昼休みが終わって、午後の講義へ向かう途中。
僕はさっきの“喧嘩未満”を思い出して、まだ胸の奥がむずむずしていた。
(合わせる、って言われたの、嬉しかったな……)
でも、嬉しいからって顔に出すと、神崎がまた「よし」って言いそうで嫌だ。
だから僕は、なるべく平常心を装って歩いていた。
……その結果、前を見てなかった。
「わっ」
廊下の角で人とぶつかりそうになって、僕は反射的に立ち止まった。
相手は、広報班の一年生の女の子――この前僕に話しかけてきた子だ。
「あっ、伊吹先輩!」
僕に気がついて、彼女はにこっと笑った。悪い子じゃない。むしろ素直でいい子だと思う。
だからこそ、気まずい。
「こんにちは。お疲れさま」
「この前、学祭ほんとすごかったです! 先輩、めちゃくちゃ頼りになってました!」
「ありがとう……」
嬉しい。けど、照れる。
僕が曖昧に笑った瞬間、彼女が少し声を落とした。
「あの……学祭終わったら、って言ってたじゃないですか」
……来た。
僕の心臓が、嫌な方向に跳ねる。
「えっと……」
断らなきゃいけない。ちゃんと。やさしく。失礼なく。
でも、僕の頭はこういう時、毎回遅れる。
そのとき、横から低い声が入った。
「伊吹」
神崎だ。
神崎は僕の肩に手を置く……まではしない。
でも、僕の隣にすっと立った。距離が近い。護衛の位置だ。
「今、急ぎ」
神崎が淡々と言うと、女の子が「あっ……すみません!」とすぐに引いた。
「大丈夫。あとで――」
僕が言いかけた瞬間。
「あとで、は難しい」
神崎がすかさず被せてきた。
女の子が一瞬固まる。
(うわ、言い方……)
僕は慌ててフォローしようとした。
「ごめんね、今日は難しくて。声かけてくれてありがとう」
女の子は小さく頷いて、「はい……」と目を伏せて去っていった。
残った廊下の空気が、ちょっとだけ冷たい。
僕は神崎を睨んだ。
「……神崎。今の言い方」
「何」
「きつい」
「きつくない」
「きついよ」
神崎は少し黙ってから、静かに言った。
「伊吹が困るのは嫌だ」
それは優しい理由なのに、さっきの言い方はちっとも優しくない。
「でも、ああいう子に、ああいう言い方は……」
僕が言いかけると、神崎の目がすっと細くなった。
「……伊吹は優しい」
「普通だよ」
「優しい。だから、押されやすい」
「押されやすくなんかない!」
僕が抗議すると、神崎は気まずそうにすいっと目を逸らした。
「……ごめん」
珍しい。すぐ謝った。
神崎が続ける。
「……でも、伊吹が“あとで”って言うの、嫌だった」
心臓が、また変な音を立てた。
「嫌って……」
「期待させる」
神崎の声が低い。真剣な声だ。
「伊吹は断るの下手。だから、俺が線を引く」
その言葉で、僕は少しだけ納得してしまった。
確かに僕は、優しくしようとして曖昧にして、結果的に相手を傷つけてしまっている気がする。
(僕の弱点、神崎に全部見抜かれてる……)
でも……
「線引くのはいいけど、言い方は優しくして」
でないと、神崎が悪者みたいになってしまうから。
僕が言うと、神崎が一拍置いて頷いた。
「……努力する」
「よし禁止」
「努力する」
神崎が小さく笑う。
それから、神崎はさらに声を落として言った。
「……嫉妬した」
さらっと言うな。
「今、言う?」
「今言う」
「廊下!」
「誰にも聞こえない距離」
「距離の問題じゃない!」
僕が顔を赤くすると、神崎が少しだけ目を細める。
「伊吹も嫉妬した」
「してない!」
「してた」
「してない!」
「してた」
僕は言い返す言葉を失った。
だって、さっきの女の子のことより、神崎の反応に心が揺れてることに気づいてしまったから。
◇
次の講義の教室に入ると、後ろの方の席が空いていた。今日は最前列じゃない。よかった。
僕が座ろうとした瞬間、神崎が小声で言った。
「悠真」
心臓がピクンと跳ねた。
「……なに」
「呼んだだけ」
「呼んだだけって……!」
神崎が涼しい顔で、でも小さい声で言った。
「内緒」
「内緒で呼ぶな」
「呼ぶ」
「やめて」
「やめない」
僕がむっとすると、神崎がさっそくお願いを使う。
「……お願い。呼ばせて」
ずるい。お願いって言われると弱い。
僕は周りを確認して、超小声で言った。
「……蓮」
神崎の視線が柔らかくなる。
「……いい」
「何が」
「それ」
「それって何」
「呼び方」
神崎が少し照れた様子で、机の下で僕の指に触れた。
触れるだけ。
繋ぐわけじゃない。
でも、胸の奥はちゃんと温かい。
(彼氏の距離感、難しい……)
でも、難しいからこそ、楽しいのかもしれない。
◇
講義が始まる直前、神崎が小声で言った。
「撤収班ルール第十七条」
「やめて!」
「内緒の呼び方は、増やしていい」
「ルールにするな!!」
僕が小声で抗議すると、神崎が笑った。
そして、僕にだけ聞こえる距離で、小さくささやいた。
「……好き」
僕は思わず机に突っ伏したくなった。
「今それ言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」
神崎の笑い声が、近い。
僕は顔を赤くしたまま、ノートを開いた。
