
嵐みたいに僕の情緒を乱して、風のようにに去って行く。停滞時間が短くて良かった。
僕はほっと息を吐いてから、神崎をじろっと睨んだ。
「……今の、確かにルール通りだった」
「うん」
「でも、心臓に悪い」
「心臓、守る」
「どうやって」
神崎は棚の影で少しだけ僕に近づいてから、他人の視線が届かない角度で小声で言った。
「……伊吹が“彼氏”って言えるようになれば、落ち着くと思う」
予想外の言葉に、心臓がドキンと跳ねた。
「え」
「言うの恥ずかしいって、ずっと言ってるでしょ?」
そう言いながら、神崎はさらに一歩近づいてきた。
「だから、練習」
「練習!?」
「二人だけの今」
僕は顔が熱くなって、思わず大きく首を振った。
「無理!」
「無理じゃない」
「無理だって!」
神崎が珍しく、すごく小さい声で言った。
「……お願い」
ずるい。お願いはずるい。
僕は周りを確認した。
人はいるけど、棚の向こうで顔は見えない。声も届きにくい。
(……二人だけ、なら)
「……一回だけ」
「一回?」
「一回。今日だけ」
神崎が頷く。
「うん。今日だけでいい」
僕は息を吸って、超小声で言った。
「……蓮……彼氏」
言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
神崎は固まって、それから、わかりやすく呼吸が止まった。
「……」
「なに、無言やめて!」
神崎がやっと息を吐いて、同じくらい小さい声で言った。
「……嬉しい」
そして、言いかけて止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎の耳が赤い。僕より赤い。勝った気がする。
僕が小さく笑うと、神崎がさらに小声で言った。
「じゃあ、俺も」
「え?」
「……悠真、彼氏」
キュン、と胸が締まった。
(名前+彼氏の破壊力……)
僕は耐えきれず、神崎の袖をぎゅっと掴んだ。
「……今の反則」
「反則じゃない」
「反則だよ」
神崎が小さく笑う。
「“彼氏”って言えた伊吹は、えらい」
「犬みたいに褒めるな!」
「じゃあ訂正」
神崎が真面目に言った。
「……ありがとう。言ってくれて」
その言い方の方が、よっぽどずるかった。
◇
本屋のあと、カフェに入った。
僕は甘いラテで、神崎はブラック。いつも通りなのに、今日は机の上の距離が少しだけ近い。
僕がスティックシュガーの袋をいじっていると、神崎が言った。
「さっきの、無理させた?」
「……少しだけ」
「ごめん」
「でも」
僕は息を吸って、ちゃんと声に出して言った。
「……嫌じゃなかった」
神崎の視線が柔らかくなる。
「……よかった」
その“よかった”って声が瞳と同じくらい柔らかくて、胸が落ち着く。
僕は小声で付け足した。
「だから、たぶん……そのうち、ちゃんと外でも言えると思う」
「急がない」
神崎が即答する。
「伊吹のペースで」
やっぱり“合わせる”。
それが嬉しい。
僕はカップを両手で包んで、ぽつりと言った。
「ねえ神崎」
「ん」
「今日は……正式デートってことでいい?」
言った瞬間、神崎が固まった。
「……正式?」
「うん」
神崎は耳を赤くして、絞り出すように言った。
「……いい」
そして、我慢できなかったみたいに言いかける。
「……よ」
「言うなーー!!」
僕が笑うと、神崎も笑った。
噂も、線引きも、独占欲も、全部めんどくさい。
でも、こういう時間がちゃんとあるなら。
僕は少しずつ、“彼氏”に慣れていける気がした。



