撤収作業が終わったのは、夕方だった。
段ボールは潰した。ゴミはまとめた。ポスターも剥がした。最後の最終確認もした。
もうこれ以上、学祭という単語を見たくない。
委員長が両手を上げて叫ぶ。
「解散!! みんなほんとにお疲れ様!!」
拍手と歓声が沸き起こり、実行委員たちがそれぞれの帰路に散っていく。
僕は腕章の跡が残った腕をさすりながら、神崎を振り返った。
「……終わったね」
「終わった」
「撤収班じゃない時間、作るんだよね?」
「作る」
即答。迷いゼロ。
神崎がバッグを持ち直して、さらっと言う。
「行きたいところ」
「うん……」
言ったはいいけど、いざ“行きたいところ”を決めろと言われると、やっぱり困る。
(僕、デートの経験値ゼロなんだけど)
デートじゃなくて、未満。そう、これはデート未満。
僕は心の中で自分に言い訳しながら、思いついた場所を口に出した。
「……カフェ」
「いいよ」
「え、即決?」
「伊吹が甘い物飲みたい顔してる」
「また顔で判断!」
「観察結果」
神崎は涼しい顔で歩き出す。
僕も隣に並ぶ。歩幅が合う。ここはいつも通り。なのに、胸だけがそわそわと落ち着かない。
(彼氏とカフェって、デートじゃない?)
未満、どこ行った。
◇
駅前のカフェは、夕方で程よく空いていた。
おしゃれな木のテーブルに、柔らかい照明、コーヒーの匂い。学祭のガムテ臭から解放されて、脳がすっきりする。
注文を済ませて席につくと、急に静かになった。
静かって、怖い。
今までずっと、作業と喧嘩と指示で埋まってたのに。
間を持たせなきゃって、変な焦りに駆られて、頭の中がぐるぐるする。
話すこと、あるはずなのに。
僕がメニューをいじいじしていると、神崎が口を開いた。
「疲れた?」
「疲れた」
「よかった」
「よかった!?」
「疲れてる顔、ちゃんと出てる」
「それ、褒めてない」
「褒めてる」
「褒め方が下手」
「伊吹に言われたくない」
いつもの押し問答が戻ってきて、僕は少しだけ安心した。
そのタイミングで、飲み物が来た。
僕はホットココア。神崎はブラックのホットコーヒー。
「神崎、苦いの平気なんだ」
「平気」
「人生も?」
「……うるさい」
神崎が珍しく照れたみたいに視線を逸らした。
(かわいい……)
いやだ。彼氏になった途端、いちいち可愛く見えるの反則。
◇
しばらく、二人で黙って飲んだ。
さっきの押し問答のおかげか、黙ってるのが気まずくなくなってる。
神崎がいると、空気が落ち着く。悔しい。
僕はココアを両手で包んで、ぽつりと言った。
「……神崎ってさ」
「ん」
「なんで、僕のこと、そんなに気にしてくれるの」
神崎の指が、カップの取っ手で止まる。
「……気にしてるように見える?」
「見える。めちゃくちゃ見える」
「……普通」
「普通じゃない」
僕が言うと、神崎は一瞬黙ってから、小さい声で言った。
「好きだから」
さらっと言うな。
胸がまたうるさくなる。
でも、前より怖くない。
「……そういうの、急に言うのずるい」
「ずるくない」
「ずるい」
神崎が小さく息を吐いて、少しだけ目を細めた。
「伊吹も言えば」
「……え?」
「俺だけ言うの、ずるいだろ」
その理屈、正しいのが悔しい。
僕は目を逸らして、小声で言った。
「……好き」
神崎が一瞬固まって、それから、わかりやすく嬉しそうな顔をした。
嬉しそう、って言っても、ほんの少し口元が緩むだけ。
でも、それが僕には致命傷。
「……よし」
「言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が笑った。
その笑いが、胸の奥をくすぐる。
◇
カフェを出て、夜の駅前を歩く。
人は多いけど、学祭ほどじゃない。
冬っぽい冷たい空気が頬に当たって、頭がすこし冴える。
信号待ちで立ち止まると、神崎がふいに言った。
「手」
「え?」
「寒い」
「寒いけど……?」
神崎が視線を逸らしたまま、小さい声で言う。
「……繋ぐ?」
また自習室の時みたいな、逃げ道付きの言い方。
僕は心臓がうるさいのに気づかないフリをして、わざと意地悪く聞いた。
