撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 その週末。
 僕は朝から落ち着かなかった。
 別に試験でもないし、学祭でもない。撤収もない。なのに心臓だけがドキドキと忙しい。
 デート、って言ったら負けな気がする
 
(でもこれ、どう見てもデートだよね)

 玄関で靴を履きながらスマホを見ると、いつも通り神崎からの通知が並んでいた。

【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
【神崎:現地 11:00】

(休日も生活指導…)

【伊吹:起きてる】
【伊吹:水飲んだ】
【伊吹:朝飯食べた】
【伊吹:わかった】

 既読。

【神崎:……よし】

(努力どこ行った!?)

 僕はため息をついて、そのまま家を出た。



 待ち合わせは駅前。
 神崎はすでにいた。いつもの涼しい顔、いつもの黒い服。なのに今日は、髪が少しだけ丁寧で、服も“講義用”より少しだけちゃんとしてる。

(ずるい。格好いいのずるい)

「伊吹」
「なに」
「顔」
「顔やめて」
「赤い」
「赤くない!」
「赤い」

 神崎が小さく笑う。

「……緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してないってば!」

 神崎が手を差し出した。

「手」
「え?」
「繋ぐ?」

 駅前には、たくさんの人が行き交っている。
 昨日の“噂”が頭をよぎって、僕は一瞬ためらった。
 神崎がすぐに言い直した。

「……嫌ならやめる」

 逃げ道付き。ずるい。
 僕は小声で言った。

「……今は、腕」
「腕?」
「腕組むとかじゃなくて! その……袖、掴む」

 僕が言うと、神崎は少し口角を上げながら頷いた。

「いい」

 僕は神崎のコートの袖を、ほんの少しだけ掴んだ。
 それだけで胸が落ち着くのが悔しい。

「行きたいところ」
「うん……本屋」
「いい」
「即決だね」
「伊吹の“安心する場所”でしょ?」

 神崎がさらっと言う。

(こういうとこ、刺さるんだよ…)



 駅ビル内の大型書店は、休日でも程よく静かだった。
 紙の匂いと、ぱらりとページをめくる音が心地いい。人がいても、全然騒がしくない。
 僕は新刊コーナーを眺めながら、やっと呼吸ができる気がした。

「神崎、何読むの?」
「実用書」
「デートで実用書……」
「生活は実用」
「ロマンがない!」

 神崎が真顔で返す。

「伊吹はロマン」

 僕は思わず持っていた小説を取り落としそうになった。

「……今それ言う!?」
「今言う」
「本屋!」
「小声」
「そういう問題じゃない!」

 僕が慌てて周りを見ると、神崎は涼しい顔で棚を見ている。
 外面と中身の差がひどい。僕の心臓だけが被害者。
 しばらく歩いて、僕が文庫棚で立ち止まると、背後から声がした。

「伊吹くん?」

 振り向くと、同じ学科の男子――講義で顔を合わせる程度の人が立っていた。
 軽いノリで笑っている。

「お、偶然……え、神崎くんも一緒じゃん」

 来た。偶然の目撃。噂の燃料。
 僕は思わず摘んでいた神崎の袖を離しそうになって、指が固まった。

(離したら、“隠してる”みたいで変だし……でも……)

 神崎が一歩前に出た。丁寧な口調だ。

「どうも」

 神崎に視線を移した男子がにやっとする。

「え、もしかして例の? 付き合ってるってやつ?」

 シャツの背中がじわりと冷や汗で濡れている。
 僕の脳内に、線引きルールがぱっと点灯した。

(聞かれたら嘘はつかない。自分からは言わない。余計なことは言わない……)

