線引きルール、本番――は、思ったより消耗した。
(付き合ってる? って質問に答えるだけで精神が削れるの、一体なんで?)
僕、恋人申告でHP減るタイプなんだ。
それでもようやく一日が終わって、僕は少しだけ安心していた。
(……大丈夫。今日は乗り切った)
そう思ってたのに、神様は油断した人間を見逃さずに試練を与えてくるようだ。
◇
翌日、午後。
講義が早めに終わって、僕は図書館へ向かった。
広報の後片付けで溜まった資料を整理して、レポートも進めたい。
静かな廊下を曲がった瞬間、聞き覚えのある声に思わず足が止まった。
「神崎くん、ちょっといい?」
声の主は、学祭の実行委員の先輩だ。綺麗で、手際が良くて、“できる人”の空気がある。
そして――神崎の隣に、距離近めで立ってる。
(……え)
神崎は外面モードの薄い笑顔で、頷いていた。
「はい。どうしました」
先輩がスマホを見せる。
「打ち上げの写真、アルバム作るからさ。神崎くん、これ選んでくれない? センス良いし」
「わかりました」
「神崎くんの好みで選んで」
神崎がスマホを覗き込む。先輩も覗き込む。
距離が近い。肩が当たりそう。息も当たりそう。
僕の胸が、ズキンと変な音を立てた。
(……別に、ただの用事だよね?)
わかってる。わかってるのに、頭の中が勝手にざわざわする。
(外面モード、出してる……)
(あの笑顔、僕以外にもするんだ……当たり前だけど)
(ていうか、距離が近い)
僕はその場に立ち尽くしたまま、どうにかこうにか“平気な顔”を作った。
(僕は大人。僕は副委員長経験者。僕は平気)
――ぜんぜん平気じゃない。
でも、立ち去るのもなんだか負けた気がして、僕は図書館の入口付近でわざと本棚を眺めるフリをした。
フリが雑すぎて、自分でも笑いそうになる。
(僕、何してんの……)
◇
数分後。
「伊吹」
低い声が、いつのまにかすぐ後ろに忍び寄っていた。
僕はドキッとしながら慌てて振り向いた。
「……なに」
神崎がいた。いつも通りの顔。
でも目だけが、やけに真剣だった。
「今、何してた」
「本、見てた」
「見てない」
「見てた!」
「背表紙、逆」
「えっ」
僕は慌てて手元の本の背表紙を見た……逆だった。恥ずかしい。
神崎が小さくため息をついた。
「顔」
「顔やめて」
「落ちてる」
「落ちてない!」
「落ちてる」
神崎は淡々と、でも少しだけ柔らかい声で言った。
「さっきの先輩の件?」
(心読まれてる!)
僕は思わず言葉に詰まった。
「……別に」
「別に?」
「別に、何も……」
言いながら、自分でも気づいてしまった。
(これ、完全に嫉妬してる言い方だ)
神崎が一瞬黙ってから、僕の目をまっすぐ見て言った。
「嫉妬?」
直球すぎる。やめて。
「ち、違うし」
「違うなら、今の顔は何」
「……疲れてるだけ」
「疲れてる顔じゃない」
「じゃあ何の顔」
神崎が、少しだけ困ったみたいに眉を下げた。
「……俺が、他の人と近いの、嫌だった?」
胸がぎゅっとなる。
僕は目を逸らしたまま、小さい声で言った。
「……嫌、っていうか」
「うん」
「……やだ」
言えた瞬間、心臓がうるさくなった。
(言っちゃった)
神崎は、たった一言で空気を変えた。
「……わかった」
すごく短い言葉なのに、すごく安心する。
「線引きルール?」
僕が意地悪く聞くと、神崎は首を振った。
「これは、ルールじゃない」
「じゃあ何」
神崎が、撤収班じゃない顔で、静かに言った。
「……彼氏としての配慮」
ずるい。
その言い方ずるい。
僕が黙っていると、神崎は続けた。
「さっきは、写真を選別してた。距離近かったのは、俺が悪い」
「……神崎が悪いの?」
「悪い」
「即認めた」
「伊吹が嫌なら、次から離れる」
神崎は“我慢する”じゃなくて、“合わせる”を選ぶ。
それが、胸にすとんと落ちてくる。
でも、僕は少しだけ反撃したくなった。
「……じゃあ、僕が他の人と距離近かったら?」
「嫌」
即答。
「早っ」
「嫌」
「理由は?」
神崎がすっと目を細める。
「……独占欲」
さらっと言うな。
顔がじわじわと熱くなる。
「今言う!?」
「今言う」
「図書館だよ!」
「静かだから小声」
「そういう問題じゃない!」
神崎が声を出さずに笑った。
「伊吹、赤い」
「赤くない!」
「赤い」
「やめて!」
僕が小声で怒ると、神崎が一歩だけ僕に近づいた。
近い。
でも、近いのが嫌じゃないのが悔しい。
神崎が、さらに小声で言う。
「……伊吹が言ってくれて、嬉しい」
「何を」
「やだ、って」
胸がぎゅっとなる。
「……言うの、恥ずかしかった」
「うん」
「でも、言わないと分かんないのも、分かった」
神崎が頷いた。
「偉い」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ言い直す」
