撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 次の日。
 僕はキャンパスに入った瞬間から、なんとなくいつもと違う視線を感じていた。
 気のせいじゃない。
 通りすがりの誰かが、こそこそ話してる。
 目が合うと、すぐに逸らされる。

(……嫌な予感)

 講義棟へ向かう途中、後ろから三木が飛びついてきた。

「伊吹!!」
「うわっ、何!?」
「お前らさ、すっごい噂になってんだけど!」

 ドキッとした。いや、ギクッとした、の方が正しいかも。

「噂って……」
「伊吹と神崎くんが“付き合ってる説”!」

 僕の脳内が一瞬真っ白になった。

「……は?」
「いや、マジで。“廊下で一緒にいた”とか“席近い”とか“学祭からずっと一緒”とか、目撃情報が多すぎて」

(目撃情報って何の事件!?)

 呆然とする僕の目の前で、三木がニヤニヤしながら続ける。

「で、真相は? 付き合ってんの?」

 僕は反射的に否定しそうになって――止まった。

(否定したら、神崎が……)

 でも肯定したら、大学生活が終わる。
 僕の平穏が死ぬ。

(やばい、詰んだ)
 
 僕がなにも言えずに黙っていると、背後から低い声が聞こえてきた。

「付き合ってる」

 神崎だった。

(え、今、世界に放送した?)
 
 僕は文字通りその場でピシッと固まってしまった。
 三木の目がぱっと輝く。

「マジ!? マジ!? うわーー!!」

 僕は慌てて誤魔化そうと手を振りながら、神崎に食ってかかった。

「ちょっと、何言って……!」

 そんな僕にはお構いなしで、神崎はいつも通りの涼しい顔で言う。

「事実」
「今言う必要ある!?」
「噂は放置すると増える」
「増えるけど! 確かに増えるけども!!」

 三木がポンポンと軽いノリで、僕の肩を叩いてくる。

「いやー、やっぱそうだと思ったわ! おめでと!」
「おめでとう言うな!」
「言うだろ!」

 三木が笑って、「じゃ、俺講義行ってくるわ!」と去っていった。来るのも去るのも早い。忍者かよ。いや置いていくな!
 僕は神崎を引きずるようにして人の少ない廊下へ連れていった。

「……神崎!!」
「何」
「“付き合ってる”って言った!!」
「言った」
「言ったじゃなくて!!」

 神崎は、至極当たり前だと言わんばかりの表情で返してくる。

「嘘はつかない」
「そこは嘘ついていいところ!!」
「昨日“線引き”って言っただろ」
「それとこれとは――」
「同じ」

 神崎が真剣な表情で続ける。

「曖昧にすると、余計に絡まれる」

 ……確かに、僕は曖昧にして面倒を増やしがちだ。
 でも、いきなり公表は極端すぎる。

「……線引きの仕方、相談して決めようって言ったでしょ!」

 僕が言うと、神崎は一瞬言葉に詰まった。

「……ごめん」

 謝るのが早い。
 でもそれだけじゃなくて、神崎は真剣な表情で続けた。

「伊吹が嫌なら、外では言わない」

 昨日の喧嘩未満を思い出す。
 “我慢する”じゃなく、“合わせる”。
 胸の動悸が、少しだけ落ち着いてくる。

「……嫌、っていうか」

 僕は軽く深呼吸をした。

「僕は、隠したいわけじゃない。でも、みんなに見られるのが恥ずかしい」
「見られるのが嫌?」
「うん……嫌というか……」

 神崎が頷く。

「わかった。じゃあ決める」
「決める?」

 神崎は淡々と続けた。

「線引きルール。これは撤収班じゃなくて、“彼氏”の方」
「またルール!?」
「ルールは便利」
「便利だけど!」

 神崎が確認するように指を折りながら、一つずつルールを口に出していく。

「一。聞かれたら嘘はつかない」
「いきなりハードル高い!」
「二。自分からは言わない」
「それは助かる!」
「三。伊吹が困ってたら、俺が止める」
「それも助かる……けど言い方は優しくね」
「努力する」
「よし禁止」
「努力する」

 神崎が小さく笑って、最後に言った。

「四。伊吹の許可なく、勝手に公表しない」
「……それ、それ大事」

 僕が頷くと、神崎が急に叱られた子犬のように眉を下げた。

「許可、欲しい」
「え?」

 神崎が視線を逸らして、珍しく小さい声で言う。

「……いつか、ちゃんと“彼氏”って言いたい」

 胸がぎゅっとなる。

「……今は、だめ?」

 神崎が子犬の表情のままで聞く。
 僕は焦って首を振った。

「だめじゃない! ただ……」

 ただ、心の準備が追いつかない。
 彼氏って言葉の重さに、僕がまだ慣れてない。
 僕は正直に言った。

「もう少しだけ、時間ちょうだい」

 神崎がすぐに頷く。

「うん」

 その即答が、じわりと沁みるように優しい。

「……ありがとう」
「うん」
「……よしって言う?」
「言わない」
「努力してる」
「努力してる」

 神崎が小さく笑った。



 講義の教室に入ると、空気がまたいつもと少しだけ違う。
 チラッチラッと僕らに向けられる視線。ヒソヒソ声のささやき。
 でも僕は、さっきより少しだけ落ち着いていた。

(線引き、決めたから)

 席に着くと、神崎が小声で言った。

「悠真」
「……なに」
「緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してないってば」

 神崎が机の下で、指先だけ僕の指にちょんっと触れた。
 触れるだけで、こわばっていた体の緊張がふわりと解ける気がした。

「……大丈夫」

 神崎が静かに言う。

「噂は消える。俺がいる」

 またそれ。
 でも今日は、素直に思った。

(俺がいるって言われるのは、なんか嬉しい)

 頼り甲斐があって、安心する感じ。
 僕は小声で返した。

「……うん。ありがとう、蓮」

 神崎の視線が熱を帯びる。

「……好き」
「今言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」

 僕が小声で抗議すると、神崎が声を立てないように笑った。

 噂は怖い。
 でも、二人で線を引けば、怖さは少しだけ小さくなる。
 たぶんこれが、“彼氏”ってやつの現実なんだと思う。