「それ、撤収班ルール?」
「違う」
「彼氏の権利?」
「……お願い」
お願い、って言えるのがずるい。
僕は小さく頷いて、神崎の手に自分の手を滑り込ませた。
指が絡む。
手のひらが温かい。
神崎の指先が少し震えてるのがわかって、僕は思わず笑った。
「……神崎、緊張してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してるってば」
神崎が、ようやく大人しく認めた。
「……してる」
「素直」
「今だけ」
「今だけって言うな」
神崎が僕の手をぎゅっと握った。
「離すな」
「命令形やめて」
その返事が一秒遅れて、僕の耳に届いた。
「……お願い。離さないで」
言い直すところが、ずるい。
(……デート未満って言い訳、もう無理だ)
僕は顔が熱いのを誤魔化して言った。
「……離さないよ。彼氏だし」
神崎が一拍置いて言う。
「彼氏って、いい」
「何が」
「その言葉」
神崎の声が小さくて、でも真剣で。
その真面目さに胸がぎゅっとなる。
「じゃあ、もっと言う?」
僕が冗談っぽく言うと、神崎が真顔で頷いた。
「うん」
「真顔で肯定するな!」
神崎が笑って、でも次の言葉は、静かだった。
「……これ、夢じゃないよな」
僕は思わず足を止めそうになった。
「え」
「学祭が終わっても、撤収が終わっても、伊吹が俺の隣にいる」
神崎が僕をまっすぐ見つめる。
「……だから、嬉しい」
僕は言葉が出なくて、ただ握った手に少しだけ力を込めた。
「……神崎」
「ん」
「僕も、嬉しい」
神崎の目が一瞬だけ大きくなって、すぐ柔らかくなる。
「……よし」
「だから言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が声を立てないように笑った。
その笑いが、今までで一番近い気がした。
◇
いつもの通り、僕たちは家の前で立ち止まる。
「帰宅連絡」
「はいはい」
いつもの儀式。
でも今日は、ちょっとだけ違った。
神崎が手を離さないまま、少しだけ言いにくそうに言った。
「……明日も会う?」
心臓がピクンと跳ねた。
会うに決まってる、なんて、恥ずかしくて言えないけど。
「……会う」
「よし」
「そこは言うのやめて!」
「やめられない」
「努力して!」
「努力する」
言いながら神崎は、僕の手を一瞬だけ強く握ってから、名残惜しそうに離した。
僕は玄関のドアを開けながら、振り返って言った。
「……おやすみ、蓮」
神崎が一呼吸置いて、小さい声で、でもはっきりと返した。
「おやすみ、悠真」
名前が、胸に落ちて、温かく広がった。
撤収班じゃない時間は、確かにあった。
そしてたぶん――これから、もっと増える。
僕はドアを閉めて、自分の部屋に上がってからスマホを見た。
もう通知が来ている。
【神崎:帰宅】
(なんで先に送ってくるの)
僕は思わず笑いながら返信した。
【伊吹:帰宅しました】
段ボールは潰した。ゴミはまとめた。ポスターも剥がした。最後の最終確認もした。
もうこれ以上、学祭という単語を見たくない。
委員長が両手を上げて叫ぶ。
「解散!! みんなほんとにお疲れ様!!」
拍手と歓声が沸き起こり、実行委員たちがそれぞれの帰路に散っていく。
僕は腕章の跡が残った腕をさすりながら、神崎を振り返った。
「……終わったね」
「終わった」
「撤収班じゃない時間、作るんだよね?」
「作る」
即答。迷いゼロ。
神崎がバッグを持ち直して、さらっと言う。
「行きたいところ」
「うん……」
言ったはいいけど、いざ“行きたいところ”を決めろと言われると、やっぱり困る。
(僕、デートの経験値ゼロなんだけど)
デートじゃなくて、未満。そう、これはデート未満。
僕は心の中で自分に言い訳しながら、思いついた場所を口に出した。
「……カフェ」
「いいよ」
「え、即決?」
「伊吹が甘い物飲みたい顔してる」
「また顔で判断!」
「観察結果」
神崎は涼しい顔で歩き出す。
僕も隣に並ぶ。歩幅が合う。ここはいつも通り。なのに、胸だけがそわそわと落ち着かない。
(彼氏とカフェって、デートじゃない?)
