撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 僕たちは、“大事な予定”のために学食へと向かった。
 昨日まで「撤収」で疲れ切っていたはずなのに、大学生の胃は普通に動く。僕はうどんを選び、神崎はカレーを選んだ。神崎がカレーを選ぶのは珍しい。

「神崎、カレー食べるんだ」
「今日は甘いの」
「甘口?」
「伊吹が甘いの欲しい顔してる」
「また顔で判断!」
「観察結果」

 神崎は微かに目を細めると、カレーをすくったスプーンをこちらに向けてきた。

「一口いる?」
「まだ食べてないじゃん」
「レディファースト」
「レディじゃないし!」
 
 僕がツッコんだところで、神崎がついでみたいにさらっと言った。

「さっきの“予定ある”、よかった」

 ……またそれ。

 胸がくすぐったくて、むず痒くて、僕は平静を装うので精一杯だった。

「別に。咄嗟に出ただけ」
「咄嗟に出るのが一番本音」

 神崎の言葉が、妙に核心を突いてくる。
 僕は学食のプラスチック製の箸をぎゅっと握り直した。

「……さっきさ」
「ん」
「僕が勝手に口出したみたいになったよね」
「口出してない」
「口出したよ。あの子、誘ってくれてたのに」
「断っていい」
「神崎が断るならいいけど、僕が断ったみたいになった」

 神崎がほんの少しだけ、ひょいっと眉を動かした。

「嫌だった?」
「……嫌っていうか」

 なんて言ったらいいんだろう? 自分の気持ちなのに、自分でもよく分からない。

(僕、何が嫌だったんだ?)

 嫉妬した自分が恥ずかしかったのか。
 相手に悪いことをしたと後ろめたかったのか。
 それとも――神崎がどう思うかが怖かったのか。
 僕が黙ると、神崎が淡々と聞いてきた。

「どれ」
「……どれって何」
「嫌だった理由」

 質問が鋭い。僕の脳内なんか、まるでお見通しみたいだ。逃げ道がない。

「……恥ずかしかった」

 僕は小さい声で言った。

「彼氏とか、そういうの、まだ慣れてないから」

 神崎は一瞬黙ってから、ぼそりと言った。

「俺も慣れてない」
「嘘だ。神崎、慣れてる顔してる」
「顔だけ」

 神崎の口元がほんの少し緩む。
 でも次の言葉は、いつもより少しだけ硬かった。

「伊吹が恥ずかしいなら、俺は我慢する」
「我慢って、なんか言い方が……」
「じゃあ、どう言えばいい」

 神崎の目が、急にいつもより真剣になる。
 その目に見つめられて、僕の胸がざわっとした。

(あ、これ……喧嘩の匂い)

 僕は焦って口を開いた。

「我慢じゃなくて、相談、かな」
「相談」
「うん。僕、いきなりだとパニックになるから」

 神崎がゆっくりと頷いた。

「わかった」

 ……よかった。
 そう思った瞬間、神崎が言葉を続けた。

「でも」

 ドキッとする。

「でも、何」

 神崎はスプーンを置いて、僕の顔を再びじっと見つめた。

「伊吹が“予定ある”って言ったの、本当に嬉しかった」
「……またそれ」
「嬉しい」

 神崎が淡々と言い切るから、余計にむず痒い。

「神崎、そういうの、外で言うと僕が死ぬ」
「死なない」
「死ぬ」
「死なない」
「死ぬってば」

 僕がむっとすると、神崎が声を落として言った。

「……じゃあ、外では言わない」

 あっさり。
 それが逆に引っかかった。

(え、そんな簡単に引くの?)