(今日も、平常心は無理だ)
僕はさっきの“喧嘩未満”を思い出して、まだ胸の奥がむずむずしていた。
(合わせる、って言われたの、嬉しかったな……)
でも、嬉しいからって顔に出すと、神崎がまた「よし」って言いそうで嫌だ。
だから僕は、なるべく平常心を装って歩いていた。
……その結果、前を見てなかった。
「わっ」
廊下の角で人とぶつかりそうになって、僕は反射的に立ち止まった。
相手は、広報班の一年生の女の子――この前僕に話しかけてきた子だ。
「あっ、伊吹先輩!」
僕に気がついて、彼女はにこっと笑った。悪い子じゃない。むしろ素直でいい子だと思う。
だからこそ、気まずい。
「こんにちは。お疲れさま」
「この前、学祭ほんとすごかったです! 先輩、めちゃくちゃ頼りになってました!」
「ありがとう……」
嬉しい。けど、照れる。
僕が曖昧に笑った瞬間、彼女が少し声を落とした。
「あの……学祭終わったら、って言ってたじゃないですか」
……来た。
僕の心臓が、嫌な方向に跳ねる。
「えっと……」
断らなきゃいけない。ちゃんと。やさしく。失礼なく。
でも、僕の頭はこういう時、毎回遅れる。
そのとき、横から低い声が入った。
「伊吹」
神崎だ。
神崎は僕の肩に手を置く……まではしない。
でも、僕の隣にすっと立った。距離が近い。護衛の位置だ。
「今、急ぎ」
神崎が淡々と言うと、女の子が「あっ……すみません!」とすぐに引いた。
「大丈夫。あとで――」
僕が言いかけた瞬間。
「あとで、は難しい」
神崎がすかさず被せてきた。
女の子が一瞬固まる。
(うわ、言い方……)
僕は慌ててフォローしようとした。
「ごめんね、今日は難しくて。声かけてくれてありがとう」
女の子は小さく頷いて、「はい……」と目を伏せて去っていった。
残った廊下の空気が、ちょっとだけ冷たい。
僕は神崎を睨んだ。
「……神崎。今の言い方」
「何」
「きつい」
「きつくない」
「きついよ」
神崎は少し黙ってから、静かに言った。
「伊吹が困るのは嫌だ」
それは優しい理由なのに、さっきの言い方はちっとも優しくない。
「でも、ああいう子に、ああいう言い方は……」
僕が言いかけると、神崎の目がすっと細くなった。
「……伊吹は優しい」
「普通だよ」
「優しい。だから、押されやすい」
「押されやすくなんかない!」
僕が抗議すると、神崎は気まずそうにすいっと目を逸らした。
「……ごめん」
珍しい。すぐ謝った。
神崎が続ける。
「……でも、伊吹が“あとで”って言うの、嫌だった」
心臓が、また変な音を立てた。
「嫌って……」
「期待させる」
神崎の声が低い。真剣な声だ。
「伊吹は断るの下手。だから、俺が線を引く」
その言葉で、僕は少しだけ納得してしまった。
確かに僕は、優しくしようとして曖昧にして、結果的に相手を傷つけてしまっている気がする。
(僕の弱点、神崎に全部見抜かれてる……)
でも……
「線引くのはいいけど、言い方は優しくして」
でないと、神崎が悪者みたいになってしまうから。
僕が言うと、神崎が一拍置いて頷いた。
「……努力する」
「よし禁止」
「努力する」
神崎が小さく笑う。
それから、神崎はさらに声を落として言った。
「……嫉妬した」
さらっと言うな。
「今、言う?」
「今言う」
「廊下!」
「誰にも聞こえない距離」
「距離の問題じゃない!」
僕が顔を赤くすると、神崎が少しだけ目を細める。
「伊吹も嫉妬した」
「してない!」
「してた」
「してない!」
「してた」
僕は言い返す言葉を失った。
だって、さっきの女の子のことより、神崎の反応に心が揺れてることに気づいてしまったから。
◇
次の講義の教室に入ると、後ろの方の席が空いていた。今日は最前列じゃない。よかった。
僕が座ろうとした瞬間、神崎が小声で言った。
「悠真」
心臓がピクンと跳ねた。
「……なに」
「呼んだだけ」
「呼んだだけって……!」
神崎が涼しい顔で、でも小さい声で言った。
「内緒」
「内緒で呼ぶな」
「呼ぶ」
「やめて」
「やめない」
僕がむっとすると、神崎がさっそくお願いを使う。
「……お願い。呼ばせて」
ずるい。お願いって言われると弱い。
僕は周りを確認して、超小声で言った。
「……蓮」
神崎の視線が柔らかくなる。
「……いい」
「何が」
「それ」
「それって何」
「呼び方」
神崎が少し照れた様子で、机の下で僕の指に触れた。
触れるだけ。
繋ぐわけじゃない。
でも、胸の奥はちゃんと温かい。
(彼氏の距離感、難しい……)
でも、難しいからこそ、楽しいのかもしれない。
◇
講義が始まる直前、神崎が小声で言った。
「撤収班ルール第十七条」
「やめて!」
「内緒の呼び方は、増やしていい」
「ルールにするな!!」
僕が小声で抗議すると、神崎が笑った。
そして、僕にだけ聞こえる距離で、小さくささやいた。
「……好き」
僕は思わず机に突っ伏したくなった。
「今それ言う!?」
「今言う」
「調子乗ってる!」
「乗ってない」
「乗ってる!」
神崎の笑い声が、近い。
僕は顔を赤くしたまま、ノートを開いた。
(今日も、平常心は無理だ)