未満、どこ行った。
◇
駅前のカフェは、夕方で程よく空いていた。
おしゃれな木のテーブルに、柔らかい照明、コーヒーの匂い。学祭のガムテ臭から解放されて、脳がすっきりする。
注文を済ませて席につくと、急に静かになった。
静かって、怖い。
今までずっと、作業と喧嘩と指示で埋まってたのに。
間を持たせなきゃって、変な焦りに駆られて、頭の中がぐるぐるする。
話すこと、あるはずなのに。
僕がメニューをいじいじしていると、神崎が口を開いた。
「疲れた?」
「疲れた」
「よかった」
「よかった!?」
「疲れてる顔、ちゃんと出てる」
「それ、褒めてない」
「褒めてる」
「褒め方が下手」
「伊吹に言われたくない」
いつもの押し問答が戻ってきて、僕は少しだけ安心した。
そのタイミングで、飲み物が来た。
僕はホットココア。神崎はブラックのホットコーヒー。
「神崎、苦いの平気なんだ」
「平気」
「人生も?」
「……うるさい」
神崎が珍しく照れたみたいに視線を逸らした。
(かわいい……)
いやだ。彼氏になった途端、いちいち可愛く見えるの反則。
◇
しばらく、二人で黙って飲んだ。
さっきの押し問答のおかげか、黙ってるのが気まずくなくなってる。
神崎がいると、空気が落ち着く。悔しい。
僕はココアを両手で包んで、ぽつりと言った。
「……神崎ってさ」
「ん」
「なんで、僕のこと、そんなに気にしてくれるの」
神崎の指が、カップの取っ手で止まる。
「……気にしてるように見える?」
「見える。めちゃくちゃ見える」
「……普通」
「普通じゃない」
僕が言うと、神崎は一瞬黙ってから、小さい声で言った。
「好きだから」
さらっと言うな。
胸がまたうるさくなる。
でも、前より怖くない。
「……そういうの、急に言うのずるい」
「ずるくない」
「ずるい」
神崎が小さく息を吐いて、少しだけ目を細めた。
「伊吹も言えば」
「……え?」
「俺だけ言うの、ずるいだろ」
その理屈、正しいのが悔しい。
僕は目を逸らして、小声で言った。
「……好き」
神崎が一瞬固まって、それから、わかりやすく嬉しそうな顔をした。
嬉しそう、って言っても、ほんの少し口元が緩むだけ。
でも、それが僕には致命傷。
「……よし」
「言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が笑った。
その笑いが、胸の奥をくすぐる。
◇
カフェを出て、夜の駅前を歩く。
人は多いけど、学祭ほどじゃない。
冬っぽい冷たい空気が頬に当たって、頭がすこし冴える。
信号待ちで立ち止まると、神崎がふいに言った。
「手」
「え?」
「寒い」
「寒いけど……?」
神崎が視線を逸らしたまま、小さい声で言う。
「……繋ぐ?」
また自習室の時みたいな、逃げ道付きの言い方。
僕は心臓がうるさいのに気づかないフリをして、わざと意地悪く聞いた。
「それ、撤収班ルール?」
「違う」
「彼氏の権利?」
「……お願い」
お願い、って言えるのがずるい。
僕は小さく頷いて、神崎の手に自分の手を滑り込ませた。
指が絡む。
手のひらが温かい。
神崎の指先が少し震えてるのがわかって、僕は思わず笑った。
「……神崎、緊張してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してるってば」
神崎が、ようやく大人しく認めた。
「……してる」
「素直」
「今だけ」
「今だけって言うな」
神崎が僕の手をぎゅっと握った。
「離すな」
「命令形やめて」
その返事が一秒遅れて、僕の耳に届いた。
「……お願い。離さないで」
言い直すところが、ずるい。
(……デート未満って言い訳、もう無理だ)
僕は顔が熱いのを誤魔化して言った。
「……離さないよ。彼氏だし」
神崎が一拍置いて言う。
「彼氏って、いい」
「何が」
「その言葉」
神崎の声が小さくて、でも真剣で。
その真面目さに胸がぎゅっとなる。
「じゃあ、もっと言う?」
僕が冗談っぽく言うと、神崎が真顔で頷いた。
「うん」
「真顔で肯定するな!」
神崎が笑って、でも次の言葉は、静かだった。
「……これ、夢じゃないよな」
僕は思わず足を止めそうになった。
「え」
「学祭が終わっても、撤収が終わっても、伊吹が俺の隣にいる」
神崎が僕をまっすぐ見つめる。
「……だから、嬉しい」
僕は言葉が出なくて、ただ握った手に少しだけ力を込めた。
「……神崎」
「ん」
「僕も、嬉しい」
神崎の目が一瞬だけ大きくなって、すぐ柔らかくなる。
「……よし」
「だから言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が声を立てないように笑った。
その笑いが、今までで一番近い気がした。
◇
いつもの通り、僕たちは家の前で立ち止まる。
「帰宅連絡」
「はいはい」
いつもの儀式。
でも今日は、ちょっとだけ違った。
神崎が手を離さないまま、少しだけ言いにくそうに言った。
「……明日も会う?」
心臓がピクンと跳ねた。
会うに決まってる、なんて、恥ずかしくて言えないけど。
「……会う」
「よし」
「そこは言うのやめて!」
「やめられない」
「努力して!」
「努力する」
言いながら神崎は、僕の手を一瞬だけ強く握ってから、名残惜しそうに離した。
僕は玄関のドアを開けながら、振り返って言った。
「……おやすみ、蓮」
神崎が一呼吸置いて、小さい声で、でもはっきりと返した。
「おやすみ、悠真」
名前が、胸に落ちて、温かく広がった。
撤収班じゃない時間は、確かにあった。
そしてたぶん――これから、もっと増える。
僕はドアを閉めて、自分の部屋に上がってからスマホを見た。
もう通知が来ている。
【神崎:帰宅】
(なんで先に送ってくるの)
僕は思わず笑いながら返信した。
【伊吹:帰宅しました】