神崎が一拍置いて、真面目な声で言った。
「……ありがとう」
その「ありがとう」が、今日一番刺さった。
◇
図書館の奥の閲覧席に、僕らは並んで座った。
勉強するはずなのに、僕の頭はさっきのことでいっぱいだった。
ノートを開いても文字が目の上を滑って行く。
「伊吹」
神崎が小声で言った。
「落ち着いた?」
「……落ち着いてない」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「手」
「え?」
神崎が机の下で、指先だけ僕の指に触れた。
いつもと同じ。触れるだけ。
「これで落ち着く」
「……神崎、それ、ずるい」
「ずるくない」
「ずるい」
神崎が少しだけ笑って、そして小声で言った。
「覚えてる? 撤収班ルール第十六条」
「やめて!」
「そうやってたまに嫉妬して、俺を安心させて」
「余計なこと言わないルールは!?」
「これは二人だけ」
「二人だけでも言うな!」
僕が抗議すると、神崎は周りに人がいないのを確認してから、触れるだけだった指をしっかりと僕の手に重ねた。
「……言いたい」
心臓が、ドクンと跳ねる。
「……我慢しなさい。彼氏でしょ」
「我慢じゃない。努力」
「よし禁止」
「努力する」
言った直後、神崎が言いかけて止まる。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎が珍しく耳を赤くした。
僕は、勝った気がして少しだけ笑った。
(……あ、笑えてる)
◇
しばらくして、神崎がぽつりと言った。
「先に言う」
「なにを」
「俺は、伊吹が不安になることはしない」
静かな声だった。
「……うん」
「だから、伊吹も」
「うん?」
「不安になったら、すぐに言って」
僕はノートを見つめたまま、小さく頷いた。
「……言えるようにする」
神崎が頷いて、すごく小さい声で言った。
「……好き」
僕は机に突っ伏したくなった。
「今言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」
神崎が笑って、でも最後はちゃんと小声で言い直した。
「……ごめん。言わない努力する」
「努力だけはして!」
「する」
僕はため息を吐いて、ペンを握り直した。
(彼氏って大変)
でも、さっきみたいに胸がざわついても、
神崎がちゃんと向き合ってくれるなら。
僕は、たぶん大丈夫だ。
(付き合ってる? って質問に答えるだけで精神が削れるの、一体なんで?)
僕、恋人申告でHP減るタイプなんだ。
それでもようやく一日が終わって、僕は少しだけ安心していた。
(……大丈夫。今日は乗り切った)
そう思ってたのに、神様は油断した人間を見逃さずに試練を与えてくるようだ。
◇
翌日、午後。
講義が早めに終わって、僕は図書館へ向かった。
広報の後片付けで溜まった資料を整理して、レポートも進めたい。
静かな廊下を曲がった瞬間、聞き覚えのある声に思わず足が止まった。
「神崎くん、ちょっといい?」
声の主は、学祭の実行委員の先輩だ。綺麗で、手際が良くて、“できる人”の空気がある。
そして――神崎の隣に、距離近めで立ってる。
(……え)
神崎は外面モードの薄い笑顔で、頷いていた。
「はい。どうしました」
先輩がスマホを見せる。
「打ち上げの写真、アルバム作るからさ。神崎くん、これ選んでくれない? センス良いし」
「わかりました」
「神崎くんの好みで選んで」
神崎がスマホを覗き込む。先輩も覗き込む。
距離が近い。肩が当たりそう。息も当たりそう。
僕の胸が、ズキンと変な音を立てた。
(……別に、ただの用事だよね?)
わかってる。わかってるのに、頭の中が勝手にざわざわする。
(外面モード、出してる……)
(あの笑顔、僕以外にもするんだ……当たり前だけど)
(ていうか、距離が近い)
僕はその場に立ち尽くしたまま、どうにかこうにか“平気な顔”を作った。
(僕は大人。僕は副委員長経験者。僕は平気)
――ぜんぜん平気じゃない。
でも、立ち去るのもなんだか負けた気がして、僕は図書館の入口付近でわざと本棚を眺めるフリをした。
フリが雑すぎて、自分でも笑いそうになる。
(僕、何してんの……)
◇
数分後。
「伊吹」
低い声が、いつのまにかすぐ後ろに忍び寄っていた。
僕はドキッとしながら慌てて振り向いた。
「……なに」
神崎がいた。いつも通りの顔。
でも目だけが、やけに真剣だった。
「今、何してた」
「本、見てた」
「見てない」
「見てた!」
「背表紙、逆」
「えっ」
僕は慌てて手元の本の背表紙を見た……逆だった。恥ずかしい。
神崎が小さくため息をついた。
「顔」
「顔やめて」
「落ちてる」
「落ちてない!」
「落ちてる」
神崎は淡々と、でも少しだけ柔らかい声で言った。
「さっきの先輩の件?」
(心読まれてる!)
