撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 線引きルール、本番――は、思ったより消耗した。

(付き合ってる? って質問に答えるだけで精神が削れるの、一体なんで?)
 
 僕、恋人申告でHP減るタイプなんだ。
 それでもようやく一日が終わって、僕は少しだけ安心していた。

(……大丈夫。今日は乗り切った)

 そう思ってたのに、神様は油断した人間を見逃さずに試練を与えてくるようだ。



 翌日、午後。
 講義が早めに終わって、僕は図書館へ向かった。
 広報の後片付けで溜まった資料を整理して、レポートも進めたい。
 静かな廊下を曲がった瞬間、聞き覚えのある声に思わず足が止まった。

「神崎くん、ちょっといい?」

 声の主は、学祭の実行委員の先輩だ。綺麗で、手際が良くて、“できる人”の空気がある。
 そして――神崎の隣に、距離近めで立ってる。

(……え)

 神崎は外面モードの薄い笑顔で、頷いていた。

「はい。どうしました」

 先輩がスマホを見せる。

「打ち上げの写真、アルバム作るからさ。神崎くん、これ選んでくれない? センス良いし」
「わかりました」
「神崎くんの好みで選んで」

 神崎がスマホを覗き込む。先輩も覗き込む。
 距離が近い。肩が当たりそう。息も当たりそう。
 僕の胸が、ズキンと変な音を立てた。

(……別に、ただの用事だよね?)

 わかってる。わかってるのに、頭の中が勝手にざわざわする。

(外面モード、出してる……)
(あの笑顔、僕以外にもするんだ……当たり前だけど)
(ていうか、距離が近い)

 僕はその場に立ち尽くしたまま、どうにかこうにか“平気な顔”を作った。

(僕は大人。僕は副委員長経験者。僕は平気)

 ――ぜんぜん平気じゃない。
 でも、立ち去るのもなんだか負けた気がして、僕は図書館の入口付近でわざと本棚を眺めるフリをした。
 フリが雑すぎて、自分でも笑いそうになる。

(僕、何してんの……)



 数分後。

「伊吹」

 低い声が、いつのまにかすぐ後ろに忍び寄っていた。
 僕はドキッとしながら慌てて振り向いた。

「……なに」

 神崎がいた。いつも通りの顔。
 でも目だけが、やけに真剣だった。

「今、何してた」
「本、見てた」
「見てない」
「見てた!」
「背表紙、逆」
「えっ」

 僕は慌てて手元の本の背表紙を見た……逆だった。恥ずかしい。
 神崎が小さくため息をついた。

「顔」
「顔やめて」
「落ちてる」
「落ちてない!」
「落ちてる」

 神崎は淡々と、でも少しだけ柔らかい声で言った。

「さっきの先輩の件?」

(心読まれてる!)

 僕は思わず言葉に詰まった。

「……別に」
「別に?」
「別に、何も……」

 言いながら、自分でも気づいてしまった。

(これ、完全に嫉妬してる言い方だ)

 神崎が一瞬黙ってから、僕の目をまっすぐ見て言った。

「嫉妬?」

 直球すぎる。やめて。

「ち、違うし」
「違うなら、今の顔は何」
「……疲れてるだけ」
「疲れてる顔じゃない」
「じゃあ何の顔」

 神崎が、少しだけ困ったみたいに眉を下げた。

「……俺が、他の人と近いの、嫌だった?」

 胸がぎゅっとなる。
 僕は目を逸らしたまま、小さい声で言った。

「……嫌、っていうか」
「うん」
「……やだ」

 言えた瞬間、心臓がうるさくなった。

(言っちゃった)

 神崎は、たった一言で空気を変えた。

「……わかった」

 すごく短い言葉なのに、すごく安心する。

「線引きルール?」

 僕が意地悪く聞くと、神崎は首を振った。

「これは、ルールじゃない」
「じゃあ何」

 神崎が、撤収班じゃない顔で、静かに言った。

「……彼氏としての配慮」

 ずるい。
 その言い方ずるい。
 僕が黙っていると、神崎は続けた。

「さっきは、写真を選別してた。距離近かったのは、俺が悪い」
「……神崎が悪いの?」
「悪い」
「即認めた」
「伊吹が嫌なら、次から離れる」

 神崎は“我慢する”じゃなくて、“合わせる”を選ぶ。
 それが、胸にすとんと落ちてくる。
 でも、僕は少しだけ反撃したくなった。

「……じゃあ、僕が他の人と距離近かったら?」
「嫌」

 即答。

「早っ」
「嫌」
「理由は?」

 神崎がすっと目を細める。

「……独占欲」

 さらっと言うな。
 顔がじわじわと熱くなる。

「今言う!?」
「今言う」
「図書館だよ!」
「静かだから小声」
「そういう問題じゃない!」

 神崎が声を出さずに笑った。

「伊吹、赤い」
「赤くない!」
「赤い」
「やめて!」

 僕が小声で怒ると、神崎が一歩だけ僕に近づいた。
 近い。
 でも、近いのが嫌じゃないのが悔しい。
 神崎が、さらに小声で言う。

「……伊吹が言ってくれて、嬉しい」
「何を」
「やだ、って」

 胸がぎゅっとなる。

「……言うの、恥ずかしかった」
「うん」
「でも、言わないと分かんないのも、分かった」

 神崎が頷いた。

「偉い」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ言い直す」

 神崎が一拍置いて、真面目な声で言った。

「……ありがとう」

 その「ありがとう」が、今日一番刺さった。



 図書館の奥の閲覧席に、僕らは並んで座った。
 勉強するはずなのに、僕の頭はさっきのことでいっぱいだった。
 ノートを開いても文字が目の上を滑って行く。

「伊吹」

 神崎が小声で言った。

「落ち着いた?」
「……落ち着いてない」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「手」
「え?」

 神崎が机の下で、指先だけ僕の指に触れた。
 いつもと同じ。触れるだけ。

「これで落ち着く」
「……神崎、それ、ずるい」
「ずるくない」
「ずるい」

 神崎が少しだけ笑って、そして小声で言った。

「覚えてる? 撤収班ルール第十六条」
「やめて!」
「そうやってたまに嫉妬して、俺を安心させて」
「余計なこと言わないルールは!?」
「これは二人だけ」
「二人だけでも言うな!」

 僕が抗議すると、神崎は周りに人がいないのを確認してから、触れるだけだった指をしっかりと僕の手に重ねた。

「……言いたい」

 心臓が、ドクンと跳ねる。
 
「……我慢しなさい。彼氏でしょ」
「我慢じゃない。努力」
「よし禁止」
「努力する」

 言った直後、神崎が言いかけて止まる。

「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」

 神崎が珍しく耳を赤くした。
 僕は、勝った気がして少しだけ笑った。

(……あ、笑えてる)



 しばらくして、神崎がぽつりと言った。

「先に言う」
「なにを」
「俺は、伊吹が不安になることはしない」

 静かな声だった。

「……うん」
「だから、伊吹も」
「うん?」
「不安になったら、すぐに言って」

 僕はノートを見つめたまま、小さく頷いた。

「……言えるようにする」

 神崎が頷いて、すごく小さい声で言った。

「……好き」

 僕は机に突っ伏したくなった。

「今言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」

 神崎が笑って、でも最後はちゃんと小声で言い直した。

「……ごめん。言わない努力する」
「努力だけはして!」
「する」

 僕はため息を吐いて、ペンを握り直した。

(彼氏って大変)

 でも、さっきみたいに胸がざわついても、
 神崎がちゃんと向き合ってくれるなら。
 僕は、たぶん大丈夫だ。