 僕は自分でも意味がわからないまま、無意識に言葉を発していた。

「……別に、言ってもいいけど」

 神崎が一瞬固まる。

「どっち」
「え」
「言っていいのか、ダメなのか」

 神崎の声が、珍しく少しだけ強い。
 僕の背中を、軽く冷や汗がつーっと流れ落ちていく。

(あ、これだ。これ、喧嘩だ)

 僕は慌てて言い訳した。

「ち、違う。状況によるっていうか……」
「状況って何」
「人が多いところとかで、急に言われると……」

 神崎が短く息を吐いてから言った。
 
「……めんどくさい、って思った?」

 その一言が、胸にグサリと刺さった。

「めんどくさくない!」
「めんどくさいって言ってない」
「言ったじゃん!」
「確認しただけ」

 神崎の言葉は冷たいわけじゃないのに、僕の中で変に痛い。

(僕、今、試されてるみたいで嫌だ)

 僕は箸を置いて、チラッと神崎のことを睨んだ。

「……神崎、僕にいきなり“好き”って言ったじゃん」
「言った」
「僕、あれ、すごいパニックになった」
「ごめん」
「ごめんじゃなくて……」

 僕は自分でも何が言いたいのか分からなくなって、思わず言葉に詰まった。
 神崎は真剣な目で僕をじっと見つめながら、静かに言った。

「じゃあ、どうすればいい」

 その問いが、怖い。
 僕は答えを持っていない。
 ただ、神崎が大事で、でも恥ずかしくて、でも嬉しくて、でも怖い。

(感情が渋滞してる)

 僕が黙っていると、神崎の目が少しだけ揺れた。

「……伊吹」
「……なに」
「俺、伊吹が嫌がることはしたくない」

 胸がぎゅっとなる。

「でも、何が嫌か、言ってくれないとわからない」

 神崎がまっすぐすぎる。
 まっすぐで、優しくて、だからこそ逃げたくなる。
 僕は小さい声で言った。

「……僕が嫌なのは」

 すうっと大きく息を吸って、やっと言葉にした。

「“我慢する”って言われること」

 神崎が、パチパチと目を瞬かせた。

「我慢?」
「うん……我慢って、なんだか僕が悪いみたいに聞こえる」
「……」
「神崎が我慢してるって思うと、僕が苦しくなる」

 言いながら、恥ずかしさに体がじわじわと熱ってくる。
 でも僕、こんなこと言えるんだ、とちょっとだけ嬉しくもあった。
 神崎がゆっくりと息を吐いた。

「……ごめん」
「謝らないで」
「……じゃあ訂正。『我慢』じゃない。伊吹のペースに合わせる」

 胸の奥が、ふっと軽くなる。

「……それなら、いいよ」

 神崎がこくりと頷いた。

「伊吹」
「え」
「教えて。俺、そんなにがっついてる?」

 その言い方が、ずるいほど優しい。
 僕は思わず小さく笑ってしまった。

「……神崎のペースは、早い」
「早い」
「早すぎる。もっとペース落として」
「努力する」
「“よし”も禁止」
「……努力する」

 神崎が少しだけ笑った。
 僕は箸を持ち直して、うどんをすすった。
 さっきまで喉を通らなかったのが、ちゃんと通るようになっている。

(これ、喧嘩未満だったけど……)

 でも、胸の奥に残ったのは、嫌な感じじゃなかった。
 神崎が“我慢”をやめて、“合わせる”って言ってくれたこと。
 それが、彼氏の実感みたいに残っていた。



 昼飯を終えて立ち上がると、神崎が小声で言った。

「伊吹」
「なに」
「さっきの」
「どれ」
「……好き」

 今ここで言う!? と思ったけど、学食の隅で、周りに人も少なかった。
 僕は顔を赤くしながら、小声で返事を返した。

「……僕も」

 神崎の視線が柔らかくなる。

「よし」
「だから言うなってば!」
「……言っちゃった」

 言い方が可愛くて、僕はくすっと笑ってしまった。

(こういうの、悪くない)

 付き合う前の言い合いとは違う、互いの心と心をこすり合わせるような、些細ないさかい。
 たぶん――これが、二人の“はじめての喧嘩”の形なんだと、僕は思った。