撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 翌日。
 講義開始十分前。
 僕はいつもの席に向かって歩いて――そこで、立ち止まった。
 ……席が埋まってる。

(……いや、別にここ僕の席じゃないけど!?)

 当然指定席じゃない。わかってる。わかってるけど、僕はいつもこの列のこの辺に座ってノートを取ってた。ルーティンが崩れると不安になるタイプだ。なんで今日に限って空いてないんだろう。
 僕が呆然としていると、背後から低い声が聞こえてきた。

「伊吹」

 振り向くと、神崎がいた。涼しい顔。いつも通り。なのに、今日は妙に得意げに見える。

「……何」
「席」
「席が無い」
「ある」
「どこ」

 神崎が顎で前方を示した。
 端っこ――だけど、最前列。

(え、無理)

「無理」

 僕が即答すると、神崎も速攻で返してきた。

「無理じゃない」
「無理!」
「無理じゃない」
「無理ってば!」
「伊吹、声でかい」
「神崎が変な提案するから!」

 周囲の視線が刺さる。恥ずかしい。
 神崎は平然と僕の腕を軽く引いた。

「来い」
「命令形やめて」
「……お願い。来て」

 言い直すのずるい。

 僕が渋々ついて行くと、最前列の席の一つが、なぜか空いていた。
 いや、正確には――神崎が荷物を置いて確保していた。

「いつの間に!?」
「今」
「今!?」
「混みそうだったから、さっと置いてきた。注意される前に早く座ろう」

 神崎は涼しい顔で淡々と言う。

「席取りは護衛」
「護衛万能すぎる!」

 僕は椅子に座りながら、神崎を睨んだ。

「……っていうか、なんで最前列」
「よく見えるから」
「先生の毛穴まで見えるよ!」
「集中できる」
「逆にできない!」

 神崎が小さく笑って、僕のノートを覗いた。

「今日、ちゃんとノート取る?」
「もちろん取るよ?」
「副委員長じゃなくても真面目」
「無駄にって言ったら殴るよ」
「言わない」
「ほんと?」
「無駄がないくらい」
「言ってるじゃん!」

 僕が小声でツッコむと、神崎が声を立てないように笑った。
 授業前なのに心臓がうるさい。

(これ、彼氏の弊害だ……)



 講義が始まった。
 先生の声が近くて、板書が眩しい。逃げ場がない。最前列は精神が鍛えられる。
 僕は必死にノートを取った。
 神崎はノートを取らない。全部頭に入ってる顔してる。腹立つ。
 途中、僕がうっかり落としたペンが、床に転がった。

「あっ」

 拾おうとして身をかがめた瞬間、神崎の手が先に動いた。
 ペンがすいっと僕の手に戻ってくる。

「……ありがと」
「うん」

 たったそれだけなのに、心臓がピクンと跳ねる。

(落ち着け。授業中。落ち着け)

 でも神崎は、僕の方を見ずに、静かに言った。

「伊吹、手、震えてる」
「震えてない」
「震えてる」
「寒いだけ」
「暑い」
「……っ」

 言われて気づいた。確かに教室は暖房がガンガンに効いてて暑い。
 つまり僕が緊張してるだけ。最前列のせいじゃなくて、隣の人のせい。
 神崎が、再びかがみ込むフリをしながら、机の下で自然に僕の手に触れた。
 指先だけ。ほんの一瞬。
 僕の身体がピシッと固まる。

(今!? 授業中!!)

 神崎は涼しい顔のまま、小さい声で言った。

「落ち着け」
「命令形……」
「……お願い。落ち着いて」

 言い直すのずるい。
 僕は深呼吸して、ノートに視線を戻した。
 机の下で、触れてすぐに離れた指先の余韻がまだ残っている。
 緊張してるはずなのに、なぜだか安心する。矛盾。

(彼氏って、こういうこと……?)



 講義が終わって、教室がザワザワとざわつき始める。
 僕はやっと大きく息を吐いた。

「……生き延びた」
「余裕だった」
「余裕だったのは神崎だけ!」

 席を立とうとした瞬間、後ろから声がした。

「神崎くん!」

 振り向くと、同じ学科の女子が立っていた。
 髪が綺麗で、笑顔も綺麗で、いかにも“モテる女子”って雰囲気。

「この前、学祭で誘導してくれてありがとう! すごく助かった!」
「ああ、どういたしまして」

 神崎が外面モードで返す。丁寧で優しい、薄い笑顔。

(出た。外面)

 女子が目をキラキラさせながら話を続けた。

「今度、お礼したくて……よかったらご飯でも――」

 僕の心臓が、どくんと大きく鳴った。
 神崎が返事をするより先に、僕の口が動いた。

「すみません」

 女子がきょとんとして僕の方を見る。

「え?」

 僕は自分の声がやけに冷静なことに、自分でびっくりした。

「神崎、今日は……その、予定あるので」

 言ってしまってから、やっと気がついた。

(え、僕、今、何言った?)

 神崎が一瞬目を丸くして、すぐに口元を緩めた。

「……そう。予定ある」

 女子が「そ、そうなんだ……」と引き下がっていく。
 去り際、僕の方をちらっと見た。鋭い。こわい。
 教室の外に出た瞬間、僕はおずおずと神崎を見上げた。

「……今の」
「何?」
「予定ある、って」
「言ったの伊吹」
「言ったけど、別に否定してくれても……」

 神崎が珍しく、わかりやすく嬉しそうな顔をした。

「……かわいい」
「かわいくない!」
「かわいい」
「神崎!」

 神崎は涼しい顔に戻って、さらっと言った。

「撤収班ルール第十六条」
「やめて!」
「伊吹は嫉妬したら、素直に認めること」
「ルールにするな!!」

 僕が叫ぶと、神崎が笑った。
 そして、わざとらしく真面目な声で言う。

「じゃあ訂正」
「なに」
「……伊吹はたまに嫉妬して、俺を安心させること」

 その言い方が、ずるかった。
 嫉妬って黒くて嫌な感情のはずなのに、まるであったかい感情みたいな言い方だ。
 僕は目を逸らして、ぶっきらぼうに言った。

「……別に嫉妬じゃないし」
「嫉妬」
「違う!」
「違わない」
「違うってば!」

 神崎が小さく笑って、僕のバッグを軽く引いた。

「行くぞ。予定」
「予定って何」

 神崎が、少し考えてから口を開いた。

「昼飯」
「それ予定なの!?」
「大事な予定」

 僕は呆れながらも、神崎の隣に並んで歩いた。

 彼氏の席取り。机の下でこっそり触れた指先。
 そして、初めての、嫉妬っぽい感情。

(……彼氏って、思ったより大変かも)

 でも、なぜだか不思議と嫌じゃなかった。