僕は思わず言葉に詰まった。
「……別に」
「別に?」
「別に、何も……」
言いながら、自分でも気づいてしまった。
(これ、完全に嫉妬してる言い方だ)
神崎が一瞬黙ってから、僕の目をまっすぐ見て言った。
「嫉妬?」
直球すぎる。やめて。
「ち、違うし」
「違うなら、今の顔は何」
「……疲れてるだけ」
「疲れてる顔じゃない」
「じゃあ何の顔」
神崎が、少しだけ困ったみたいに眉を下げた。
「……俺が、他の人と近いの、嫌だった?」
胸がぎゅっとなる。
僕は目を逸らしたまま、小さい声で言った。
「……嫌、っていうか」
「うん」
「……やだ」
言えた瞬間、心臓がうるさくなった。
(言っちゃった)
神崎は、たった一言で空気を変えた。
「……わかった」
すごく短い言葉なのに、すごく安心する。
「線引きルール?」
僕が意地悪く聞くと、神崎は首を振った。
「これは、ルールじゃない」
「じゃあ何」
神崎が、撤収班じゃない顔で、静かに言った。
「……彼氏としての配慮」
ずるい。
その言い方ずるい。
僕が黙っていると、神崎は続けた。
「さっきは、写真を選別してた。距離近かったのは、俺が悪い」
「……神崎が悪いの?」
「悪い」
「即認めた」
「伊吹が嫌なら、次から離れる」
神崎は“我慢する”じゃなくて、“合わせる”を選ぶ。
それが、胸にすとんと落ちてくる。
でも、僕は少しだけ反撃したくなった。
「……じゃあ、僕が他の人と距離近かったら?」
「嫌」
即答。
「早っ」
「嫌」
「理由は?」
神崎がすっと目を細める。
「……独占欲」
さらっと言うな。
顔がじわじわと熱くなる。
「今言う!?」
「今言う」
「図書館だよ!」
「静かだから小声」
「そういう問題じゃない!」
神崎が声を出さずに笑った。
「伊吹、赤い」
「赤くない!」
「赤い」
「やめて!」
僕が小声で怒ると、神崎が一歩だけ僕に近づいた。
近い。
でも、近いのが嫌じゃないのが悔しい。
神崎が、さらに小声で言う。
「……伊吹が言ってくれて、嬉しい」
「何を」
「やだ、って」
胸がぎゅっとなる。
「……言うの、恥ずかしかった」
「うん」
「でも、言わないと分かんないのも、分かった」
神崎が頷いた。
「偉い」
「犬みたいに言うな!」
「じゃあ言い直す」
神崎が一拍置いて、真面目な声で言った。
「……ありがとう」
その「ありがとう」が、今日一番刺さった。
◇
図書館の奥の閲覧席に、僕らは並んで座った。
勉強するはずなのに、僕の頭はさっきのことでいっぱいだった。
ノートを開いても文字が目の上を滑って行く。
「伊吹」
神崎が小声で言った。
「落ち着いた?」
「……落ち着いてない」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「手」
「え?」
神崎が机の下で、指先だけ僕の指に触れた。
いつもと同じ。触れるだけ。
「これで落ち着く」
「……神崎、それ、ずるい」
「ずるくない」
「ずるい」
神崎が少しだけ笑って、そして小声で言った。
「覚えてる? 撤収班ルール第十六条」
「やめて!」
「そうやってたまに嫉妬して、俺を安心させて」
「余計なこと言わないルールは!?」
「これは二人だけ」
「二人だけでも言うな!」
僕が抗議すると、神崎は周りに人がいないのを確認してから、触れるだけだった指をしっかりと僕の手に重ねた。
「……言いたい」
心臓が、ドクンと跳ねる。
「……我慢しなさい。彼氏でしょ」
「我慢じゃない。努力」
「よし禁止」
「努力する」
言った直後、神崎が言いかけて止まる。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎が珍しく耳を赤くした。
僕は、勝った気がして少しだけ笑った。
(……あ、笑えてる)
◇
しばらくして、神崎がぽつりと言った。
「先に言う」
「なにを」
「俺は、伊吹が不安になることはしない」
静かな声だった。
「……うん」
「だから、伊吹も」
「うん?」
「不安になったら、すぐに言って」
僕はノートを見つめたまま、小さく頷いた。
「……言えるようにする」
神崎が頷いて、すごく小さい声で言った。
「……好き」
僕は机に突っ伏したくなった。
「今言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」
神崎が笑って、でも最後はちゃんと小声で言い直した。
「……ごめん。言わない努力する」
「努力だけはして!」
「する」
僕はため息を吐いて、ペンを握り直した。
(彼氏って大変)
でも、さっきみたいに胸がざわついても、
神崎がちゃんと向き合ってくれるなら。
僕は、たぶん大丈夫だ。