 僕が答えを探していると、神崎が僕を見ずにさらっと言った。

「付き合ってる」

 事実だけ。余計な情報は一切なし。
 でも、僕の心臓はバクバクとうるさい。
 男子が「うわ、マジか!」と明るく笑った。

「やっぱりな〜。じゃ、邪魔した! お幸せに!」

 軽く手を振って、彼はくるりと踵を返した。
 嵐みたいに僕の情緒を乱して、風のようにに去って行く。停滞時間が短くて良かった。

 僕はほっと息を吐いてから、神崎をじろっと睨んだ。

「……今の、確かにルール通りだった」
「うん」
「でも、心臓に悪い」
「心臓、守る」
「どうやって」

 神崎は棚の影で少しだけ僕に近づいてから、他人の視線が届かない角度で小声で言った。

「……伊吹が“彼氏”って言えるようになれば、落ち着くと思う」

 予想外の言葉に、心臓がドキンと跳ねた。

「え」
「言うの恥ずかしいって、ずっと言ってるでしょ?」

 そう言いながら、神崎はさらに一歩近づいてきた。

「だから、練習」
「練習!?」
「二人だけの今」

 僕は顔が熱くなって、思わず大きく首を振った。

「無理!」
「無理じゃない」
「無理だって!」

 神崎が珍しく、すごく小さい声で言った。

「……お願い」

 ずるい。お願いはずるい。
 僕は周りを確認した。
 人はいるけど、棚の向こうで顔は見えない。声も届きにくい。

(……二人だけ、なら)

「……一回だけ」
「一回?」
「一回。今日だけ」

 神崎が頷く。

「うん。今日だけでいい」

 僕は息を吸って、超小声で言った。

「……蓮……彼氏」

 言った瞬間、自分の耳が熱くなる。
 神崎は固まって、それから、わかりやすく呼吸が止まった。

「……」
「なに、無言やめて!」

 神崎がやっと息を吐いて、同じくらい小さい声で言った。

「……嬉しい」

 そして、言いかけて止めた。

「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」

 神崎の耳が赤い。僕より赤い。勝った気がする。
 僕が小さく笑うと、神崎がさらに小声で言った。

「じゃあ、俺も」
「え?」
「……悠真、彼氏」

 キュン、と胸が締まった。

(名前+彼氏の破壊力……)

 僕は耐えきれず、神崎の袖をぎゅっと掴んだ。

「……今の反則」
「反則じゃない」
「反則だよ」

 神崎が小さく笑う。

「“彼氏”って言えた伊吹は、えらい」
「犬みたいに褒めるな!」
「じゃあ訂正」

 神崎が真面目に言った。

「……ありがとう。言ってくれて」

 その言い方の方が、よっぽどずるかった。



 本屋のあと、カフェに入った。
 僕は甘いラテで、神崎はブラック。いつも通りなのに、今日は机の上の距離が少しだけ近い。
 僕がスティックシュガーの袋をいじっていると、神崎が言った。

「さっきの、無理させた?」
「……少しだけ」
「ごめん」
「でも」

 僕は息を吸って、ちゃんと声に出して言った。

「……嫌じゃなかった」

 神崎の視線が柔らかくなる。

「……よかった」

 その“よかった”って声が瞳と同じくらい柔らかくて、胸が落ち着く。
 僕は小声で付け足した。

「だから、たぶん……そのうち、ちゃんと外でも言えると思う」
「急がない」

 神崎が即答する。

「伊吹のペースで」

 やっぱり“合わせる”。
 それが嬉しい。
 僕はカップを両手で包んで、ぽつりと言った。

「ねえ神崎」
「ん」
「今日は……正式デートってことでいい?」

 言った瞬間、神崎が固まった。

「……正式?」
「うん」

 神崎は耳を赤くして、絞り出すように言った。

「……いい」

 そして、我慢できなかったみたいに言いかける。

「……よ」
「言うなーー!!」

 僕が笑うと、神崎も笑った。

 噂も、線引きも、独占欲も、全部めんどくさい。
 でも、こういう時間がちゃんとあるなら。
 僕は少しずつ、“彼氏”に慣れていける気がした。